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旅限無(りょげむ)

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日本語の根っこ 其の伍

2007-02-13 15:58:43 | 日本語
■日本語は、基本概念のほとんどを漢字で表わして「てにをは」でつないで文章化する言語ですから、漢字を知らないのなら、文章や発言の材料が無い!という恐ろしいことを意味します。そして、日本人の歴史は、漢字から英語まで、外来文化を学び続ける歴史でしたから、どうしても外国から学ぼうとする気分が濃厚です。今でも、「英語が使える」という、本来は何の意味もない技術が、「賢さ」や「教養」と同義だと勘違いされています。同じ流れの中に、漢字を知らない=無知という構図が隠れています。『バカ』を含んだ本がベスト・セラーになったり、『脳力』ドリルが売れる世相には、社会と教育行政に任せていたら「バカ」になるのではないか?という潜在的な恐怖が隠れているのでしょうなあ。それなら個人的な防衛手段が必要となり、その努力の目安と動機となるのが「漢検」というわけです。

■学校が「英検」や「漢検」を利用するのは、文科省の天下り団体が実施している資格認定試験としては感心しませんが、やらないよりは良いと考えましょう。しかし、設定されている「級」に中高生の学年が対応しているかのような表記が見られるのは如何なものでしょう?それが本当なら、義務教育の小中学校の「卒業資格」試験にすべきでしょうし、それが無理だと最初から諦めているのなら、「漢検」ではなく国語の授業を倍増させて図書館の蔵書を10倍にする努力をした方が良いでしょうなあ。「英検」も「漢検」も決して安くない受験料を取るばかりか、学校の教科書とは別に「教本」「過去問題集」「予想問題集」などを買わねばならないのですぞ!これでは、学校での授業では間に合わない!と自分達が認めているようなものです。ですから、塾業界が動き出すのです。


漢検に熱心な塾も多い。個別指導を掲げる学習塾「東京個別指導学院」(東京)は「数学や英語に比べ、漢字は学力に関係なく、努力が結果につながる。漢検で自信をつけて学習面で伸びる子も多い」と説明する。同塾で最近目立つのは家族ぐるみの受験だ。同協会によると、家族3人以上で受験する「家族受験」は1039家族(05年度)で、5年前より6割以上も増えている。子ども以上に熱心になる大人も少なくないようだ。

■教育再生会議では、「塾を廃止しろ!」という勇ましい意見も出ているそうですが、こうした「漢検」の実情を見ますと、話が逆立ちしているのが分かります。既に学校が勉強する場所でなくなっていたからこそ、町中に塾が増えたのですし、更に「ゆとり教育」政策がそれを後押ししたのです。


埼玉県草加市の女性会社員(42)は小学生の娘と漢検に挑戦、準1級に合格した。娘は5年生の秋、3級(中卒程度)に合格。母親は「親子で並んで勉強する体験は新鮮だったようです。一緒に合格した時は喜びは2倍に。私だけ落ちた時は悔しかったけど、『大人だって努力せずに何でもできるわけではない』という貴重な体験を娘に伝えられました」と語る。

■「地域の力」だの「家族の絆」だのと、再生会議が作文していますが、こうした親子で「漢検」を受けるような動きは、商売熱心な塾から起こっているのです。役人の作文が大量に配布されても、こうした動きは始まらないのです。


すそ野をさらに広げそうなのがゲームだ。ニンテンドーDSlite用ソフトとして昨年11月発売された「200万人の漢検 とことん漢字脳」(2499円)は2カ月で約25万本が売れた。メーカーは「主な購入者は習い事好きの30代前後の女性。ゲーム感覚で漢字を覚えてみようという人が多く、やがては漢検受験へとなるかも」。

■本と辞書と紙と鉛筆、漢字を学ぶのに必要なのは昔から変わらないのですが、いろいろと新しい道具が商品化されているようです。それもこれも、学校から「習字」の時間が削られた末に消え去ったことと、戦後に大衆的な読み物から「振り仮名」が消え、奇怪な穴あき熟語の氾濫を経て熟語類の絶滅へと進んだからです。仮名文字さえ覚えたら、あとは辞書と帳面と鉛筆だけで幾らでも漢字の知識は増えて行ったのは、遠い昔の話なのですなあ。


漢検の始まりは、松下電工の営業マンで京都出身の大久保昇さん(71)が脱サラ後に貸しビルを建てた際、テナントの学習塾で子どもの国語力低下を耳にしたのがきっかけ。75年に協会を設立、漢検を開始した。初回受験者は672人だった。同協会は世相をあらわす「今年の漢字」を募集し、毎年末に清水寺で発表することでも有名だ。06年は「命」。こちらも漢検と同様「漢字文化の奥深さを継承することが目的」(同協会)。古都を本拠に漢字文化の復活が着々と実りつつある。▽漢検受験者の増加について国語学者の大野晋・学習院大名誉教授は「背景には学校での国語の授業数の不足と、不安があるのでしょう。学校での国語教育の充実こそ求めたい」と語っている。
2月3日 毎日新聞

■この記事には大切な事実が書かれていません。「漢字検定協会検」は立派な財団法人になっているのです。大久保さんは理事長さんだそうですが、組織内に何人の天下り役人が入っているのか?非営利団体のはずですが、これだけ話題になり受験専門の出版物が全国に溢れているのですから、これは巨大な利権となっているはずです。入り口は「漢字文化への憧れ」であっても、出口に文科省が管轄する入学試験が待ち構えているようになり、その間がすっぽり抜けているというのが無気味です。

■文科省が笛と太鼓と推薦入試の最大の武器に磨き上げた「英検」が、実際には何の価値も無い代物で、TOEICなど国際性の高い試験でないと役に立たない!と暴露された事も有ったのですが、文科省の縄張りは今でも強固です。これがチャイナの北京語や韓国のハングルとも無関係な「漢検」となれば、これこそ文科省の独占利権になるでしょうなあ。「漢検」を毎年受験するのは結構ですが、「傾向と対策」「頻出漢字」などと抜け道探しをするようなら、ちょっと手強(てごわ)い分厚い本に、辞書片手で挑戦した方が良いのではないでしょうか?でも、受験される皆様の「合格」はお祈り申し上げますぞ!


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チベット語になった『坊っちゃん』書評や関連記事

日本語の根っこ 其の四

2007-02-13 15:58:14 | 日本語

キーボードをたたけば漢字変換してくれるIT時代に、なぜか「日本漢字能力検定(漢検)」が大はやり。年3回ある試験の延べ受験者数は254万人(06年度見込み)。5年前の1.5倍に増えている。過去の受験者は4歳から94歳まで。4日の試験は79万人が受験する予定だ。……「世界遺産」や「江戸文化歴史」など検定ばやりの昨今、ブームの担い手は中高年層だが、漢検は違う。受験生の45.7%が中学生、32.4%が高校生。これに小学生の12.4%を加えると全体の9割。「本を読まなくなった」「漢字が書けない」といわれる今どきの子どもたちが、なぜ競って漢検を受けるのか。

■表音文字を使っている欧米諸国では「スペリング」大会が盛んですし、クロス・ワード・パズルの人気も根強いものがあります。文化的な豊かさを味わいながら社会生活を営むには、ローマ字ような表音文字であろうと漢字のような表意文字であろうと、それらが書き表す一定量の単語(概念)が必要なのは同じです。その数は3000とも言われますし、5000は欲しいという意見も有ります。「キーボードをたたけば漢字変換してくれる」のは、実に便利ではありますが、コンピュータは人間の代わりに考えてはくれませんし、人間が知らない言葉を勝手に打ち出してもくれません。当たり前の話です。目に見える単語、耳に聞こえる単語の意味が分からない時、誰でも恐怖や羞恥を感じるでしょう。問題は、それを誤魔化すか誤魔化さないかという事です。知らない言葉も、忘れた言葉も、使えない言葉という意味では同じものです。

■教育は知らない言葉を学び覚えることでカリキュラムと卒業が制度化されていますが、忘れた言葉を調べて覚え直す作業は完全に「自己責任」になっています。『大漢和辞典』には5万余の漢字が網羅されていますが、その9割は、一生の間に一度も触れない漢字なのですが、それでも形と意味を眺めているだけでも楽しいものです。この5万という数にしても、実際に書き残された漢字に比べれば少ないのだそうで、新たに部首を加えたり、字体を変えたりしたものまで含めると30万を軽く越えるだろうとも言われていますなあ。それを「面倒くさい」と思うか、「面白い」と思うかで文字文化の楽しみ方がまったく違ってしまうでしょうが、よほどの変わり者か専門家でない限りは、30万の漢字を覚える必要も暇も有りません。

■しかし、漢字は数が多くて覚えるのにも不便だから、最終的には根絶やしにしろ!というのは暴論で、どうしたら不便を解消できるのか?を考える方が生産的です。特に、発音される音素が極端に少ない日本語の場合、同音異義語が多過ぎて、ちょっと凝った表現をされたら困ってしまうものです。元々、大陸から導入された漢字は、目で読んで文明を学ぶための道具だったのですから、耳で聞いただけでは分かり難い単語が多いのは当たり前の事なのです。ですから、聞いて分かる言葉と文字として認識して理解する言葉とを、きちんと分けて扱わねばならない事になります。確かに、明治の末から盛んになった「文言一致」運動には価値が有りました。しかし、読書量が減るのを放置して、日常的な口語を重視して文章を書き続けるとどうなるか?と考えるべきでしたなあ。

■文科省が教科書を薄くするという暴挙に出られたのは、漢字を削減する暗黙の全体が有ったからではないか?と疑っておりますが、更に基本的な知識も削り、練習問題や参考資料も削ったら、何も知らない「個性的な子供」に、幼稚で浅薄な意見を吐き出させるだけの恐るべき事態が起こるに決まっています。「ゆとり教育」は「詰め込み教育」の対概念として作られたもので、その諸悪の根元の中に「多過ぎる漢字」が含まれていたのでしょう。「漢字など知らなくとも良い」と明言してくれれば、もっと早く国民的な反旗が翻ったのでしょうが、お役人と御用学者の皆さんが作る文章には、良い事しか書かれませんので、最悪の事態になるまで政策は見直されないのです。


答えは入試。最近、漢検成績を内申書に加算したり、推薦入試で評価する大学や高校が増えている。「漢検は入試に有利」は今や受験界の常識となり、学校ぐるみで受験する中学や高校もある。漢検を実施する日本漢字能力検定協会(京都)によると、入試で漢検を評価する大学・短大は全国476校、国語や現代語の単位として認定する高校も776校に上る。海外でも46カ国で実施され、昨年度は約9500人が受験した。多くは日本人学校の生徒だが、中には米国の高校や韓国の大学が学校ぐるみで受講する例もあるという。

日本語の根っこ 其の参

2007-02-13 14:02:18 | 日本語

ゆとり教育を見直し、必要な授業時間を確保するとともに、学習指導要領を改訂し、国語力の育成、理数教育、道徳教育の充実…

■安倍新総理の所信表明演説自体が、大急ぎで「国語力の育成」に着手しなければならない事を証明していますし、ろくな数値も示さない気分先行の作文からは「理数教育」の必要性も危機的に感じられますなあ。「道徳教育」についても、安倍総理はじっくりと考えてみたら良いでしょう。取り合えず、首相に対する「教育の再生」を急がねばならないようです。でも、「ゆとり教育を見直し」と大見得を切っていたのに、国会での議論が始まると「その理念は正しかった」と言い出したとの報道も有りましたぞ!それなら所信表明演説がウソになってしまうのではないでしょうか?もう誰も演説自体を覚えていないのか、まったく、問題にならなかったようですなあ。


文化審議会(阿刀田高会長)は2日、敬語の種類や働きを見直した「敬語の指針」をまとめ、伊吹文明文部科学相に答申した。指針では、これまで「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の三つに分けていた敬語の種類を見直し、謙譲語を「謙譲語1」「謙譲語2」(丁重語)に、丁寧語を「丁寧語」「美化語」にそれぞれ細分化。従来の尊敬語と合わせて計5種類に分類した。

■本来なら、安倍政権の「教育再生」の追い風になるはずの提言なのですが、国民の多くは無視することに決めているようです。専門家の中からは、穏やかな拒否や柔らかい反対の声が上がっているようです。要するに、「そんな事をやっている場合か?」というのが民意なのでしょう。3種類を5種類に分けると、一体、どんな利点が生まれるのか?是非とも安倍総理御自身の発言を聞きたいところですが、授業時間を増やす!という教育再生の目的を達成しようと文科省のお役人が考えているのがこんな事ばかりだったら大変ですぞ!


目下の人をねぎらう意味の「ご苦労さま」を目上の人に使うなど、敬語の誤った用法が増えており、文化庁が昨年実施した「国語に関する世論調査」でも7割近くの人が敬語が難しいと回答している。同庁は指針で敬語の用法や働きを的確に理解してもらい、誤用を防ぎたい考えだ。同庁によると、敬語の5分類化は国語学の分野では多数意見になっているという。

■「死ね」「ごみ」「臭い」などの惨(むご)い単語が飛び交っている荒(すさ)んだ学校で育った子供たちの中には、間違った用法の「ご苦労様」でさえも使えない無礼者が大量に生み出されているのではないでしょうか?喜怒哀楽の感情を人間らしい言葉にして発する訓練が基本で、その次に、感謝や謝罪という社会性を帯びた言語表現が発達する。それから更に複雑な人間関係を反映させた「敬語」文化を身に付けて行くものでしょう。旧来の3種類には、境界線上の表現も有りましたし、使用する状況によっては別の種類と考えねばならない言葉も有ったようですから、科学的な対処法としては、細分化は正しい選択です。しかし、これを「ゆとり教育」を見直す再生の過程で、どのように活用するのか?それが問題でしょうなあ。


謙譲語1は、自分がへりくだって相手を高く位置づける(立てる)敬語で、伺う▽申し上げる▽お目にかかるなどが当てはまる。
謙譲語2(丁重語)は話し相手に自分側の行為を丁寧に話す敬語で、参る▽申す▽小社などが該当する。
例えば、本来高く位置づける必要のない弟に対して、「あす弟のところに『伺います』」では不正確で、謙譲語2の「参ります」を使用するよう説明している。

■「謙譲」というのは、自分を下げて相手を上げる言語文化です。これを自分を下げる「下げ方」を2種類に分けたという事のようです。でも、例として挙がっている「弟のところに参ります」は、「行きます」で充分なのではないでしょうか?「どちらにお出掛けか?」「はい、弟のところに参るところです」などという会話をしている人が居るのでしょうか?戦前の文学作品を読むための知識として学ぶなら、この分類は無駄でしょうなあ。それよりも、料理教室などで濫用される、野菜や魚に「~して上げる」表現や、サービス業界が勝手にマニュアル化して社会に垂れ流している奇怪な表現を摘発?するのが先決でしょう。


美化語は、「お酒」「お料理」などものごとを美化して述べる敬語を丁寧語から区分けした。文科省によると、敬語は学習指導要領上、小学校5~6年生と中学校2~3年生で指導事項に位置づけられ、従来の3種類で教えられている。美化語については、すでに中学校の一部教科書で記載されており、小学校でも同じ概念が紹介されているという。

■「お」を付けるのが「美化」というのも腑に落ちない解釈です。某所で愛用される「おビール」の扱いを検討して、過剰な「お」を駆逐する努力をする方が良いでしょうなあ。小中学校で行われる文法学の授業が面白くないのは、実際にはどんな文法学者も認めていない「学校文法」という妥協の産物が教材になっているからです。その裏舞台を生徒達に隠して教えなければならない教師が良い面の皮なのです。しかも、その裏事情をまったく知らずに教科書を棒読みしている困った教師が増えているというのが大問題なのです。

■「敬語」の教育に最も役立つのは、上質な戯曲・演劇をたくさん観ることです。最も悪影響を及ぼすのは、国民の国語力に対してまったく責任を感じていないテレビやラジオから流れ出す、メチャクチャな日本語です。子供は九官鳥や鸚鵡(おうむ)のように、周囲の言葉を写し取って自分の言語の基盤を作り上げてしまうので、うっかりするとトンデモない土台の上に大人の言葉を載せる悲喜劇の犠牲者になってしまう事が有りますぞ。演劇鑑賞が無理なら、国語の教材として小津安二郎などの退屈な?映画を見せるのも良いでしょうし、見事な会話が埋め込まれている文学作品をたくさん読む、それしか方法は無いでしょうなあ。


文化庁は今後、答申内容について、文科相の諮問機関「中央教育審議会」で議論してもらうよう働きかける。文科省も次期学習指導要領改訂で、敬語の分類を3種類から5種類に分けることなどを検討する。
2007年2月2日 毎日新聞

■どうせ、「敬語」を教室で扱えるのは1時間か2時間でしょうから、こうした会議は税金と時間の無駄だと思えます。それにしても、ラジオやテレビで耳にする国会での議論の中で飛び交う、メチャクチャな「敬語」の誤用には閉口してしまいますなあ。教育審議会に答申する前に、国会内で「敬語教室」を開いて議員さん達を生徒にして、その効果を実証したらどうでしょう?

日本語の根っこ 其の弐

2007-02-13 13:59:57 | 日本語

…安倍内閣の目指す日本の姿は、世界の人々が憧れと尊敬を抱き、子どもたちの世代が自信と誇りを持つことができるように、活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた「美しい国、日本」……

■「世界の人々」とは、一体、何処の国の誰を指しているのでしょう?隣から順に、大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・中華人民共和国…と西に向かっても、「憧れと尊敬」を感じてもらうのは大変そうですし、東に向かって米国となれば、まともな軍隊も持てない敗戦国を、あの国は金輪際、「憧れと尊敬」の思い出眺めることはありません。誰か、安倍総理に対して、「万が一、画餅(がへい)の安倍作文がことごとく実現する奇跡が起こった場合、何処の国の民が憧れたり、尊敬したりするのですか?」と質問すべきでしょうなあ。

■御本人は、「具体的なプラン」のつもりで読み上げたのが、以下の何処かで聞いたような話でした。


革新的な技術、製品、サービスなどを生み出すイノベーションと、アジアなど世界の活力を我が国に取り入れるオープンな姿勢により、成長の実感を国民が肌で感じることができるよう、新成長戦略……

■自らペンを執って文章を練ったと報道されていたのに、「革新的」と「イノベーション」と、同義語を一つの文に書き込む言語感覚が不思議だったのですが、「オープンな姿勢」などという動詞の「オープン」を強引に形容動詞にする陳腐な表現を平気で読み上げられる感覚も変ですなあ。そんな違和感を残したまま、「実感を…感じる」という恥ずかしい重複表現を、「革新」「イノベーション」「成長」「新成長」という同意語をしつこく並べて挟み込む、こんな「美しくない」日本語しか書けない首相ですから、誰も感動などしませんなあ。

■結局、引用した部分からは「美しい国」のイメージはまったく見えて来ませんから、別の箇所を調べてみましょう。


「美しい国、日本」を創っていくためには、我が国の「良さ、素晴らしさ」を再認識することが必要です。未来に向けた新しい日本の「カントリー・アイデンティティ」、即ち、我が国の理念、目指すべき方向、日本らしさについて、我が国の叡智を集め、日本のみでなく世界中に分かりやすく理解されるよう、戦略的に内外に発信する新たなプロジェクトを立ち上げます。

■「即ち」という接続詞は、「前に述べた事を別の言葉で説明しなおすときに用いる」ものなのに、「カントリー・アイデンティティ」などと御本人の造語なのか、官僚の入れ知恵なのか、日本語辞典にも英和辞典にも見当たらないカタカナ用語を掲げて聴衆の注意を喚起しようとでもしたのでしょうか?「土地、地方、地域、全領土、 国土、国、 国家、国民、大衆、 一般民衆…」などなどの意味を持つ英単語と、「 同一性、一致、同一人[物]であること、身元、正体、個性、独自性、主体性、自己、自分らしさ…」などの意味を持つ英単語を片仮名にして合体させたら、一体、どんな意味になるのかな?と思ったら、「我が国の理念」「目指すべき方向」「日本らしさ」の意味になるのだそうです。

■三番目の「日本らしさ」ならば心当たりも有りますが、他の二つは強引なこじ付けでしょうなあ。安倍総理は、「日本らしさ」という表現では独自性や新しさが感じられないので、これを「カントリー・アイデンティティ」と言い換えたかったのでしょう。しかし、「理念」「目標」などの意味を読み取るのは困難です。小泉前首相の音楽趣味も奇怪でしたが、安倍新総理の読書生活にも不安と違和感が有りますなあ。


新しい国創りに向け、国の姿、かたちを語る憲法の改正についての議論を深めるべきです。「日本国憲法の改正手続に関する法律案」の今国会での成立を強く期待します。

■「理念」「目指すべき方向」へと意味を拡張したのは、「国の姿」「国のかたち」を引っ張り出したかったからなのですなあ。そして、そのまま「憲法改正」の必要性を主張する流れになっているわけです。始めからそう言えば良いのに…と聴衆は興醒めでした。


お年寄りの世話をしている方や中小企業で働く方、看護師、消防士、主婦や、様々な職場、そして各地域で努力しておられる、数えきれない多くの方々が、毎日寡黙にそれぞれの役割を果たすため頑張っています。本来、私たち日本人には限りない可能性、活力があります。それを引き出すことこそ、私の美しい国創りの核心であります。今このときそれぞれの現場で頑張っておられる人々の声に真摯に耳を傾け、その期待に応える政治を行ってまいります。

■何だか「イノベーション」とは余り関係の無さそうな人々を列挙するのは偽善的な印象が強くて、地方の公民館あたりでは受けるかも知れない陳腐な話になってしまっていますぞ。ここまで読み直しても「美しい国」が見えて来ません。そこで、安倍政権が掲げる政策で「憲法改正」と双璧を成す「教育再生」へと演説は雪崩れ込んで行きます。

日本語の根っこ 其の壱

2007-02-13 13:59:26 | 日本語
■連休が明けたら、安倍内閣の支持率がまた下がり、一部では野党民主党の内閣を期待する数値の方が少しだけ上になったとか……。自民党内では、「ポスト安倍」の名前が実しやかに囁かれ、名指しされた人はにやにやしているとか……。さぞや民主党の方は盛り上がっているかと思いきや、国民が一番知りたい少子高齢社会を安心して通過できる政見は出て来ない、始めから不適当人事だった厚生労働大臣の柳沢さんが、経済政策のつもりで喋った比喩が気に入らないと、昔懐かしい「審議拒否」で墓穴を掘る始末!今ほど、国民は「美しい」「正しい」日本語に餓えている時は他にないくらいなのに、何処からもそれが聞こえて来ないようです。

安倍晋三首相は12日夜、東京都板橋区の東武東上線事故で殉職した宮本邦彦巡査部長の所属する警視庁板橋警察署を弔問した。講堂に安置された遺体の前で焼香し合掌。この後、宮本巡査部長の遺族にお悔やみの言葉を述べ、息子には「お父さんを見習って頑張ってください」と声を掛けた。弔問の後、首相は同署前で記者団に「危険を顧みずに人命救助に当たった宮本さんのような方を、首相として、日本人として誇りに思う」と語った。
2月12日 時事通信 

■板橋区では、御近所に親しまれ愛された「お巡りさん」の殉死に多くの人が集まって、ウソ偽りの無い涙を流し、心を込めた言葉が聞かれているそうです。交番に詰めている「お巡りさん」と、本署の立派な椅子に座って、キャリア組を取り囲んで団子になっているようなところでは、「警察の不祥事」が頻発しているのとは事情がまったく違うようです。人気取りの材料が無くて困っていた安倍総理は、「これこそが、美しい国の……」と叫んでみたくなったのでしょう。本来なら殉死の現場に花を手向ける映像を日本中に流したかったのでしょうが、身辺警護の問題なのでしょうなあ、混雑している現場には近づけず、安全な?デスク・ワークをしている本署を弔問することで我慢しなければならなかったようです。

■「美しい国」発言を、今か?今か?と待っていましたが、首相の発言がほとんど報道されていないようですぞ。これはどうした事なのだろう?と怪訝に思っていたら、側近とスタッフに恵まれない総理らしく、殉死した巡査部長・宮本邦彦さんの名前を知らずに弔問してしてしまったのが原因のようですなあ。首相は2度も3度も「ミヤケさん」という、何処の誰だか分からない人の名前を出しては、しみじみと哀悼の意を表したのだそうです。広い日本ですから、どちらかの三宅さんの御親族に不幸が有ってお弔いの最中だったのかも知れませんが、殉死したのは宮本巡査部長です。心より、ご冥福をお祈り申し上げます。合掌

■言葉の問題として考えますと、名詞、特に固有名詞を間違えると、どれほど豊かな語彙を縦横に使って発言を飾り立てても、喋っている人がアホに見えてしまう上に、発言全体もウソだと思われてしまうものです。今回、安倍総理が「別人弔問」などという失礼で恥ずかしいパフォーマンスに及んだ目的が、「教育の再生」を国民に訴えるためだったわけではないのでしょうが……。安倍首相が主張する「美しい国」は、具体性が無い!抽象的な表現が多過ぎる!と評判がよろしくないのですが、確かに、ちょっと評判になった新書本では、誰でも「嫌だな」と思うに決まっている事柄を引っ張り出しては、「…ではなく」と続けておいて、概(おおむ)ね対義語と思われる言葉を使った表現で受ける手法で述べられるので、単調かつ冗長で退屈な印象は拭(ぬぐ)えません。かと言って、目くじら立てて否定してしまおうとしても、一見すると良い事ばかりが並んでいるので、喧嘩の材料にはなりません。しかし、良い事ばかりを並べると、互いに矛盾して衝突する項目も出て来ますし、そんな物を気の向くまま、筆の向くままに書き並べると、元も子も無くどころか、最悪のカオスを生み出す危険も有りますから、ご用心、ご用心。

■ここで、安倍総理が誰かさんの助けを借りて文章化した「美しい国」を所信表明演説から引用しておきましょう。

日本語ブームは本物か? 其の参

2006-12-13 08:30:42 | 日本語
■世界中に「親日派」を得ようと画策すると、角が立ったり反発を呼んだりしますが、「知日派」をじっくりと育てて増やす工夫を粘り強く続ければ、それは目立たず反感も買わず、後に大きな成果を得られるのです。しかし、この区別を付ける眼力が日本政府には無いような気がして仕方が有りません。

日豪関係をそれぞれのサイドから眺めると、日本にラブコールを送り続ける豪州の“思い入れ”の強さに対し、日本側には熱い思いが欠けているようにも映る。しかし、現実には日本にとっての豪州の存在感は確実に増している。イラク・サマワでの自衛隊活動に対する豪州軍の支援もそのひとつ。ダウナー外相はリップサービスも交え、「日本の憲法上の制約は理解している」「真の同盟国は負担を分け合うものだ」と語った。日本が豪州に大きな借りをつくったことだけは間違いない。

■この指摘は重大です。陸上自衛隊のイラク派兵が、取り合えずは無事に終了したのは、オーストラリア軍の支援が大きかったことを日本のマスコミはあまり報道していませんでしたなあ。陸上自衛隊がイラクで何をしているのか、それを詳細に報道するのはテロの標的になる恐れが有るからという理由で禁じられていたそうですが、「非戦闘地域」なのに変な話でした。その延長線上にオーストラリア軍やイギリス軍に守って貰っている自衛隊の実態が隠されていたというわけでしょうなあ。


米国が「中国主導、米国排除の枠組み」と強い懸念を表明した東アジア共同体構想にしても、インドを含めた豪州の参加によって、米国が安堵したことは確かだ。米国は今年2月、4年ごとの国防見直し(QDR)を明らかにしたが、その中で英国と豪州の2カ国を「特別な関係」と名指しした。両国については作成過程から関与させており、時折ブリーフィングを受けるだけの日本との違いは一目瞭然(りょうぜん)である。米国がアジア太平洋地域で最も頼りにする同盟国は日本ではなく、実は豪州なのだと指摘する専門家は少なくない。「最近、政治家のキャンベラ詣でがすごい。こんなことは初めて」。キャンベラの日本大使館関係者は驚きを隠さない。日本側も徐々にではあるが、豪州の存在の重さに気づき始めた表れともいえる。豪州もまた、そこに日本取り込みの活路を見いだしている。日本としても豪州をアジア太平洋地域における重要な戦略パートナーとして関係を深め、いかに活用していくか、今後の大きな課題となろう。
9月2日 産経新聞


■「今後の課題」でしょうか?いろいろと不便と不快と不安を我慢していた老後の蓄えが終わるまでは「美しくない日本」にしがみ付いていた人達が、続々と海外に安住の地を求めて脱出中です。その数、毎年、30万人を越えているとか……。例の「シルバーコロンビア計画」の残滓(ざんし)でもあろうし、いよいよ日本はダメになるかも?と戦後の激変を体感して来た団塊の世代が実感しているのでしょうか?逃走組が選ぶ移住先の第一位がオーストラリアなのだそうですが、そこの第二言語が北京語圏になると長期計画で暮らしている人達も戸惑う事でしょう。国会議員の中にも英語の使い手が徐々に増えてはいるようですが、日本語を外交に使えるほどの見識を持っている議員さんは見当たらないような気もします。

■詐欺師は国内産で間に合っていますから、日本語で詐欺を働く外国人が増えるのは困りますが、あらゆる方面での労働者不足が起こるのは目に見えているのですから、自国語以外の言語を習得する努力を惜しまない人材が秘めている可能性を利用しない手は有りません。文科省の変な教育を受けている内に、日本生まれで日本育ちの日本人が、どんどん日本語能力を低下させるのを尻目に、日本人よりも日本語の上手な若者が続々と来日するような事になったら、文科省は喜ぶのでしょうか?それとも、大いに反省して初めて戦後教育の見直しに踏み切るのでしょうか?

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日本語ブームは本物か? 其の弐

2006-12-13 08:30:12 | 日本語

今、台湾の若者の間で日本語がブームです!日本が大好きな若者のことを「哈日族(ハーリーズー)」と言い、日本のドラマを見たり、音楽や映画に親しんだり、日本語を勉強しようとしている若者が増えているのだそうです。そこで、台湾や中国などアジア各国で今、大人気の俳優チェン・ボーリンさんにインタビューしてみました。チェンさんは日常会話でも日本語を使っているのだそうです。例えば「ありがとう、どうも、すみません、最高、すげー」など。さらに、何にでも「超」をつけて「チャオ スワン=超すっぱい」などとも使っているのだそうです。

■台湾問題を日本語という切り口から考えると、ちょっと面白い国際感覚が養われでしょう。台湾は半世紀以上も日本語文化圏に属していた歴史を持っていますし、御高齢の台湾人の中には「最近の日本語は乱れておる!」と耳の痛いお小言を言って下さる方もいらっしゃいますぞ!この軽めの記事に紹介されている「日常会話」を喜んで良いやら、ちょっと恥ずかしいやら、なかなか複雑な思いでありますなあ。


これは、台湾政府の文化開放政策にともない、90年代から日本の文化がどんどん入っていったことが原因のようです。ケーブルテレビを通して放送される日本の番組を見た台湾の人たちは、無意識に日本語を覚えてしまうのです。人気ドラマの台詞を教材にした日本語教材で日本語を勉強したり、カラオケで日本のヒット曲を日本語で歌うなどをして楽しみながら覚えているのです。チェンさん自身、日本語を勉強されていて、そのきっかけは「漢字」だったそうです。また地理的にも精神的にも身近に感じると話してくださいました。文化は言葉から。同じアジアの仲間として、お互いの文化を理解しあいたいですね。
NHK「気になることば」(2005年9月2日)

■NHKの癖なのでしょうか?最近の台湾を無理やり歴史の流れから切り離して、妙に軽く明るく紹介しようとしているようです。台湾の日本文化は途切れることなくずっと継承されていた事実を無視すると、台湾での日本語ブームの歴史的な意味が分からなくなるでしょうなあ。蒋介石が逃げ込んで来てから、日本語廃絶に力を入れた歴史も有りますが、それで根絶やしには出来ない事情が台湾には有りました。そんな台湾国内の虚虚実実の駆け引きを見棄てたのが、米国の跡追いで断行された日中友好条約の締結でした。友好条約自体は目出度い事でしょうが、相手の言いなりに台湾と断行してしまったのが問題だったのでした。「日本語が上手な外国人」という乱暴な括り方は、歴史を忘れ去ってしまう危険が付きまといますなあ。


■海外で最も日本語学習が盛んな国はどこか。それがオーストラリアであることは意外に知られていない。日本の国際交流基金が2003年に実施した調査によれば、豪州の日本語学習者数は約38万人。実数で韓国の89万人、中国の39万人には及ばないが、人口比では50人に1人と世界一である。学習者のほとんどが初等・中等教育段階の青少年であることも特徴だ。国家政策としてアジア言語の優先的学習を推し進めた結果でもある。「主眼は言語運用能力の向上というより、異文化理解や国際理解」。

■ここに出て来るオーストラリアというのが、海外の日本語学習事情の重要な要素になっています。まさかとは思いますが、オーストラリアに日本語学習者が多いという話が聞こえて来た頃、日本はバブル経済に突入しつつありました。そんな時に日本政府が打ち出したのが『シルバー・コロンビア計画』という奇怪なアイデアでしたなあ。国際版の「姥捨て山」ではないのか?!と移住先に指名された国からは直ぐに反発が起こった悪名高い、老後は海外で!というふざけた政策でした。それも忘れては行けない歴史的な事実ですぞ。


同基金シドニー事務所の長谷川雅代さんは豪州側の狙いを解説する。ブームの背景には、最大貿易相手国の言語という経済的事情を否定できないが、長谷川さんは「日本のポップカルチャー、特にアニメや漫画などへの関心が若者の間に高いことも動機」と日本の好感度の高まりを指摘した。しかし、その日本語学習者数も、最近は横ばいないし微減状態なのだという。原因は日本語教員の高齢化で退職が相次ぐ一方、予算不足から補充が追いつかないためだという。

■こうした所にも、日本政府は長期的な戦略の不在が露呈します。外国を相手にして始めた政策は、勝手に止めたら国際信義を失うことになるのです。景気の良い時には、日本語教育に協力するとの名目で、あれこれと予算を付けて教師や教材を送っていたのに、それが細って行けば日本のイメージが悪くなるのは当たり前の話です。


これについて日本側からは特段の支援申し出はないと聞いた。代わって存在感を増しているのが中国である。70年代初頭に白豪主義から多文化主義へと大きく政策転換して以降、豪州にはアジア諸国からの移民が大量に流入した。中でも中国、ベトナムなどからの華人系移民は今や80万人にもなる。シドニーをはじめ豪州の主要都市には、必ずといっていいほど中華街が形成されており、中国語が日常生活に飛び交っている。

■これは「蟻の一穴」のレベルを超えた大きな問題です。アジアを理解しようとしているオーストラリアという重要な駒が、日本語を捨てて北京語に変わって行くのですぞ!東南アジアに広がる華人社会が強い吸引力と影響力を及ぼして、北京語圏がじわじわと広がって行きます。これを大問題だと騒がないのは変ですなあ。

 
民間シンクタンク、ロウィー研究所が最近実施した世論調査によると、日本は好感度の高い国としてニュージーランド、英国に次ぎ第3位。しかし中国もまた、9位の米国を引き離して5位と日本に肉薄している。これについて豪外務貿易省北アジア局幹部は、中国が強硬に反対した日本の国連安保理常任理事国入りを豪州が一貫して支持してきたことを指摘し、「経済以上に重要なことはある。中国との経済関係は重要だが、価値観を共有する日本との関係はもっと重要だ」と日本に秋波を送った。

日本語ブームは本物か? 其の壱

2006-12-13 08:29:38 | 日本語
■日本語の最前線は出版業界と教育界でしょうか。ラジオが地味ながら孤塁を守って、新聞業界やテレビ業界が第二戦線を守っているような順番になるでしょうか?人によってはテレビが第一だ!という意見も有るでしょうが、世の中にはテレビをほとんど見ないで暮らしている日本人も、案外と多いようですぞ。しかし、それならば本を読む人が増えているのか?と言うと、年間に1冊も本を読まないという日本人が、残念ながら恐ろしい勢いで増えているという話が有ります。昔は読み・書き・算盤でしたから、「イロハ」に始まる仮名から漢字へと膨大な読書生活が始まったものですが、今も入り口は同じなのに何故か先細りになってしまうようです。もしかすると売ると、昔の手習いにあった「模倣」が廃れた事に原因が有るのではないか?などとも考えているのですが……。

■模倣が悪で、創造が善というような大きな誤解が教育界に広まって、よたよたと模倣をする段階を飛び越えて、習字を省略して「鑑賞」を始めるような流れが有りませんかな?それも明治以来の「お上から頂いた教科書」信仰みたいなものが生きているらしく、学校が読め!と命じた文章は徹底的に賞賛しなければならない不文律が有るような気がします。ところが鑑賞しなければならない教材が、古典ではなくて誰が選んだのか分からない「新作」だらけなのですから、本当に褒めて良いのかいなあ?と首を傾げたくなるような作品も紛れ込む危険が有りますぞ。

■誰が言ったか「詰め込み主義」は大間違いとかで、名文・名歌の類を暗誦する文化も廃れてしまい、好きな本や好きな文という大切な財産を持たない日本人が随分と増えたようですぞ。まあ、思わず書き写して何度も読み直したい文章に出会わないことが問題なのかも知れませんが……。


日本語を母語としない人が対象の日本語能力試験が3日、日本を含む世界48カ国で実施され、約53万人が受験した。若者の日本語ブームを背景に受験者が年々増加している中国は今年、前年比46%増の21万1591人が受験し、過去最高だった。日本国内では日本国際教育支援協会、海外は国際交流基金が年1回、試験を実施する。外国人が日本の大学に留学する際の選考にも活用される。急速な経済発展に伴い、日系企業の進出が増加している中国では、日本語ができる人材の需要が高まった。若者の就職難も続いており、「日本語ができると就職に有利」として、日本語学習がブームとなっている。

■都市部の大きな書店でないと『日本語能力検定試験問題集』は手に入らないようですので、外国人がどんな問題を解いているのかを知らない日本人が多いはずです。英語検定に準じて級が上がって行くのですが、最上級の問題を一度は覗いていることをお勧めいたしますぞ。まあ、語学の検定試験は国籍や肌の色とは無関係なので、努力した者にはそれをしていない「ネイティブ」は適わないのですから、特に日本語ばかりが危機的なのではないというのも事実です。万難を排して日本国内で英語を学び続けた人達の中にも、英米人が脱帽するほどの英語読みの達人や作文会話の名手もたくさん居ますからなあ。こういう理屈が分からない困った人が、変なナショナリズムを振り回して、「○○人でもない者が、○○語が分かるはずが無い!」などと無責任に放言したりするものです。


日本語能力試験では中国の受験者数が世界最多。今年の受験応募者数は、海外では韓国(9万3750人)が中国に次ぐが、米国が2816人、フランス1187人、英国781人と、中国の多さが際立っている。中国では04年、受験申し込みの受け付け開始から1時間もたたずに定員(約10万人)に達した。受験できず留学を先送りせざるを得ない学生が続出し批判が高まった。このため05年に中国国内の受験会場を14都市から24都市に増やし、今年はさらに29都市に拡大した。
毎日新聞 12月4日

■研修生制度などという、ややこしい仕掛けを捻り出して日中友好を急いだ経緯が有りましたが、その後始末もしないまま、不法滞在問題や違法雇用問題が日本のあちこちで起こるという「モグラ叩き」が続いています。WTOに加盟した以上、北京政府も国際的な評判を気にしますし、学生側でも危ない橋を渡らずに済むのなら、そして学習環境が整っているのなら、正規の資格試験を受けようと思うようになるのは自然の流れではあります。草の根運動として地道に日中友好に努力して来た人達には、中国の受験生が増えたのは喜ばしい事でしょうが、その裏には日本政府の失政による「失われた20年」が有る事を忘れてはなりません。この大問題は大勲位の中曽根さんにお出まし願って、詳細な点検をしなければならないのですが……。

図書館危篤

2006-12-12 17:25:34 | 日本語
■政府は維持になって景気が良くなった、と数字のマジックを使っては宣伝しておりますが、本音は弱いものイジメの予算削減と増税をするための言い訳を積み重ねているだけだという、非情に説得力の有る説も流布しております。これだけ子供殺しが連日報道され、地方自治体の財政破綻だの汚職だの、富の偏在と権力の濫用を証明する事件が頻発すれば、真面目に地道に働くのが馬鹿馬鹿しくなって、現金自動預け払い機にワイヤーを引っ掛けてみたくなったり、社会的な弱者を標的にして電話や葉書を使った詐欺でもやって、面白おかしく暮らしてみたいなあ、などと本気で考える若者が育つのも無理はないかも知れませんなあ。
 
■路上の引ったくりや振込み詐欺の標的になるのは老人や御夫人ばかりだと聞きますから、卑怯旋盤な心根の卑しい文化が蔓延しているのでしょう。それに加えて万引きと呼ばれる窃盗が増えて困っているという話も有ります。仕入れ値を押さえ少しでも値引きをして客を呼び込もうと必死の小売店が取り揃えた商品を、好き勝手に盗まれたらぎりぎりの経営をしている店などひとたまりも無く倒産でしょうなあ。その代表格が町の本屋さんだというのは、亡国を予感させる恐ろしい話です。しかも、盗み出される本というのが高価で手が出ないけれど、どうしても読んでおかねばならない名著、と呼べない使い捨て文化の代表のようなコミック本とも聞きますぞ。

■勿論、世界に冠たる漫画文化を育んだ日本ですから、何度も読み直して味わいたい素晴らしい作品も多いのですが、たった1年も持続しない話題と流行に乗っただけのコミック本が、町の書店から抜き取られて、ろくに字も読めない愚か者の目の前を一度だけ通過して後は、新型の古書量販店に持ち込まれたり、ネット・オークションに出品されるという噂であります。作品の価値ではなく、時価の交換価値だけで右から左に動いて行く本は可哀想ですなあ。昔の名著は、先輩から後輩へ、親から子へ、或いは祖父母から孫へと現物が手渡されたものでした。それは家の財産でしたから、いろいろな書き込みや赤線も引かれていても問題は無く、受け継いだ者が先人の読み方を知る大切な目印ともなっていましたなあ。自分で購入した本を読み返す時にも、以前の自分の至らなさや浅はかさを反省する便(よすが)となるので、ちょっとした書き込みをしておく人は多いでしょう。

■しかし、時は流れて大量生・大量消費の時代が続くと、物を粗末に扱う愚か者が増えてしまうようで、他人の物と自分の物との区別が付かない乱暴者も出て来てしまうもののようですなあ。


各地の公立図書館で、雑誌などから写真や記事を切り取ったり、専門書に蛍光ペンで線を引いたりするなど、図書を傷つける行為が増加している。中には、閲覧室で堂々と雑誌を切り取り、職員から注意されると「どうしていけないの」と反論する人もいる。公共の財産を傷つけてはいけないという最低限のルールを破る行為の横行に、図書館側は「社会全体のモラル低下の表れでは」とため息をついている。

■自分の物が増え過ぎると、だんだん世の中に存在する物は全部自分の物と思い込む弱点が、人間と言う欲深い生き物には備わっているのでしょうか?自分が欲しいと思った物は、その瞬間に自分の物になってしまう、何だか遠い昔に読んだ童話に出て来るような話であります。


東京都世田谷区の区立中央図書館(同区弦巻)で被害が目立ち始めたのは5年ほど前から。徐々に悪化し、資料係の越後信子係長は「最近では1日2、3件のペースで切り取りや書き込みが見つかる」と話す。
読売新聞 12月12日

■「教育の再生」だの「地方からの文化を発信」だのと、格好の良い政治スローガンが叫ばれる事も多いのですが、今、日本中の図書館が利用者の知らない所で決定した予算削減に喘(あえ)いでいるのを、こうした馬鹿者は知らないのでしょうなあ。今年度になって、多くの図書館が定期的に購入していた「雑誌」の数を大幅に削っているはずです。雑誌閲覧コーナーには、それぞれの雑誌専用の棚が設けられている図書館が多いと思いますが、最近、雑誌自体が置かれずに悲しい貼り紙が目立っていませんか?その多くは今年度の予算が執行され始めた4月や5月に、「購入を停止いたしました」というお知らせです。まさか、切り取り魔が大増殖したのに手を焼いて、その監視や補修の手間を惜しんで雑誌を減らしているわけではありますまいな?!

■図書館に行くと、その土地の文化の程度が一目で分かりますし、公務員の質も見極められるのが面白いところで、長年通っている人には、世の中の動きまで良く分かるという、非常に便利な施設が図書館です。館内に、「私語厳禁」「飲食禁止」などと書かれた貼り紙が有る所は、残念ながら民度は低いと申せませしょう。しかし、「切り取り禁止」「落書き禁止」「本を盗むな」などという紙が貼られるようになったら、そこは既に図書館の体をなしていないと考えても良いでしょうなあ。こういう貼り紙は、電車や駅構内にべたべたと貼られた「痴漢行為は犯罪です」と同じように、非常に恥ずかしい物なのですが、これを恥ずかしいと思わない連中が増えているのが実情なのでしょうなあ。図書館で本を守り、さまざまな文化活動に従事しておられる皆さんには頭が下がりますぞ。恥を忍んで貼り紙をしても、愚か者は読まないし、心ある人は悲しく情けない気分になってしまうでしょう。皮肉なものです。

■図書館に警察官が呼ばれて来るような時代にはなって欲しく有りませんが、切り取り野郎がやっている事は器物損壊の犯罪ですし、私語や飲食は迷惑条例違反かも知れませんから、それに対応するのは図書館員の職責の範囲を超えていることになりますなあ。雑務に忙しい学校で、図書館教育の基本を教え込む余裕は無いのかも知れませんが、ハコモノではない内容の充実した図書館を持っている地域は幸いです。悪名高い「ゆとり教育」プランの中には、学校を地域社会の再生の核にする!という妄想に近い計画も盛り込まれていたそうですが、その役目は学校よりも図書館が追うべきものでしょうなあ。つまり、日本が滅びるのも栄えるのも、地域の図書館が予告してくれるという事なのでしょうなあ。

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笑える異論・暴論

2006-11-28 10:09:08 | 日本語
■子供の給食費を支払わないアホで恥知らずな親が地方自治体の悩みのタネになっているとの報道が有りましたが、トンデモない親の発言の中に「義務教育だから給食費を支払う必要はないはずだ!」というのが有ったのには大笑いしてしまいました。やはり、美しい国を作るには国民の「国語」力を鍛え直さねばなりませんなあ。「義務教育」という言葉は中学校の社会科で学ぶ事項なのですが、アホな親の屁理屈を真面目に考えると、これは国語能力の問題のようです。つまり、「義務」と「教育」という二つの概念については屁理屈を並べて開き直れるだけの理解を示しているのですからなあ。さてさて、憲法学の講義をちょっとだけ……。

第一二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
     国民の不断の努力によつて、これを保持しなければなら
     ない。
     又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、
     常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第二六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、
     その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。
第二七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
第三〇条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。

■第26条で、国民は「教育を受けさせる義務」を負っているんだぞ!と定められています。アホ親の屁理屈はこの条文の主語「国民は」を意図的にか、無知故にか「政府は」に入れ替えているのでしょう。それも「政府の金」が「国民の(税)金」だという常識がまったく欠けているのです。従って、第30条の「納税の義務」をまったく知らないのでしょうなあ。まさか政府の予算は日銀が刷る紙幣が賄われているなどと誤解しているのではないでしょうな?!その程度の幼稚な知識では、第12条の「公共の福祉」などと言われても、さっぱり意味が分からないでしょうし、「自由と権利の濫用は禁止」などという崇高な話には付いて来れないでしょうなあ。

■単に給食費が足りなくなるばかりでなく、問題が起こっている自治体の教育委員会は、地元の社会科教育を根本的に見直さないと、エライことになりますぞ!こんな親に育てられた子供がそのまま大人になっては、地域にとっても国家にとっても大変な迷惑ですからなあ。給食費の手当てや徴収は専門機関の協力を得るとしても、「お前の親は大きな勘違いをしているぞ」と教えてあげなければ子供が可哀想です。勿論、教育行政は国家の責任のおいて運営されねばなりませんから、義務教育が円滑に進められるようにする責任は政府が負っているのですが、それは形式的な問題で、実質は保護者の親が、税金を支払う事で政府に我が子の教育を付託しているのです。この理屈を早急に「社会人教育」で実施しないと、モラルの大崩壊が起こる怖れさえ有りますぞ。何と恐ろしい話でしょう?でも、こんな暴論を振り回して地元の赤提灯で天下国家を論じて悲憤慷慨している人がいるのなら、大いに笑えます。

■第27条の「勤労の権利と義務」についても、美しい国・日本を作るためには大急ぎで学び直さねばならないのですが、格差問題と国際問題とのややこしい関係も有りますから、別の機会に考える事にします。


三重県警津署は27日、同級生から洋菓子を脅し取ったとして、いずれも津市内の中学3年の男子生徒(15)2人を恐喝容疑で逮捕した。中学入学当初からいじめによる恐喝を繰り返していたとみて捜査している。……2人は10月16日、同級生の男子生徒(15)に「誕生プレゼントにケーキを用意しろ」などと要求、同19日午後6時ごろ、津市白塚町の路上で洋菓子12個(計1万3400円相当)を脅し取った疑い。いずれも「ケーキは食べたが恐喝はしていない」と容疑を否認しているという。……学校が2人を含む同級生数人に事情を聞いたが、いずれも事実を否定したという。仕返しを恐れた男子は今月11日、「学校は冷たい。死にたい」などと担任の教諭に電話をかけて家出。……男子は中学入学当初から1回200円から2000円ずつ、計20数回にわたって恐喝行為を受けていたとみられる。……
毎日新聞 - 11月28日

■「ケーキは食べたが恐喝はしていない」と言い放った15歳は、吉本興業などに就職すれば良いかも知れません。あそこは犯罪を笑いに包んでうっかりすると正当化しているようなゲイも売り物にしているそうですからなあ。「強めに撫でたけど殴ってない!」「冗談は言ったが詐欺ではない!」「頭を殴ったが親しみの表現だ!」「殴る蹴るもゲイの内だ!」「警察沙汰も笑いのネタだ!」こうした暴論は、人間が陥る錯覚や誤解を鋭く抉り出して笑いに変えて、客をはっとさせる道化の芸とは無縁のものです。「笑わせる」のと「笑われる」のとは全然違う、と或る名人が言っていましたなあ。笑われるのは恥さえ忘れれば誰にでも出来ますが、後味が悪いものです。その上、弱い第三者を材料にしたりする卑怯な笑いも流行っているようなので困った物です。

■イジメ殺し事件も、言葉の本当の恐ろしさや力を知らないまま「死ね!」「消えろ!」と暴論で標的とした個人を追い詰めておきながら、自殺事件にまで発展した時に、「死んじゃった」と表現するアホが居るようです。自分が「殺した」と表現できない内は、イジメなど無くならないのでしょうなあ。もう少し言葉を正確に使う努力をしたいものです。

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白川静氏死去

2006-11-08 15:31:41 | 日本語

■「文化の日」の前日、新聞紙面の一面に白川静先生の死亡記事が掲載されました。拙著『チベ坊』では割愛しましたが、最終的にチベット語・文化に直接触れようと決意する切っ掛けとなった台湾からの留学生との交流を続けた長い時間の中で、「白川静」という名前の巨大さは圧倒的な意味を持っていました。人と人とが時間と距離を飛び越えてコミュミケーションを取れる唯一の道具は、長い長い間、「文字」だけでした。今は「音声」や「映像」を交換する技術が発達したのでコミュニケーションの様相は一変してしまったのですが……。それでも、1000年前の人、500年前の人と交流するには「文字」に頼るしか方法は有りません。

■後漢の時代に、許愼という恐るべき学者が大陸に出現しました。字(あざな)を叔重と言います。紀元58年から147年頃に生きていたと考えられている人物ですが、『説文解字』全30巻という恐るべき書物を1人で書き上げた学者です。この業績は漢字文化圏のバイブルとされて2000年近く知識人・読書人にとって絶対の権威となっていました。日本には諸橋『大漢和辞典』という畏怖すべき金字塔が有るのですが、白川静先生は真っ向から許愼に挑戦して『説文新義』という驚天動地の字書を発表します。台湾出身の優秀な留学生と共に、許愼と白川静を比較しながら甲骨文字を推理するという至福の時を過ごした体験は忘れられません。

■「巨星墜つ」の報に、いろいろな人が追悼文を書いていますが、白川先生と対等に語り合える人は日本ばかりでなく、広大な漢字文化圏には存在しません。時々?あまりにも大胆な推理を盛り込んでしまう若々しさに満ちている『字統』『字訓』『字通』の白川3大『字書』は、下手なミステリーを読むよりも遥かにスリリングな体験を約束します。言葉とは何だろう?文字とは何だろう?そんな根源的な問いに対して、問うた方が逃げ出すほどの芳醇な解答を雨霰(あられ)と打ち返して来るのが白川漢字学であります。表意文字と表音文字が入り乱れる東アジアの長大な歴史を掘り返し、日本語・チベット語・チャイニーズを比較していると、物心付いた時から「表意文字」と「表音文字」を併用して組み上げられた日本語を使っている身としては、表音文字だけで仏教文化を全て写し取ったチベット文化に対する興味は徐々に膨らんで、とうとう政治的な問題を蹴飛ばして現地に行って学びたい!と思うようになるのに十分な緊張感に満ちた芳醇な体験となったのでした。

■「白川静寂す」の大いなる余韻を味わっていた11月6日の深夜、文部科学省が突然の緊急記者会見を開きました。「豊」の字が付く場所でイジメに遭っている中学生と思(おぼ)しき生徒から大臣宛てに届いた「自殺予告作文」を公表する会見でした。子供染みたイタズラでないという前提で考えるべき切羽詰った内容のようです。しかし、命懸けの「作文」をあちこちのマスコミが取り上げて、ヒューマニズムに溢れる「死ぬな!」メッセージを商売に利用していたようです。同じマスコミが緊急企画と称して「教育問題」の特集番組をお手軽に制作して放送しています。大臣宛てに書かれた「文章」「手紙」「文字」を、冷静に見つめた時、同級生・担任教師・校長・教育委員会・文科省を相手に綴(つづ)られた「文字」の稚拙さと、文体の幼さが目に付いて仕方がないのに、マスコミは「自殺します」の一言に右往左往しています。

■書いた本人が中学生だったとすれば、義務教育を6年か8年は受けていることになります。今どきの子供はあの程度の文字と文章しか書けない、と先回りして認めてしまうと、折角盛り上がっている「教育再生」論議が時代遅れのイデオロギー論争に取り込まれて解体されてしまうのではないでしょうか?命を懸けた訴え!というので、「下手クソな字」「テニヲハが間違っている」などとは言えないマスコミ関係者の立場は分かりますが、あれが本当に自殺を予告する一世一代の「作文」だと考えたら、もっと勉強すべき事が山ほど有るよ、と言うべき人が居ても良かったような気がします。まだまだ学ぶべき事も、経験すべき事もたくさん有るのですから、窮鼠猫を噛んで血路を開くか、担任も学年主任も校長も助けにならないのなら、堂々と転校してしまうのも決して卑怯な選択ではありません。フリースクールに通う手も有りますし、中卒で就職して立派な社会人になって見せるのも良いでしょう。

■あの手紙の主が書いた通り、イジメる側はお構い無しで学校に残って酷い目に遭った方が苦しんだ末に学校を去るというのは、確かに理不尽であります。個性が「好悪の感情」と取り違えられ、自己主張や自己実現が嫌いな奴をイジメることと誤解され、変な平等主義が各分野でのリーダーの存在を認めないような風潮が蔓延してしまったのは問題です。一つの集団が有れば、それを構成する人々には各種の差異が有るのは当たり前で、それぞれの現場で劣っている者や弱い者は誰かが助けてあげねばなりませんし、少しでも優れている者は手を差し伸べねばなりません。それは取り立てて「親切」だの「善行」などと呼ぶべき行為ではなくて、当たり前の感情として育っていなければならない人としての心根でしょう。

■もしかしたら、学校内の職員の中で責任の所在が曖昧になってしまった結果が、生徒達の学校生活を混乱させているのかも知れませんなあ。問題が起こった時に対応すべき人や組織を整えるよりも、問題自体を隠蔽して「何事も無い」ことにしてしまった方が、一見、気楽にも思えますが、それは問題を更に大きくしてしまうだけなのですから、「それは私の責任です」とはっきりと言える体制作りが大切なのでしょう。亡くなった白川静さんは、大学紛争真っ盛りの時代にも朝から晩まで研究室で資料調べをしていたそうですし、学生との団体交渉の席でも泰然自若として参加したと言います。アホな学生が白川教授の発言を邪魔した時には、「人の話は黙って聴け!」と一喝したのだそうです。相手の話を一切聴かずに怒鳴るという無作法は、あの学生運動の中で生まれたようですなあ。

■その世代がマスコミの中心に進出した頃から、日本のテレビは凶暴で野卑になったような気もします。好き嫌いとは別に、相手の発言を聴くことや相手の立場と心情を忖度(そんたく)するという人間関係を支える最低限のルールが消滅したら、もともと、元気で乱暴なガキンチョたちが集まる学校という場所が残酷なジャングルになるのは当たり前だと、白川静さんの逸話を知って改めて考えさせられました。

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ちょっと文学を考える 其の参

2006-04-16 10:12:36 | 日本語
■島田さんの時評はいよいよ核心に入ります。

『暴力的な現在』(群像)の井口時男のコトバを借りれば、「もののあはれ」が壊れている。コトバのコミュニケーションの不備を補う保険としての「もののあはれ」が崩壊したあとには、その反動か、素朴な感情の流れを日記風に綴る「今清少納言」みたいな女性作家が大勢登場し、確実に読者を増やしていった。いま一度「もののあはれ」に回帰するにしても、結局は紋切り型に終始しなければ、日本人の集合意識に訴えることはできない。それをうまくやったのが、古くは川端康成であり、近過去では村上春樹であり、現在では、素人を「自分も書いてみたい」という気にさせた女性作家たちである。だが、戦わない作家は前線から退場することになる。今後、文学は何処へ向うのか?

■島田さんはパクリの閉塞状態になってしまった文学状況を、「若者とオヤジ中心の社会」の帰結と見ているので、それと対峙して壁を破る者は「ニート」「負け犬」「フリーター」と一括して呼ばれる人々、それに加えて「熟年離婚に踏み切るおばさん」ではないか?と予測しているようです。さてさて、今「読み易い」コトバを大量生産している書き手を乗り越える「ことば」を彼等が準備しているのかどうか?一生かかって読み直し続けねばならない作品も文学なら、さっさと一度目を通したら売り飛ばしたり棄てても惜しくない文章も文学と呼ばれます。確かに、どんなに稚拙な文章でも「もののあはれ」を宿している物ならば、読んだ後で腹が立ったりしないものです。しかし、「もののあはれ」が匂い立つような体験を得られる場所や時間、或いは出会いが保証されていないのなら、無闇矢鱈に凶暴な文章とスカスカの雑文しか出て来ないような気がしますなあ。

■目まぐるしく明滅するように現われては消えて行く作家群に、律儀に付き合っている暇が無い身として、島田雅彦さんの『文芸時評』は貴重な鳥瞰図を示し続けてくれたのですが、とうとう、好きな書き手を見付ける体験には結び付きませんでした。それは島田さんの「褒め方」や「売り方」が下手なのではなく、島田さんが稀代の書き手であると同時に優れた「読み手」なので、作品ごとに核心をてきぱきと処理して紹介してくれたからでした。「ははあ、そういう作品なのかあ」と分かってしまった後で、実際にその作品に接してみたくなるようなコトバが見付からなかったのでした。

■東京が情報発信機能を独占していた時代が終って、情報を消費する場所になっていた事に気付いている人達は、意図的に「近過去をパクリ」続けることで創作活動をしていると考えれば、地方や未成年をダシに使って似非創作活動の共犯者を増やしているとも考えられます。「格差社会」「中流の消滅」と騒がれる今どきの風潮の中で、100万部を越えるベストセラーが続出する事自体が奇怪なのです。海外のファンタジーが大人気になるというのも、幼児から育む土着性が日本から消えている証拠でもありますし、擬似東京を日本全国に作った後の廃墟が続々と生まれてしまった新世紀に、多くの人が80年代と90年代を不快感を持って回想しているようにも見えます。

■バブルとオウムの二つを並べただけで、奇妙な20年間を言い尽くせるとしたら、そこから発せられたコトバが強い生命力を持っていない事も容易に理解されます。何やら騒々しくも空疎な時間が流れたものです。偶然に70年代と80年代の節目と、80年代と90年代の境目、そして世紀末から新世紀への切れ目を、海外で過ごす体験をした身としましては、それぞれの10年間が綺麗に色分けされているのを実感しますなあ。80年代に日本はあらゆる意味でピークを経験してしまい、90年代からは坂を転がり落ちて行く恐怖を忘れようと、余り重たくないコトバや音楽を消費し続けているのでしょうなあ。

■島田さんの『文芸時評』を読み終えてから、『文豪の古典力』島内景二著(文春新書)を読み直したくなりました。『源氏物語』を明治以降の作家たちがどんな風に読んだのか?というテーマで近代日本語の変遷を追及した手強い論文ではありますが、「新刊」の暴風雨を避けて静かに読むべき本を考える視点を再点検するには良い本だと思います。「もののあはれ」が凝縮した作品として『源氏物語』を見直すと、騒々しい「パクリ」騒動から離れられるかも知れません。4月8日の朝日新聞別刷り「be」が、『『坊っちゃん』100年の遺産』という特集記事を掲載しまして、最後に拙著『チベット語になった「坊っちゃん」』も取り上げて頂きました。その記事の横に、井上ひさしさんが顔写真付きの囲みコラムを書いています。


『坊っちゃん』は3年に1度くらい読んでいます。何度読んでも面白い。文章に文語体と口語体が入り混じり、ついに口語体が生きた言葉として完成した時代の作品です。漱石はそこで落語を採り入れました。長年、日本人に親しまれてきた落語のボキャブラリーを生かし、多くの人に開かれた文章を提示しました。……

■文学作品と戯曲を次々と執筆している井上さんが、『坊っちゃん』を「3年に1度」は読んでいるというのは驚きです。しかし、読み返す作品を持っているというのは、読み書きを学んだ者には欠かせない楽しみであり、何よりの贅沢だと思いますなあ。そんな作品を持っている人物が身近にいる子供は幸せ者でしょう。それが親であるか、教師であるか、友人であるかによって作品は違うかも知れませんが、そういう人物がカッコ良い!と思える幼年期を持つか持たないかは決定的な意味を持ってしまいますなあ。

文豪の古典力―漱石・鴎外は源氏を読んだか

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坊っちゃん

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ちょっと文学を考える 其の弐

2006-04-16 10:12:18 | 日本語
■「好きな作家」を発見している暇が無いほど、毎日膨大な本や文章が「新発売」されているわけですが、それらが「似たり寄ったり」ならば、読んでも読まなくても大差は無いことになります。

ネット、新聞、広告、テレビ、現在売れ筋の映画、歌謡曲、小説からのコピー・アンド・ペーストを駆使し、自分の感情や恐怖や快楽さえもそれに合わせる。テレビ経由の感動、ネットや週刊誌にたきつけられた義憤、コマーシャルに煽られた欲望、いわば、小説の細部を埋めるコトバのほとんどが「パクリ」なのである。

言いたい事を一気に吐き出したような文章ですが、ここに羅列されたコトバの蜘蛛の巣から離れてコトバを身に付ける事は不可能なのも現実ですから、抜け道は無いのかも知れません。島田さんは「80年代」をキー・ワードにしているのですが、音楽界でもコンピュータを駆使した「サンプリング」という技術が爆発的に流行した時代でしたし、「パロディ」という言葉自体が使われなくなってしまった時代でした。


……マスメディアに流通したコトバをあえて誤読したり、意味を反転させたり、暴走させたりして、グロテスクなテクストを紡いでみせることで、「パクリ」の巧妙さを競うようになったが、その携行は25年前、高橋源一郎の登場により始まり、現代文学の前線になっていたのである。

■高橋源一郎さんに島田さんが特別な感情を持っているのか、本当に高橋さんが現代の文学史を画した存在なのかは判断が難しいところですが、「80年代」は文化や娯楽の市場が一気に低年齢化した時代、素人と玄人との境目がどんどん薄くなった時代だったのは確かでしょう。それが「パクリ」の大流行だったとしたら、それは戦後の日本が競って米国の「パクリ」を続けた結果なのかも知れませんなあ。それに続く「90年代」を島田さんはどう見るか?


ネット社会が成立した90年代後半になると、小説よりも禍々(まがまが)しい匿名の一人称語りが垂れ流されるようになった。しかも、それらは確実に人々の憎悪を拡大し、大きなうねりになる。中国や韓国の反日デモもネットから立ち上がるし、日本における反中国、反韓国の世論もネットで展開される。ナショナリズムも犯罪も自殺者もベストセラー小説も億万長者も全てネットから立ち上がる。

「禍々しい匿名の一人称語り」の代表はブログでしょう。アクセス・ランキングに現われる読み手の嗜好を想像すると、島田さんが恐れつつも呆れているコトバの現状が理解できそうです。『旅限無』もそんな禍々しい一人称語りになってしまっているかな?と警戒しながら反省してみる必要が有るかも知れませんなあ。しかし、島田さんが批判しているコトバは、『旅限無』が紡いで来たコトバとは違うもののようです。


だが、反中反韓で盛り上がるネチズンもネット犯罪に手を染める輩(やから)も、出会いサイトで恋人や自殺仲間を探す者も、デイトレードで億単位の金を稼ぐ学生や主婦も、社会を変えたいとか、復讐をしたいとか、政治活動や金儲けや犯罪に付き物だったそうした欲望も動機も希薄で、まるで「人生ゲーム」のコマを進めるように醒めている。

■本業が何だかさっぱり分からなかったホリエモン君が、自分をモデルにした『人生ゲーム』を販売していたのは象徴的な話でしょうが、世間を吃驚させたり心胆を寒からしめるような異様な犯罪が起こる度に、事の重大性がまったく実感されていない犯人の表情や言動に二度三度と驚かされるのも、自分の欲望さえも「借り物」になってしまった結果なのでしょうなあ。


あらかじめ敷かれたコースを辿り、にわか億万長者になったり、にわかナショナリストになったり、にわか犯罪者になったりする。小説の書き手も同じ空間から現われる。彼らにとってはコトバも金も愛もしょせん情報に過ぎない。彼らが繰り出すコトバからは素朴な喜怒哀楽が抜け落ちている。

読み継がれる文学作品や楽曲を残した偉大な精神は、得てして悲惨な人生を歩んで苦悩の末に破綻してしまった事を先回りして知ってしまえば、残された名声の表面だけを「パクリ」盗んで似非作家や似非音楽家にでもならないと安心出来ない、安全思考が平和で豊かな戦後社会の成果だったのかも知れませんなあ。


ちょっと文学を考える 其の壱

2006-04-16 10:12:01 | 日本語
■3月28日の朝刊掲載分を以って、朝日新聞に毎月連載されていた島田雅彦さんの『文芸時評』が終了しました。流行を追って小説本を読み漁るような趣味も習慣も無いので、こういう定期的にまとめて「文芸」を取り上げて貰えると、大いに助かります。最終回とあって、昨今の文学界を鳥瞰(ちょうかん)して辛口に切り分けてくれた島田さんは、相当に苛立っているようですなあ。

最後にこの場を借り、私の時評に傷ついた方々にはお侘び申し上げます。御免。

と神妙な終り方をしていますが、なかなか毒気の多い痛快な最終回でしたぞ。


近年、文芸誌以外の場からも書き手が続々登場している。……従来の文学賞が複数の選考委員の独断と偏見の結果、選ばれていたのに対し……選考段階から売れ筋を狙うマーケティングをかねている。

■島田さんが冒頭に取り上げているのは「Yahoo! JAPAN文学賞」です。ネット上に候補作を公開して「民主的」に人気投票をした上で、石田依良さんが受賞作を決定する仕組みなのだそうです。


せっかく売れ線の作品が応募されてきたのに、頑固な作家が拒絶し、陽の目を見なかったこともあるから、人気投票で文学賞を選ぶことは民主的だとはいえなくもない。

文学賞の裏話と言うと、筒井康隆さんの『文学賞殺人事件』という傑作が映画化までされましたなあ。心当たりの有る有名作家がうじゃうじゃと出て来る小説で、映画化された時には作者ご本人が銀座の酒場で「原稿料」について激高する熱演をしておりました。人が書いて人が読む、その間に商売として文学を扱う人たちが介在するのですから、理不尽な打算や感情が大きな影響力を持つことが、非常に良く分かる作品でしたが、ここで島田さんが奥歯に物が挟まったように、「いえなくもない」と書くのが問題なのです。


だが、受賞した藤堂絆の『アシタ』とそらときょうの『キヨコの成分』、また新潮エンターテインメント新人賞を取った吉野万理子の『秋の大三角』を読む限り、何もひっかるものがなかった。読み易く、破綻が無い。受賞者が好きそうな角田光代や江国香織や重松清の文章を模倣し、自分の身の回りのことを書いた結果、多くの読者が喜ぶ作品に仕上がった。文字通り民主的な作品!

■実も蓋も無いような切り捨て方ですが、全部の作品を律儀に読み通さなくても、読後の感想を予想させてくれる指摘ですなあ。題名も、名は体を表わしているようにも思えまして、とても分かり易い作品なのでしょう。


学校の作文でも現代国語の試験でも、教師や大人のニーズに応えて書くことが好成績につながる。市場のニーズに合わせられる子どもを育てるのが学校教育なら、彼らはその賜物(たまもの)だ。小学館は12歳のための文学賞を立ち上げ、小説家の低年齢化をさらに進めようとしている。……小学生向きに小説の書き方を指南する教科書でも書こうか?いや私などより、若手作家を次から次に褒め殺しにしている高橋源一郎の方が適任か?

「褒め殺し」とは穏やかではありませんが、随分前から文芸雑誌の購読者が減少しているのに新人の応募作品は増加しているとの報道が有りましたなあ。読まずに書いている!というのは、自由作文教育の成果なのでしょう。子どもが書いた物を読むのは子どもではなく、大人が商売に使って大人が客になる?これは幼児性愛を想像させるような異様な関係です。未熟な精神と言葉を楽しむ大人というのは、本当に大人なのかどうか、ちょっと心配になります。


実際、新人に対しては、「よく書けましたね」「上手にパクりましたね」という以外もはや何もいうことはない。新人賞の応募作を読む時、大学の成績評価のためにレポートを読むのと同様にデジャ・ヴュに悩まされる。なぜかくも意見やスタイルが似たり寄ったりなのか?

『坊っちゃん』危篤!

2006-03-28 14:49:42 | 日本語
■山籠もり中ではありますが、知人からの連絡で、四国松山の学生が漱石の『坊っちゃん』を読んでいないという調査結果が有るという衝撃的な事実を知りまして、新聞記事を調べて見ましたら、本当でしたぞ!何と調査対象となったのは愛媛県立松山東高校ではありませんか!私事ながら尊敬するK先生が奉職なさっている高校でもあり、1895年4月から漱石が英語を教えた『坊っちゃん』の舞台となったと考えられている学校ですから、これは本当に衝撃的であります。読売新聞の記事を引用します。

夏目漱石が教鞭を執り、『坊っちゃん』の舞台となった愛媛県立松山東高(旧制・県尋常中)の1年生のうち、同作を読んだ生徒は約4割で、約10年前の約7割を大きく下回っていることが、市民でつくる「松山坊っちゃん会」(頼本富夫会長)のアンケートでわかった。19日、松山市であった「坊っちゃん」100年記念愛媛大学シンポジウムで報告された。

■或る人の言葉に、「名作を読む目的は、それは読んだと言う為である」というような物が有りましたなあ。トルストイの『戦争と平和』だのロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』だののバカ長い名作でも、友人との会話の中では「ああ、それは読んだよ」の一言で済んでしまうものですが、この一言でだらだらと無駄話をする時間を節約出来るものです。どれ程不埒(ふらち)で下世話な冗談を言い合って笑っていても、読むべき本を読んでいる友や、自分が読もうと思いつつも読破していない名作を読んでいる友との交流は、人生を豊かにしてくれますし、相手の心の中を少しばかり理解する助けになるものです。

■それは音楽や美術作品にも言える事で、たとえ身近に音楽ホールが無くても、有り難いことに技術の進歩で各種の音楽ソフトや映像ソフトが簡単に入手出来るようになっているのですから、昔に比べれば格段に優れた作品に接する苦労は無くなったような物です。大都市でしか観られない演劇も、テレビやビデオ映像などで楽しめるのも有り難いところです。優れた職員と議員に恵まれている地方なら、公立図書館にさえ行けば見事な画集や映像・音楽ソフトが揃っていますから、貧富の差も余り大きな問題では無くなっています。しかし、理論的には日本人の教養と知識は再現も無く向上して行くはずなのですが、現実はそうは成らないのが不思議ですなあ。

■拙著『チベット語になった「坊っちゃん」』の収蔵状況を調べようと、全国公立図書館検索サイトで執拗にトレースしてみると、地域間格差の大きさに愕然とします。毎年、200万円の「図書購入費」が公布されているのに、何処かの地方自治体ではほとんど図書資料などには使わずに、訳の分からない予算に流用されている事が指摘されてはいましたが、検索サイトの画面に次々と現れる市町村立図書館の立派な「建物」に感動して所蔵内容を調べると、何とも貧弱で住民の皆さんの知識と教養は大丈夫だろうか?と心配になってしまう場所が、驚いたり呆れたりするほど多いのです。

■平成の大合併の大混乱の後、もう誰も「地方の時代」などと言わなくなったようですが、このまま地方「分権」となってしまったら、碌な蔵書の無い高価な図書館の「建物」が虚しく並ぶ知的廃墟があちこちに出現しそうですなあ。いざ、自分の教養に危機感を覚えて駆け込んだり、新聞や雑誌では分からない事を調べようと足を踏み入れても、さっぱり知識が深まりもせず拡がらないような、名ばかりの図書館が林立していても、まったく意味は無いでしょうなあ。それぞれの土地柄に合った他では御目に掛かれない貴重な資料を蒐集(しゅうしゅう)している図書館も有る一方で、最近話題になって短期間で消えて行くと分かり切っている本を熱心に集めているだけの所も有りますぞ。

■出版不況の中で、やっとヒット作を生み出してみたら、さっさとベスト・セラーが何冊も公立図書館に収まって、売れるはずの本が売れない!と出版社は悲鳴を上げています。その一方で、一生の間に読んでおくべき本、年齢相応に読み直し続けるべき本が揃っていない貧弱な図書館が増えて行くことになるでしょう。残念ながら、ベスト・セラーの中で5年後も読者を集める本は殆ど無いのではないでしょうか?憲法に「愛国心」を書き込むかどうかの不毛な議論をする前にやるべき事は多いようですなあ。


漱石は1895年4月から約1年間、同尋常中で英語を教え、ここでの体験をもとに「坊っちゃん」を書いた。アンケートは今年2月、1年生414人に実施。「全部読んだ」が168人、「部分的に読んだ」が137人で、「読んでいない」とした109人は「まったく興味がない」「身近に本がなかった」「読みにくい」などと答えた。

■比較的短い作品である『坊っちゃん』を「部分的に読んだ」という学生は、出だしだけは読んだという事なのか、それとも、あんなにテンポの良いストーリー展開を、途中で投げ出したという事なのでしょうか?それは考え難いですなあ。自分の良心に反する「読んだ」とウソは言えないものの、「読んでいない」と答えるのは情けない、そんな躊躇(ちゅうちょ)が先行しているような気がします。「読んでいないた」理由が、このアンケートの価値を高めてくれますぞ。「まったく興味がない」と正直に答えた109人の生徒諸君に感謝します。どんどん薄くなり続けた国語の教科書は、古典や伝統的な名作の影が薄い内容なのですから、見事に「ゆとり」教育世代らしい開き直り現象を暴露してくれましたなあ。

■「読みにくい」と答えた生徒の中に、食わず嫌いとしか思えない思い込みが浸透している事が透けて見えますぞ。もっと正直に、「昔の本だから、きっと漢字が多いだろう。漢字なんか読めないよ」と答えてくれると、もっと調査の価値が上がりましたなあ。国語教育を専門的に研究している学者の中にも、文科省の中にも「漢字撲滅」を生涯の仕事だと信じ込んでいる人が居るのですから、若い日本人が「日本語」の能力を減退させるのは、彼等が大喜びする事なのです。何とも恐ろしい話です。漢字は小中学校時代に記憶の基礎を作っておかないと、後が大変です。「格差社会」を強固にしようとする隠された目的を持って発動された「ゆとり教育」政策ですから、漢字の重要性を知っている親を持つ子供と、うっかりしていたり、本当に仕事で草臥れ切って学校に任せ切っている親を持つ子供との間には、生涯埋められない亀裂が入ります。間も無く、漢字は専門の機関で有料サービスを受けないと身に付かない時代になるでしょう。

■「身近に本がなかった」と答えた生徒は、自分の家には本らしい本が無い!と保護者の責任を言い立てているのかも知れませんが、学校の図書館や公立図書館に足を向けない自分を恥ずかしく思った方が良いでしょうなあ。そもそも、どうして本を読むのか?と考えて見れば、世間に対して恥ずかしい、これが最初の動機となるでしょう。子供社会のイジメにも通じる仲間意識を生み出して強化する共同感覚には、共通の体験と言葉と情報が不可欠です。ですから、残念ながら「朱に交われば赤くなる」の諺通り、仲間に恵まれないと人生を棒に振ることになりますなあ。ろくな本も読んでいない、下手をすると漢字も扱えないような「トモダチ」と付き合わねばならなくなった子供は悲劇です。「あの本読んだか?」と声が掛かる仲間を持つかどうかで、人生の入り口が決められてしまうのは恐ろしい事ですが、それが現実でしょうなあ。

■本を読んでいる大人や教師の姿や言動に「カッコよさ」を感じた子供は、本に手が伸びますし、思春期から20歳までに決定的な読書体験をした人間はずっと本を気にして生活するようになるようです。名作の中には、この時期にしか手を出せない作品が多いので、本当は周囲が急かして上げた方が良いのですが、残念ながら読書経験の無い大人にはそんな助言は無理ですなあ。長い間、漱石の『坊っちゃん』は、絵の無い本として生涯で最初に読破した作品の第一位の地位を独占していたものです。それさえも読んでいない日本人となると、その中には本らしい本を読まずに、競馬新聞とパチンコ必勝法と不埒な漫画しか目玉と脳味噌を通過しないような悲しい人生を送る人も含まれるのでしょうなあ。人に生まれ、日本人に生まれついたのですから、『坊っちゃん』から始まる読書生活を送れないというのは、実に残念な話ですなあ。

■拙著にも書きましたが、チベットの山奥で、「漱石の『坊っちゃん』は面白いですね」と声を掛けられた日本人が答えに窮するようになったら御仕舞いですぞ!

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