■かつては自民党と裏では支え合って55年体勢という茶番劇を演じていた旧社会党は、社民党と名前を変えた今も社民党公式サイトに「私たちは目指します。憲法の理念が実現された社会を」と高らかに謳っている政党なのですが、多くの議員が民主党に逃げて行ってしまい吹けば飛ぶような弱小政党となったものの、立派に6名の衆議院議員を擁しております。因みに阿部知子・吉泉秀男・重野安正・照屋寛徳・服部良一・中島隆利の皆さんなのですが、この中で誰一人として「違憲だ」と言われて議員を辞するつもりは無さそうです。更に指摘すれば社会民主党宣言には「私たちは目指します。人々が支えあい、尊重しあう社会を」とも書かれているのですが、小さな御山の大将の座を巡って分不相応な内輪揉めをしているのは笑止千万でありますなあ。産経新聞が『貧窮問答歌』とうまい表現で社民党の内情を報じておりました。
国会議員わずか10人の小所帯ながら1月の党首選で激しい不協和音を響かせた社民党に新たな危機が迫っている。半世紀近く党本部として利用してきた「社会文化会館」(千代田区永田町)の老朽化が進む中、資金難で建て替えができず、党本部退去を余儀なくされているのだ。24、25両日の党大会で提案するというが、新役員選出さえままならない中で賛同を得られる見通しは立っていない。5選した福島瑞穂党首の貧窮問答歌はまだまだ続く…。
■この種の話はどこの政党にとっても他人事ではなく、迷惑なスギ花粉を運ぶ春風と一緒になって選挙風が何処からともなく吹き始める今日この頃ですから、「明日は我が身」でとても笑ってはいられないでしょうなあ。思い返せば、1990年(平成2年)前後に当時の日本社会党委員長は憲政史上初の女性党首でにあった土井たか子さんで、何をどのように勘違いされたのか?原因不明の人気を博しまして1989年の第15回参議院議員通常選挙では先の悔いても悔やみきれない政権交代選挙と同様に自民批判票を掻き集めて大勝利!与党は過半数を割って続く1990年の第39回衆議院議員総選挙でも自民党は「泣き面に蜂」で一方の社会党は大躍進を遂げたのでした。世にいう「マドンナ旋風」という奇怪な現象でありました。後の小泉チルドレンや小沢ガールズの大先輩に当たるおばちゃん議員が退去して国会に乗り込んで、「主婦感覚」だの何だのと空恐ろしい空理空論を振り回したのでありました。
■嗚呼、思えばあの短い1年が旧社会党にとっては「我が世の春」で、1991年の統一地方選挙ではあっ気なく大敗して土井委員長は引責辞任し、1993年の第40回衆議院議員総選挙に挑んでみればマドンナ議員は枕を並べて討ち死にし党の議席は半減。冷戦時代もとうの昔に幕を下ろして社会主義イデオロギー政党の賞味期限はとっくに切れていたこともありまして、泥舟と化した旧社会党は内輪揉めと分裂を繰り返して今に到るのであります。そう言えば土井委員長の後釜に座った村山富市さんが第81代内閣総理大臣に任命されるという椿事もありましたなあ。任期は1994年(平成6年)6月30日から1995年(平成7年)8月8日までで、1995年は言わずと知れた年明け早々1月17日に阪神淡路大震災、3月20日にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こったのであります。東日本大震災と原発大事故に対応できずに紙くずのように官邸から掃き出されてしまった菅アルイミ首相に比べれば、村山元首相は立派に震災対応が出来ていたと変な褒められ方をするマスコミもありますが、比較する事自体が虚しいような気もします。
■さてさて村山政権時代も今は昔のお話で、現在の社民党は文字通りに風前の灯なのであります。
皇居に臨む三宅坂に面する社会文化会館は昭和39年に完成した地上7階地下1階のビル。敷地は約1700平方メートル。688席を有する三宅坂ホールもあり、旧社会党は自らを「三宅坂」と名乗っていた。55年体制下では人の行き来が絶えず、平成元年の参院選では土井たか子委員長(当時)の「おたかさんブーム」で大勝。一時は衆参両院で約200人の議員を抱える大所帯となった。ところが、平成8年1月、社民党に党名変更後は鳴かず飛ばず。支持者の多くは民主党に流れ、党が使用しているのは2、4両階だけ。他フロアは節電のため消灯し「お化け屋敷」と揶揄(やゆ)されるようになった。
民放のドラマ撮影などに貸し出し細々と収入を得てきたが、メンテナンスを怠ったこともあり、建物の老朽化が進み「大地震が来れば極めて危険な状態」(党幹部)だという。建て替えも検討したが、資金調達ができず断念。国有地に建っているため国に借地料を支払わねばならず、営利目的で貸し出すことも難しい。
悩んだ末に党執行部は会館からの退去を決断。24、25両日に日本教育会館(東京都千代田区)で開かれる党大会で重野安正幹事長が党本部移転を提案、了承を求める段取りだという。……
■「メンテナンスを怠った」というのは旧社会党自体に関しても言い得て妙だと申せましょう。薄く広く全国からコアな支持票を掻き集めてやっと比例区で当選している党首が政党自体の現状を象徴しておりましょうなあ。選挙が近づけばただでさえ乏しい議席を持ち逃げされて政党としての構成要件を満たせなくなるかも?
だが、懸案はそれだけでない。先の党首選のシコリはまだ残っており、党役員人事が難航しているのだ。福島氏は重野氏を再任させる考えだが、5選阻止に動いた照屋寛徳国対委員長や阿部知子政審会長らは「党勢を衰退させた責任は大きい」と幹事長交代を要求して一歩も引かない。とはいえ、10人の小所帯では、人事での融和策といっても選択肢はわずか。
中立派の又市征治副党首を幹事長に起用すれば反福島派も矛を収める可能性はあるが新鮮味ゼロ。しかも党首と幹事長がともに参院議員という事態となる。衆院1回生の服部良一国対副委員長を幹事長に起用すべきだとの意見さえある。
強気の福島氏は阿部氏らと「手打ち」にする考えはないようだが、党役員人事までゴリ押しすれば阿部氏らが離党する可能性もある。人も建物も失えば、社民党は正真正銘の「幽霊政党」になりかねない。
2012年2月22日(水)7時55分 産経新聞
■「党勢を衰退させた」のは誰か一人の責任ではなさそうですし、役員人事をどんなにいじくり回してみたところで社民党の支持者が突如として増加し始める可能性は皆無でしょう。そもそも護憲政党の金看板を揚げているのに「違憲議員」が7人もいるという異常事態を何とも思っていないのは、つくづく無責任野党の悲しくも卑怯な体質を晒しているようなものです。さてさて、東京都直下地震で社会文化会館という時代遅れの建物が崩壊するのが先か、或いは冷戦時代の亡霊として次の選挙で政党自体が消滅するか、馬鹿馬鹿しい内部対立の激化で分裂騒動でも起こして党を解散することになるのか、いずれにしても格好悪い最後になることだけは確かなようでありますなあ。幽霊屋敷に住み着いた「幽霊政党」、これも冗談が過ぎてホラーになった話と申せましょうが、元々、この政党には選挙区で落選して比例区で復活当選した「ゾンビ議員」の比率が異様に高かったのではなかったでしょうか?お後がよろしいようで……。
国会議員わずか10人の小所帯ながら1月の党首選で激しい不協和音を響かせた社民党に新たな危機が迫っている。半世紀近く党本部として利用してきた「社会文化会館」(千代田区永田町)の老朽化が進む中、資金難で建て替えができず、党本部退去を余儀なくされているのだ。24、25両日の党大会で提案するというが、新役員選出さえままならない中で賛同を得られる見通しは立っていない。5選した福島瑞穂党首の貧窮問答歌はまだまだ続く…。
■この種の話はどこの政党にとっても他人事ではなく、迷惑なスギ花粉を運ぶ春風と一緒になって選挙風が何処からともなく吹き始める今日この頃ですから、「明日は我が身」でとても笑ってはいられないでしょうなあ。思い返せば、1990年(平成2年)前後に当時の日本社会党委員長は憲政史上初の女性党首でにあった土井たか子さんで、何をどのように勘違いされたのか?原因不明の人気を博しまして1989年の第15回参議院議員通常選挙では先の悔いても悔やみきれない政権交代選挙と同様に自民批判票を掻き集めて大勝利!与党は過半数を割って続く1990年の第39回衆議院議員総選挙でも自民党は「泣き面に蜂」で一方の社会党は大躍進を遂げたのでした。世にいう「マドンナ旋風」という奇怪な現象でありました。後の小泉チルドレンや小沢ガールズの大先輩に当たるおばちゃん議員が退去して国会に乗り込んで、「主婦感覚」だの何だのと空恐ろしい空理空論を振り回したのでありました。
■嗚呼、思えばあの短い1年が旧社会党にとっては「我が世の春」で、1991年の統一地方選挙ではあっ気なく大敗して土井委員長は引責辞任し、1993年の第40回衆議院議員総選挙に挑んでみればマドンナ議員は枕を並べて討ち死にし党の議席は半減。冷戦時代もとうの昔に幕を下ろして社会主義イデオロギー政党の賞味期限はとっくに切れていたこともありまして、泥舟と化した旧社会党は内輪揉めと分裂を繰り返して今に到るのであります。そう言えば土井委員長の後釜に座った村山富市さんが第81代内閣総理大臣に任命されるという椿事もありましたなあ。任期は1994年(平成6年)6月30日から1995年(平成7年)8月8日までで、1995年は言わずと知れた年明け早々1月17日に阪神淡路大震災、3月20日にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こったのであります。東日本大震災と原発大事故に対応できずに紙くずのように官邸から掃き出されてしまった菅アルイミ首相に比べれば、村山元首相は立派に震災対応が出来ていたと変な褒められ方をするマスコミもありますが、比較する事自体が虚しいような気もします。
■さてさて村山政権時代も今は昔のお話で、現在の社民党は文字通りに風前の灯なのであります。
皇居に臨む三宅坂に面する社会文化会館は昭和39年に完成した地上7階地下1階のビル。敷地は約1700平方メートル。688席を有する三宅坂ホールもあり、旧社会党は自らを「三宅坂」と名乗っていた。55年体制下では人の行き来が絶えず、平成元年の参院選では土井たか子委員長(当時)の「おたかさんブーム」で大勝。一時は衆参両院で約200人の議員を抱える大所帯となった。ところが、平成8年1月、社民党に党名変更後は鳴かず飛ばず。支持者の多くは民主党に流れ、党が使用しているのは2、4両階だけ。他フロアは節電のため消灯し「お化け屋敷」と揶揄(やゆ)されるようになった。
民放のドラマ撮影などに貸し出し細々と収入を得てきたが、メンテナンスを怠ったこともあり、建物の老朽化が進み「大地震が来れば極めて危険な状態」(党幹部)だという。建て替えも検討したが、資金調達ができず断念。国有地に建っているため国に借地料を支払わねばならず、営利目的で貸し出すことも難しい。
悩んだ末に党執行部は会館からの退去を決断。24、25両日に日本教育会館(東京都千代田区)で開かれる党大会で重野安正幹事長が党本部移転を提案、了承を求める段取りだという。……
■「メンテナンスを怠った」というのは旧社会党自体に関しても言い得て妙だと申せましょう。薄く広く全国からコアな支持票を掻き集めてやっと比例区で当選している党首が政党自体の現状を象徴しておりましょうなあ。選挙が近づけばただでさえ乏しい議席を持ち逃げされて政党としての構成要件を満たせなくなるかも?
だが、懸案はそれだけでない。先の党首選のシコリはまだ残っており、党役員人事が難航しているのだ。福島氏は重野氏を再任させる考えだが、5選阻止に動いた照屋寛徳国対委員長や阿部知子政審会長らは「党勢を衰退させた責任は大きい」と幹事長交代を要求して一歩も引かない。とはいえ、10人の小所帯では、人事での融和策といっても選択肢はわずか。
中立派の又市征治副党首を幹事長に起用すれば反福島派も矛を収める可能性はあるが新鮮味ゼロ。しかも党首と幹事長がともに参院議員という事態となる。衆院1回生の服部良一国対副委員長を幹事長に起用すべきだとの意見さえある。
強気の福島氏は阿部氏らと「手打ち」にする考えはないようだが、党役員人事までゴリ押しすれば阿部氏らが離党する可能性もある。人も建物も失えば、社民党は正真正銘の「幽霊政党」になりかねない。
2012年2月22日(水)7時55分 産経新聞
■「党勢を衰退させた」のは誰か一人の責任ではなさそうですし、役員人事をどんなにいじくり回してみたところで社民党の支持者が突如として増加し始める可能性は皆無でしょう。そもそも護憲政党の金看板を揚げているのに「違憲議員」が7人もいるという異常事態を何とも思っていないのは、つくづく無責任野党の悲しくも卑怯な体質を晒しているようなものです。さてさて、東京都直下地震で社会文化会館という時代遅れの建物が崩壊するのが先か、或いは冷戦時代の亡霊として次の選挙で政党自体が消滅するか、馬鹿馬鹿しい内部対立の激化で分裂騒動でも起こして党を解散することになるのか、いずれにしても格好悪い最後になることだけは確かなようでありますなあ。幽霊屋敷に住み着いた「幽霊政党」、これも冗談が過ぎてホラーになった話と申せましょうが、元々、この政党には選挙区で落選して比例区で復活当選した「ゾンビ議員」の比率が異様に高かったのではなかったでしょうか?お後がよろしいようで……。