うろ覚えライフ。

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山本小鉄さん逝く

2010年08月30日 | スポーツログ

 

「鬼軍曹」元プロレスラーの山本小鉄さん死去

 

     元プロレスラーの山本小鉄(やまもと・こてつ、本名山本勝=まさる=)さんが28日、低酸素性脳症のため死去した。 

 68歳だった。告別式は近親者で行う。

 日本プロレスに入門後、1972年、新日本プロレスの旗揚げに参加。後輩を厳しく指導した「鬼軍曹」として知られ、引退後は解説者や、タレントとしてテレビで活躍した。

 

 山本小鉄さんはものすごく真面目な人だったらしいですね。多分、昔気質の頑固一徹、根性の人だったんでしょう。

 力道山、最後の弟子。日本のプロレスの父、力道山が亡くなったのは63年ですよね。ちょっとはっきり憶えていないけど、63年暮れだっけか。64年正月?やっぱ63年暮れ頃だっけかな。山本小鉄さんのプロレス入門は63年。直接、力道山先生から教えを受けたかどうかは解らないけれど、力道山プロレス道門下、最後の弟子ですよね。

 この時代になると力道山はもう実業家の顔もあったから忙しくて、新弟子に直接指導したりはしていなかったかも知れない。この時分の力道山は毎日の試合でエキサイトするために試合前に薬を打っていた、というウワサがある。この時代って38歳くらいかな、力道山。調べもせず、うろ覚えの記憶だけで書いていて、申し訳ないんですが、この当時はリキパレスという総合レジャー施設を作ったり、スチュワーデスさんと結婚もしたし、古巣の大相撲の重鎮と接触を図ったりと、次のステップアップを考えていた時期だから、ましてや大人気TV放送プロレスの唯一絶対エースだし、超多忙、力道山は直接、新弟子の稽古を着けることはしてなかっただろうなあ。

 ヘビー級の山本小鉄さんは身長は170センチくらいしかなくて、入門当時は小さ過ぎて、常に門前払いで、最後まで諦めずに力道山に直談判、そのしつこさの鋼鉄の意志で入門が出来たんだそうだ。

 ヤマハブラザース、山本小鉄さんは、僕の記憶に残る印象は、プロレスラーとしてよりも、古館伊知郎アナウンスのワールドプロレスリング新日本の実況中継で、名解説者として時折エキサイトしながらも実況していた山本小鉄さんだよなあ。

 というのも僕が子供時代育った地方では、ローカル局でプロレスの放送はTBS系列の国際プロレスだけだったからだ。僕が中二か中三くらいの時に、NET(現在のテレ朝)系列のワールドプロレスリングの放送が始まって、猪木他の試合が見れるようになった。多分、この時初めてヤマハブラザースを見たのだろうけど。ヤマハブラザースのプロレスはあんまり印象に残っていないなあ。当時の少年漫画誌のプロレス漫画で読んで、ヤマハブラザースは知ってはいたんだけど。

 旧日本プロレスを追放されたアントニオ猪木を助けて、1972年だっけか、猪木の新日本プロレス立ち上げに甚大な加勢をする。いわば猪木の縁の下からのつっかえ棒的存在、だったのかな。猪木の支え役、ですね。当時の新日、営業本部長、新間寿氏といい、猪木という人間には人望があったんですね。もう一人の全日のジャイアント馬場さんも違うタイプの人望を持ったリーダーだったけど。

 馬場、猪木という、日本のプロレスの、カリスマリーダーのキャラクター比較をすると面白いかも知れないな。両雄の往時をよく知る人たちの話を詳しく聞いて。力道山というリーダーも居るが、時代が時代だし出自もあるだろうし、後年ムチャクチャな面があったからなあ。単純に比較するのはどうかなあ‥。馬場・猪木リーダー比較論、は面白そうだな。誰か、知識人、発表してくれないかなあ。三沢や長州を入れても面白いけど。前田日明も。

 山本小鉄さんだったなあ。鬼軍曹、山本小鉄。ストロングスタイルのプロレスに誇りを持った、頑固一徹、曲がったことの大嫌いな根性の人、山本小鉄。

 昭和の時代から平成、21世紀へ。小鉄さんのような不器用だが真っ直ぐな昔気質な人間は絶滅種になりつつあるんだろうな。寂しいですね。

 御冥福をお祈りいたします。

コメント
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