旅限無(りょげむ)

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猥褻(わいせつ)を考える 其の弐

2005-06-30 00:09:48 | 社会問題・事件
其の壱の続き。

■高等裁判所が、懲役刑を罰金刑に変えたのは、これ以上の審議を継続したくはないという意志の表れでしょう。再び最高裁判所が「猥褻の定義」を示さなければならなくなったりすると、非常に困るのではないでしょうか?半世紀以上前の定義を再提示するのか、時代の変化に迎合してハードルを下げるのか?下げるとしたら何処まで下げるのか?もしも、1951年度の定義に普遍性が有ると言い張るのならば、現在出版中の週刊誌はほとんどが猥褻物に指定可能になります。東京都が音頭を取って、コンビニ店に並ぶ「有害図書」には立ち読み防止のセロテープが付けられるようになりましたが、これも奇妙な話です。バブル時代に一世を風靡(ふうび)したビニ本という透明な袋詰めの写真集と同じ「効果」を狙っているのならば分かりますが、青少年の目から猥褻物を隠すのが目的ならば、「売らんかな」の表紙が放置されているのも奇妙なら、セロテープが付いていない雑誌の水着写真や裸写真は猥褻物ではないというのも奇妙です。

■先ほどの三つの定義を厳格に適用すれば、話題のIT長者さん達のほとんどが御白州に引き出されて、何人かは懲役刑に処せられてしまうでしょうし、多くの雑誌や幾つかのテレビ番組も怪しくなって来ますぞ!振り返ってみれば、日本中がテレビ受像機を争って購入したのは「美智子さまブーム」と「東京オリンピック」のお祭騒ぎに参加したいという国民感情が爆発したからでした。白黒テレビがカラー・テレビになり、大画面になる頃には家庭用ビデオ機器が追い付いて来ました。ベータかVHSかの業界喧嘩に決着がつくと、ビデオ・デッキは急速に普及し始めましたが、何を目的にして購入したのかは、公然の秘密だったようです。新商品の販売促進用に利用されたビデオ・ソフトの中に必ずアダルト・ビデオが混ぜてあったのは誰でも知っていることでしょう。何人かのビデオ長者が誕生したのは1980年代後半でした。

■ビデオ・ソフトから映像情報だけを抜き取って配信するのがインターネットですから、インターネットの急速な普及とIT長者の誕生は、ビデオ・デッキの普及時代とそっくりな現象だとすれば、利用者が何を求めているのかは明らかですなあ。口の悪い人は、IT長者はエロと金貸しで儲けているだけ、と断言しているようですが、確かに猥褻映像を「情報」と呼び、金貸しを「ファイナンス」と言い換えると、別の印象を受ける利用者がたくさんいるのでしょう。これは陰毛写真を「ヘア・ヌード」と和製英語に言い換えたのと同じ手法です。法律は文言を厳密に規定して運用するものですから、素早く名称を変えられると対応が遅れる欠点が有ります。条文に書かれていない名称ならば、しばらくは罪を問えないのです。その限界を知らずに、安閑としていると今回のような半世紀前の骨董品を引っ張り出して笑われるようなハメになりますなあ。

■ビデオの普及と「何でも買える」コンビニ店の展開で、社会は大きく変化したのです。猥褻物は商品である限り、小さな突破口を求めて何処へでも侵入しようとしていますから、司法が立ち遅れると混乱が深まります。今回の猥褻論争が、半世紀前ほどの盛り上がりを見せないのは日本の司法が物分りの良い体質に変化したのではありません。最初の猥褻論争が間違っていたことを反省せずに、事態を放置したことが原因でしょう。問題だったのは、猥褻か芸術かではなく、他の商品との扱い方の区別をどう付けるか、だったのです。芸術として認められたとなれば、これもあれも芸術だ!と強弁する輩(やから)が登場して、「芸術」が分からない子供達にも押し付けられることになります。

■セロテープで中途半端に封印されている裸写真の雑誌が平然と並べられているコンビニ店を、幼い子供を連れた親はどんな顔して歩いているのか、アルバイト店員は誰が何を買うのかには無関心ですから、酒や煙草を小中学生が買うことも出来そうです。どうやら、猥褻物を社会から抹殺でもしようとするかのような無茶な裁判に熱中している間に、猥褻物が持っていた特殊性が忘れられてしまったようです。これらは常に特殊な場所と時間を持っていたのです。それは、トイレに似ている存在なのです。人が生きるには程度の差こそ有っても必要な物であるけれど、茶の間や台所とは区別された場所に置かれて、一定の使用方法が有るものなのです。こうした区別を取り払うような誤りを犯したのが、かつての猥褻論争だったような気がしますなあ。

■このままの状態で、裁判員制度が導入されると、個人的な猥褻感覚を告白させられることになりますぞ!いくつかの世代を跨(また)いで男女が集まり、摘発された作品を鑑賞して、猥褻かどうかの判定を下す作業は大混乱になりそうです。「社会通念」だの「普通の感覚」などという曖昧な基準で判定することなど不可能です。いつの間にか漫画雑誌の表紙に乳房の大きな娘さんが掲載されるようになり、テレビCMで女性下着が登場して、水泳にはまったく適さない「水着姿」という名の裸同然の女性が意味も無く歩き回る世の中で、猥褻裁判は行なわれるのです。一つの作品を猥褻だと判断すれば、あれもこれも猥褻になってしまいますし、同様に猥褻ではないと判定すれば、何でも有りになってしまいます。

■問われているのは、猥褻作品の扱い方なのであって、猥褻物の存在を許すかどうかではないのです。その扱い方が、まだ日本人には分からないことが問題なのです。猥褻物だけに取り囲まれた生活をしている内に、世の中のすべての物が猥褻物に見えて来て、トンデモナイ犯罪に走ってしまう夢見がちな若者や、いい年をしたオジさんが続出するのが現在の日本です。海外の性的異常者とは全く違う趣味の持ち主ですから、外国の対応を真似ても混乱が深まるばかりです。江戸時代あたりからも猥褻物の取り扱い方法を勉強し直さないと、とても対応は無理でしょうなあ。困ったことです。今回問題となった『密室』とかいう漫画も、書いた人や売った人の罪を問う前に、何処で誰に対して書いて売っていたのかの方が重大な問題だと考えることから始めるべきではないでしょうか?そのあたりから始めないと、教育現場で「まぐわい方」を教えるかどうかなどという奇怪な議論も続きますし、子供の売春や痴漢電車の問題も解決しないでしょうなあ。

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