いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
ミステイク
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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うーーーーわーーーーー!!
やってもうた~~~~。_| ̄|○
先ほど、記事の編集中に、昨日アップした「あべこべ」というエントリを、誤って消去してしまいました…
・゜・(ノД`;)・゜・
バックアップをとられている、奇特な方はいらっしゃらないでしょうか…(TωT)
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うーーーーわーーーーー!!
やってもうた~~~~。_| ̄|○
先ほど、記事の編集中に、昨日アップした「あべこべ」というエントリを、誤って消去してしまいました…
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バックアップをとられている、奇特な方はいらっしゃらないでしょうか…(TωT)
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メビウスの帯
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前エントリのコメント欄で、「メビウスの輪(帯)」の話題が出てきたので、今日はちょっとそれに乗っかってみようかと思います。
職業柄、色んな方々とお話させて頂ける機会が多いんですね、僕。
中でも、様々な業界の第一線で活躍されている方と、直にお話させていただけるというのは、とても貴重な体験です。(これがあるから、このお仕事はやめられない。)
ビジネス・医療・芸能・音楽・芸術・教育・etc…、活躍する舞台がどこであろうと、その業界でトップを走っている方々には、ある共通した特徴があります。
それは、『社会通念と一線を画した視点と解釈』。
物事に対する「インプット」と「アウトプット」の方法が、『きれいに捻れている』んです。
ともすれば、「ひねくれもの」になって仕舞いそうな絶妙な立ち位置でバランスを取っているのは、単に「視点が逆」というだけではなく、「一度ひねりながらも、再度繋げ直し、同じ位置にきちんと着地している。」という、正に『メビウスの帯』的な頭の構造になっているからだと思うんです。
僕たちは、物事の「表だけ」もしくは「裏だけ」を見てしまいがちですが、その方々は、その物事を「ウラ・オモテ」ではなく、「メビウスの帯」にすることによって、(捻れているからこそ)「表裏」を一度に捉えることができている。
僕たちと同じモノを見ているはずなのに、「なるほど!そんな捉え方があったのか!」という驚きを示してくれるからこそ、「この人は凄い」という評価に繋がるのでしょう。
でね、先日の取材でも、やっぱり上記のような話になりましてね。
とても分かりやすいお話だったので、雰囲気だけご紹介したいと思います。
…
最近の「リスクを避ける生き方」って、ホントにあれでいいんだろうかね?
僕にはどうも「幸せ=楽に生きる」みたいな勘違いをしている人が多いように思えてならないよ。
例えば、「愛する人と結ばれること」を叶えるとするならば、「(その理由がどういったものであれ)いずれ、その人との別れがある」という悲しみも同時に背負わなければならない。
どうやら、その2面があることは理解しているようだけど、「悲しむことになるぐらいなら、結ばれなくていい。」なんていう決断をしてしまう。
当然そこに傷みは無いけど、いつまで経っても「愛すること」は経験できないワケだ。
その選択の先に、「本当の幸せ」や「人生の醍醐味」はあるのかね…。
「幸せ」を求めるなら、「不幸」も同時に手に入れなくちゃ。
…
「幸せ」を得るためには、「不幸」ともしっかり向き合う。
逆説的に聞こえるけど、上記のように考えると、当たり前と言えば当たり前の話なんですよね。
どうにも物事を多角的に捉えるというのは、難しい。
その難しさの原因は、「多角的に捉えると、その中に、自分の見たくない一面が必ずあるから」だろう。
「見たくない」から「見ない」。
「見ない」から「(本質が)見えない」。
「自分が何を見、何を見ずにいるか。」
これを自覚するのにも、また勇気がいるんだよな。w
←表裏一体、賛否両論。
〈オマケ〉
メビウスの帯を真ん中から切断すると、2つの輪にはならず、さらに捻れた1つの大きな輪になります。
メビウスの帯は、表裏のない形状ですが、一度ハサミを入れた帯は表裏が分かれてしまい、メビウスの帯では無くなってしまいます。
また、メビウスの帯を3分の1の幅で切っていくと、さらに捻れた輪とメビウスの帯の2つになります。
だからなんだと言うことでも無いですが、やってみると、物事を上手く把握出来ずにこんがらがっている自分の頭を見ているようで面白いのです。
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前エントリのコメント欄で、「メビウスの輪(帯)」の話題が出てきたので、今日はちょっとそれに乗っかってみようかと思います。
職業柄、色んな方々とお話させて頂ける機会が多いんですね、僕。
中でも、様々な業界の第一線で活躍されている方と、直にお話させていただけるというのは、とても貴重な体験です。(これがあるから、このお仕事はやめられない。)
ビジネス・医療・芸能・音楽・芸術・教育・etc…、活躍する舞台がどこであろうと、その業界でトップを走っている方々には、ある共通した特徴があります。
それは、『社会通念と一線を画した視点と解釈』。
物事に対する「インプット」と「アウトプット」の方法が、『きれいに捻れている』んです。
ともすれば、「ひねくれもの」になって仕舞いそうな絶妙な立ち位置でバランスを取っているのは、単に「視点が逆」というだけではなく、「一度ひねりながらも、再度繋げ直し、同じ位置にきちんと着地している。」という、正に『メビウスの帯』的な頭の構造になっているからだと思うんです。
僕たちは、物事の「表だけ」もしくは「裏だけ」を見てしまいがちですが、その方々は、その物事を「ウラ・オモテ」ではなく、「メビウスの帯」にすることによって、(捻れているからこそ)「表裏」を一度に捉えることができている。
僕たちと同じモノを見ているはずなのに、「なるほど!そんな捉え方があったのか!」という驚きを示してくれるからこそ、「この人は凄い」という評価に繋がるのでしょう。
でね、先日の取材でも、やっぱり上記のような話になりましてね。
とても分かりやすいお話だったので、雰囲気だけご紹介したいと思います。
…
最近の「リスクを避ける生き方」って、ホントにあれでいいんだろうかね?
僕にはどうも「幸せ=楽に生きる」みたいな勘違いをしている人が多いように思えてならないよ。
例えば、「愛する人と結ばれること」を叶えるとするならば、「(その理由がどういったものであれ)いずれ、その人との別れがある」という悲しみも同時に背負わなければならない。
どうやら、その2面があることは理解しているようだけど、「悲しむことになるぐらいなら、結ばれなくていい。」なんていう決断をしてしまう。
当然そこに傷みは無いけど、いつまで経っても「愛すること」は経験できないワケだ。
その選択の先に、「本当の幸せ」や「人生の醍醐味」はあるのかね…。
「幸せ」を求めるなら、「不幸」も同時に手に入れなくちゃ。
…
「幸せ」を得るためには、「不幸」ともしっかり向き合う。
逆説的に聞こえるけど、上記のように考えると、当たり前と言えば当たり前の話なんですよね。
どうにも物事を多角的に捉えるというのは、難しい。
その難しさの原因は、「多角的に捉えると、その中に、自分の見たくない一面が必ずあるから」だろう。
「見たくない」から「見ない」。
「見ない」から「(本質が)見えない」。
「自分が何を見、何を見ずにいるか。」
これを自覚するのにも、また勇気がいるんだよな。w
←表裏一体、賛否両論。
〈オマケ〉
メビウスの帯を真ん中から切断すると、2つの輪にはならず、さらに捻れた1つの大きな輪になります。
メビウスの帯は、表裏のない形状ですが、一度ハサミを入れた帯は表裏が分かれてしまい、メビウスの帯では無くなってしまいます。
また、メビウスの帯を3分の1の幅で切っていくと、さらに捻れた輪とメビウスの帯の2つになります。
だからなんだと言うことでも無いですが、やってみると、物事を上手く把握出来ずにこんがらがっている自分の頭を見ているようで面白いのです。
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inside out
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ある日突然雲さんとのチャンネルが繋がってしまったり、「ああ!目が覚めましたっ!」っていう経験を何度かしてからというもの、すっかり物事の考え方や捉え方が変わってしまいましてね。
本当に人生そのものが変わってしまいました。
その経験たるや、それこそ言葉で言い表せないものなので、(百聞は一見にしかずですからね)これをどうにか他の人にも経験してもらう方法は無いモノかと、日々試行錯誤しています。
そんな話の一部を拙い文章で書いているモノだから、このblogをご覧の方の中には、もしかしたら、僕のことを「その経験を通じて、何か凄いことを知った人」みたいに思っている方もいるかも知れませんが…
事実は全く『その逆』でして、「自分が何にも分かっていなかった」ってことに気付いただけなんです。
全ての事物を「裏返し」に捉えていて、それが原因で「自分で自分の首を絞めていた」ということを、思い知っただけなんですよ。
だから、僕は別に凄い事など、何も知りませんし、出来ません。
ただ、この物事を「裏返し」に捉えることの馬鹿馬鹿しさってのは知る事ができたので、それをしないように気をつけているだけなんです。
この「裏返し」に気付くことができると、自分を取り巻くあらゆる「からくり」が見えてくるのですが、これを素直に受け入れる事は、どうにも容易ではないようです。(一度でも、本物の苦しみを味わうと一発で見えてくるのですが…。まぁ、味わいたい人なんていませんからね、苦しみなんて。)
で、
この「裏返し」なのですが、僕的には…
『表』と『裏』が「裏返る(turn over)」というよりは、
『内』と『外』が「裏返る(inside out)」という感じなのです。
「ない」が「ある」になり、「ある」が「ない」になってしまうという「裏返り」方。
「大切なモノ」と「どうでもいいもの」がそっくり入れ替わってしまうような「裏返り」方。
なんて言ったらいいんだろう…
物事の土台から入れ替わってしまうこの感じ…
あー。
なんか上手く言葉にできないなーー。_| ̄|○
次のエントリでは、もう少し具体的な例でお話してみたいと思います。
←期待に応えられるかどうかは、わからない。
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ある日突然雲さんとのチャンネルが繋がってしまったり、「ああ!目が覚めましたっ!」っていう経験を何度かしてからというもの、すっかり物事の考え方や捉え方が変わってしまいましてね。
本当に人生そのものが変わってしまいました。
その経験たるや、それこそ言葉で言い表せないものなので、(百聞は一見にしかずですからね)これをどうにか他の人にも経験してもらう方法は無いモノかと、日々試行錯誤しています。
そんな話の一部を拙い文章で書いているモノだから、このblogをご覧の方の中には、もしかしたら、僕のことを「その経験を通じて、何か凄いことを知った人」みたいに思っている方もいるかも知れませんが…
事実は全く『その逆』でして、「自分が何にも分かっていなかった」ってことに気付いただけなんです。
全ての事物を「裏返し」に捉えていて、それが原因で「自分で自分の首を絞めていた」ということを、思い知っただけなんですよ。
だから、僕は別に凄い事など、何も知りませんし、出来ません。
ただ、この物事を「裏返し」に捉えることの馬鹿馬鹿しさってのは知る事ができたので、それをしないように気をつけているだけなんです。
この「裏返し」に気付くことができると、自分を取り巻くあらゆる「からくり」が見えてくるのですが、これを素直に受け入れる事は、どうにも容易ではないようです。(一度でも、本物の苦しみを味わうと一発で見えてくるのですが…。まぁ、味わいたい人なんていませんからね、苦しみなんて。)
で、
この「裏返し」なのですが、僕的には…
『表』と『裏』が「裏返る(turn over)」というよりは、
『内』と『外』が「裏返る(inside out)」という感じなのです。
「ない」が「ある」になり、「ある」が「ない」になってしまうという「裏返り」方。
「大切なモノ」と「どうでもいいもの」がそっくり入れ替わってしまうような「裏返り」方。
なんて言ったらいいんだろう…
物事の土台から入れ替わってしまうこの感じ…
あー。
なんか上手く言葉にできないなーー。_| ̄|○
次のエントリでは、もう少し具体的な例でお話してみたいと思います。
←期待に応えられるかどうかは、わからない。
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主人公
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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さて、いよいよ今夜9時から、ドラマ「ガリレオ」(主演:福山雅治)のスタートですね。
このドラマ「ガリレオ」は、小説『探偵ガリレオ』『予知夢』(文藝春秋刊)からのドラマ化。
原作者の東野圭吾さんは、この物語の主人公、帝都大学理工学部物理学科助教授(准教授)、湯川学の人物像は、佐野史郎さんをイメージして書いていたそうです。
まぁ、湯川学の年齢設定が原作シリーズの4話目「爆ぜる」の連載当時で34歳ですから、佐野史郎さん(52)のキャスティングは現実的では無いにせよ、
「佐野史郎 → 福山雅治(+柴咲コウ)」ってあたりが、やはり『月9』のなせる技ですね。
(原作の『探偵ガリレオ』『予知夢』には、柴咲コウさんの役どころ、「内海刑事」が見当たりません。内海刑事の登場は、まだ単行本化されていない、シリーズ12話目の「落下る(おちる)」からなんだそうです。)
…
[電柱]
[電柱]д ̄)ノ”<あ。ども。お久しブリトニー・スピアーズ。フジテレビの回し者です。
えー。さて、唐突にドラマのお話からスタートしましたが、今日お話したかったのは「ガリレオ」ではなく、タイトルどおり「主人公」という言葉についてです。
普通「主人公」というと、「物語の中心人物」ってな意味合いで使われますよね。(「ガリレオ」の場合だと、「湯川学」ですね。)
Yahoo!辞書で調べても
しゅじん‐こう【主人公】
1 事件や小説・劇などの中心人物。ヒーローまたはヒロイン。「悲劇の---」
2 「主人1」の敬称。
と、あります。
で、
この「主人公」という言葉が、「禅」の世界にいきますと、その意味はちょっと異なって…
『主体的な自己』的な意味合いとなります。
「物語」ではなく、「自分の人生」の中心人物、つまりは“自分”ということですね。
で、ここでの「自分」は、只の「自分」ではなくて、「主体的な自己」ってとこがミソなんですよ。
(精神世界風の言い方だと「高次の自分」みたいな感じでしょうか。)
※しゅたい‐てき【主体的】
[形動]自分の意志・判断に基づいて行動するさま。「---な行動」
「自分の人生」ですから、その主人公は、当たり前にどうひっくり返っても「自分」なんですけど、この「当たり前」が、なんでだか、外のモノに目を奪われている間に喪失されていくんですよね。
やれ、「誰それがこう言っているから。」とか、「世の中の常識がこうだから。」とか、「この本にはこう書いているから。」とか、「法律や規則がこうなっているから。」とか…何かと流されて「本当の自分」というものをとかく見失いがちです。
(あ、勘違いしないでくださいね。僕は別に「調和を乱せ」とか「規則を破れ」なんて言ってるワケじゃないですからね。)
少し意識して自分を見つめてみると、いつの間にか自分の行動・判断が、「自分の意志」から離れ、外のモノに取って代わられてしまっていることに気付くんです。
例えば、ドラマや映画を見た後に、その登場人物に影響を受けて、仕草や口調が変わっていたり、なんて言うのもその一つですよね。
ついつい「自分」ではない「誰か」に羨望の眼差しをおくり、「その誰か」になろうとしてしまっている。
それでは「自分の人生」という物語の「主人公」が不在になってしまいます。
「機械的な選択」や、「誰かのマネ」をしようとしてしまう自分に喝を入れて、いつでもオリジナルのままでいたいですね。
え? なんでこんな話をしてるのかって?
…
いや、今晩のドラマ見たら、明日あたりから「実に面白い…」なんて口走ってそうじゃないですか…。僕の場合…。
←復活。(やっぱ付けますわ。だって、その方が楽しいんだもん。)
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さて、いよいよ今夜9時から、ドラマ「ガリレオ」(主演:福山雅治)のスタートですね。
このドラマ「ガリレオ」は、小説『探偵ガリレオ』『予知夢』(文藝春秋刊)からのドラマ化。
原作者の東野圭吾さんは、この物語の主人公、帝都大学理工学部物理学科助教授(准教授)、湯川学の人物像は、佐野史郎さんをイメージして書いていたそうです。
まぁ、湯川学の年齢設定が原作シリーズの4話目「爆ぜる」の連載当時で34歳ですから、佐野史郎さん(52)のキャスティングは現実的では無いにせよ、
「佐野史郎 → 福山雅治(+柴咲コウ)」ってあたりが、やはり『月9』のなせる技ですね。
(原作の『探偵ガリレオ』『予知夢』には、柴咲コウさんの役どころ、「内海刑事」が見当たりません。内海刑事の登場は、まだ単行本化されていない、シリーズ12話目の「落下る(おちる)」からなんだそうです。)
…
[電柱]
[電柱]д ̄)ノ”<あ。ども。お久しブリトニー・スピアーズ。フジテレビの回し者です。
えー。さて、唐突にドラマのお話からスタートしましたが、今日お話したかったのは「ガリレオ」ではなく、タイトルどおり「主人公」という言葉についてです。
普通「主人公」というと、「物語の中心人物」ってな意味合いで使われますよね。(「ガリレオ」の場合だと、「湯川学」ですね。)
Yahoo!辞書で調べても
しゅじん‐こう【主人公】
1 事件や小説・劇などの中心人物。ヒーローまたはヒロイン。「悲劇の---」
2 「主人1」の敬称。
と、あります。
で、
この「主人公」という言葉が、「禅」の世界にいきますと、その意味はちょっと異なって…
『主体的な自己』的な意味合いとなります。
「物語」ではなく、「自分の人生」の中心人物、つまりは“自分”ということですね。
で、ここでの「自分」は、只の「自分」ではなくて、「主体的な自己」ってとこがミソなんですよ。
(精神世界風の言い方だと「高次の自分」みたいな感じでしょうか。)
※しゅたい‐てき【主体的】
[形動]自分の意志・判断に基づいて行動するさま。「---な行動」
「自分の人生」ですから、その主人公は、当たり前にどうひっくり返っても「自分」なんですけど、この「当たり前」が、なんでだか、外のモノに目を奪われている間に喪失されていくんですよね。
やれ、「誰それがこう言っているから。」とか、「世の中の常識がこうだから。」とか、「この本にはこう書いているから。」とか、「法律や規則がこうなっているから。」とか…何かと流されて「本当の自分」というものをとかく見失いがちです。
(あ、勘違いしないでくださいね。僕は別に「調和を乱せ」とか「規則を破れ」なんて言ってるワケじゃないですからね。)
少し意識して自分を見つめてみると、いつの間にか自分の行動・判断が、「自分の意志」から離れ、外のモノに取って代わられてしまっていることに気付くんです。
例えば、ドラマや映画を見た後に、その登場人物に影響を受けて、仕草や口調が変わっていたり、なんて言うのもその一つですよね。
ついつい「自分」ではない「誰か」に羨望の眼差しをおくり、「その誰か」になろうとしてしまっている。
それでは「自分の人生」という物語の「主人公」が不在になってしまいます。
「機械的な選択」や、「誰かのマネ」をしようとしてしまう自分に喝を入れて、いつでもオリジナルのままでいたいですね。
え? なんでこんな話をしてるのかって?
…
いや、今晩のドラマ見たら、明日あたりから「実に面白い…」なんて口走ってそうじゃないですか…。僕の場合…。
←復活。(やっぱ付けますわ。だって、その方が楽しいんだもん。)
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