いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
起きているけど、起きていない
精神世界を学びだすと、遅かれ早かれさまざまな矛盾に出会います。
「起きているけど、起きていない」というフレーズも、その代表選手でしょう。
普通に考えたら、こんなにわけのわからない言葉もありません。
僕たちの通常感覚なら、「起きている」と感じられるのが当然で、「起きていない」という言葉の意味がさっぱりわかりません。
不都合な出来事に遭遇したとき、そこで「起きていない、起きていない」と呪文のように唱えても、そう堅く信じようと努力しても、虚しさが募るばかりです。
また、幸せな状況下にあるときに、「起きていない」と言われれば、なんだか自分の幸せを否定されているようで腹が立ちます。
でも、このメッセージは、決して人を虚無に陥れようとしているわけでも、怒りを焚きつけようとしているわけでもありません。
見えない本質を指し示す、大きなヒントの一つなんです。
この矛盾、「真逆」の世界観は、さまざまな宗教などでも、繰り返し提示され続けてきました。
このブログや拙著の中で、たびたびご紹介してきた「般若心経」のなかにも、これを指す一節があります。
「遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)」というのがそれ。
ありとあらゆる逆さまに捉えられている幻想の世界から遠く離れなさい、と言う意味です。
「逆さまに捉えられている」というのは、白が黒になり、善が悪となり、幸が不幸に反転するような、そういうニュアンスの「逆さま」ではありません。
分別(二元)の世界から、無分別(非二元)の世界への逆転、その意識変容のことを指しています。
つまりは、「起きている」という現象の世界から遠く離れ、「起きていない」という本質の世界を観てみよう、ということ。
タオの教えで知られる「老子(老子道徳経)」にも、同様のことが記載されています。
道徳経は、全81章で構成されていますが、なんとその冒頭、第一章から、このことが語られています。
それ以降語られる内容を理解するには、どうしても押さえておかなければならない、大切なポイントだからです。
道可道、非常道。名可名、非常名。
無名天地之始、有名萬物之母。
故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。
同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
太文字で強調した、3・4行目が、それにあたります。
上記を簡単に訳すと、こんな感じ。(原文の前後関係を入れ替えて訳しています)
見えない本質と、見える現象、この二つは、どちらも同じ源から出ているけども、
見えない本質を「妙(みょう)」、見える現象を「徼(きょう)」と言おう。
そして、この二つが出てくる源を「玄(げん)」と呼ぼう。
この玄を生み出す、さらに奥深くにある玄。そこに、あらゆる本質に通じる入口があるんだ。
(「起きているけど、起きていない」というこの言葉の意味は、その門をくぐった時に明らかになるんだ)
人間によって、世界に名前(言葉や定義、価値や基準)が付けられる以前、
存在は、ただ存在であって、そこにはひとつの分離もなかった。
そこには、「わたし(主体)」も、「わたし以外(客体)」もなかった。
「わたし」も「対象」もないのだから、そこには「欲(何かを得よう・遠ざけようという作為)」と言えるものがない。
だからこそ、欲のない(我のない)者のみが、『道(タオ)』の見えない本質を観ることができ、
常に欲にまみれた我のある者には、その結果として現れた表面的な姿・現象しか観ることができない。
「妙」は、無分別・非相対・非二元の世界、
「徼」は、分別・相対・二元の世界を指しています。
僕たちが当たり前に感じている「起きている」という世界(徼)も、その奥に隠れている「起きていない」という真実(妙)も、結局、出所は同じだよ。
だけど、自我があるときは「起きている」世界を、対して、無我では「起きていない」世界を生きることになるよ、と言っているんですね。
ちなみに、『あの世に聞いた、この世の仕組み』の第3章でお話した、粘土のたとえに出てきた「黒いもの」は、この「徼の世界」を形作るエレメントのことで、その象徴となるのが「分離」という思い込みのことなんです。
う〜ん。
もう少しわかりやすくできないかなぁ…。
とりあえず、今日はこんなところで。
【トークライブ・インフォメーション】
平日のお話会「月イチ☆」10月開催分、受付中です。
平日のお話会「月イチ☆」(東京)
10月22日(木)19:30~21:30(19:00会場)三鷹産業プラザ 7階 701会議室[詳細・お申し込み]
平日のお話会「月イチ☆WEST」(神戸)
10月28日(水)19:30~21:30(19:00会場)兵庫県民会館 3階 304会議室[詳細・お申し込み]
平日のお話会「でら☆月イチ」(浜松)
10月29日(木)19:00~21:00(18:30会場)浜松市福祉交流センター 21会議室 [詳細・お申し込み]
*****
梅田のTSUTAYAさんにて、新しい試みにチャレンジします!
大阪、梅田駅直結にするルクア イーレの9F 、梅田蔦屋書店さんのお誘いを受け、朝のお話会を開催する運びとなりました。
リアル書店さんのスペースをお借りしてのイベントですので、「人生を変える本との出会い」をテーマに、僕がオススメする書籍の魅力や、精神世界の勘所などのお話をする予定です。
開催は平日の午前中ですので、参加できる方も限られるかとは思いますが、よろしければ遊びに来てください。
雲黒斎トークライブ『朝から梅田でアレのこと』
10月29日(木)10:00~11:30(9:30開場)梅田 蔦屋書店 4th ラウンジ [詳細・お申し込み]
*****
久しぶりに札幌へ参ります!
今回は「黒斎さん、いまさらながらスピリチュアルって何ですか?」の、質疑応答リアルタイムバージョンをお送りいたします。
黒斎さん、いまさらながらスピリチュアルって何ですか?
10月31日(土) 14:00~16:30(13:30開場)札幌市教育文化会館 301研修室[詳細・お申し込み]
主催・協力:株式会社UGL(古池さま) お問い合わせ:011-614-1319
※当日券は会計の都合上、3,000円とさせていただきますのでご了承ください。
※パソコンや携帯電話からのお申し込みが面倒、わからない、という方には、ファミリーマートさんの情報端末「ファミポート」でのお手続きをオススメしております。
ご利用方法については【コチラ】をご参照ください。
←押しているけど、押していない。「いや、そこは押してよ!」
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普通に考えたら、こんなにわけのわからない言葉もありません。
僕たちの通常感覚なら、「起きている」と感じられるのが当然で、「起きていない」という言葉の意味がさっぱりわかりません。
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でも、このメッセージは、決して人を虚無に陥れようとしているわけでも、怒りを焚きつけようとしているわけでもありません。
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「逆さまに捉えられている」というのは、白が黒になり、善が悪となり、幸が不幸に反転するような、そういうニュアンスの「逆さま」ではありません。
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つまりは、「起きている」という現象の世界から遠く離れ、「起きていない」という本質の世界を観てみよう、ということ。
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上記を簡単に訳すと、こんな感じ。(原文の前後関係を入れ替えて訳しています)
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そして、この二つが出てくる源を「玄(げん)」と呼ぼう。
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コメント ( 23 ) | Trackback ( )
« 安心して聞ける話 | 妙と徼と玄と玄 » |
最近の「わたしはいない」ムーブメントのこともあって、皆生まれ変わりについては様々な解釈や疑問が頭を去らないでしょうが、あえて言いますが黒澤さんは誰がどう見ても仏教系の転生を何度か踏んでますわね?(笑)
いくら観念の上で「無い」ったって隠せない。あなたの魂は伝えずには居れないんだもの。
・・・
ところで、
黒澤さんのブログは過去の記事にも、言葉にならない思考を越えた世界について核心を突くものや、現実的に辛い思いを抱えた方の心を解す言葉をたくさん書いてこられましたね?
色んな角度、表現で、発信し続けてきたそれらのことを、今の黒澤さんはどう見るのか。どう表現するのか。またどう削ぎ落とすのか。
そんなことをふと思います。
まだ10周年には早いですが、近々そうした10年の積み重ねに相応しい、棚卸し的な取り組みをやってみるというのは如何でしょうか?
一読者の差し出がましい提案ではありますが…、
実際、今辛い思いをしてブログなどにたどり着いた方は読みたい気持ちも強いけれど、一方で記事の量の多さに打ちのめされるでしょう。
記事自体の数の多さもありますし、当時ならよく分かる笑いネタ要素の部分だったり、当時の告知部分の文字量の多さだったり。
あと定番ですけど、Aの記事、Bの記事、反対のことを書いてるように感じるけど、どっちをどう理解すればいいのか…的なこととか。
突き詰めれば、
たぶん古来の仏教から続く性質と同じだと思いますが、
「様々な衆生に向けた多様な説明が、その意図とは逆に分離をも招いてしまう」という構造ですね。
それらの現状を放置しておくのもさすがにもったいない。
それは、ダイヤが原石として埋もれてしまったかのようにも思えます。
・・・
というわけで、
行動予定表も出来たことですしね。(笑)
この10年の歩みに今の解体新書の視点で光が当たっていく。
削ぐべきものを削ぐことで、そのエッセンスが強く浮かび上がる。
そんな想像を1人楽しむ読者なのでした。
台風の目の所から外側を見てると、雨が降ったり風が吹いたりする現象が見えるとして、それを自分だと思ったり、自分が起こしてると思っちゃうの(思いっきり擬人化、笑)
でも、あるとき、目が不意に内側(この場合は台風の中心)に向く。そうすると、そこには何もないし、なにも起こってないし、自分がいて動かしていたんじゃないんだ~~みたいな。無理があるかな???余計、伝わりづらいかも、ごめんなさい。混乱招きそうなら、コメント、のせなくてもいいですよ~。
黒も白もないですよねって書いたけど、黒いものって、分離の思い込みのことだったのですね、なるほどです。ありがとうございます。
駆使してもらってますが、頭がついていきません(T-T)
更新がまめでうれしいです。(^_^)
「妙」というのはミクロ目線のことですよね。現象が起こっているように見えるが、それは全て原子(或はそれを作る電子等)。くっついたりしているが原子等であることに変わりはない。
だから起こっていない(本質が変化したわけではない)
人間もその辺の石ころも、どっちも原子等の集まりでしかなく、ミクロ目線では一緒
つまりは、「妙=原子等=見えない本質=見える現象=徼」
ってところですかね。
原子だから文字通り目に見えない本質ですね(笑)
「玄」が何なのかわかりませんが(´-`)
或は、「玄」も原子のことで、「さらに奥深くにある玄」が電子等のことなのかな
コメントさせてもらいます。
二元と非二元の世界があるわけではなくて
①妙=無分別=空=見えない=起きてない
②徼=分別=色=見える=起きてる
①と②は別ではない=非二元=玄=ワンネス
=起きてるけど起きてない
なんではないかなぁと思ったのですが。
どうでしょう。
以前は覚者のメッセージで救われた気分になっていましたが
中途半端に理解した今
一時的な慰みと感じ尚苦しいです
只々楽になりたい
妙と徼についてはよく理解できますが、玄が
分かりません。
マタさんのコメントだとよく分かるのですが。
玄について改めて教えてください。
よろしくお願いします。
量子論の不確定性原理に照らすと、無(真空)からエネルギーが生まれ、エネルギーが素粒子へ、そして原子が生成され物質となります。
意識(感情や思考を含む)も、同じエネルギーの現れです。
現代物理学は、タオや釈迦の教えと同じ解を導き出している気がしています。
両方が、どん!とここにある。
起きてる(思考の世界)があり、起きていない(ただある世界)が。
やっぱり、エゴちゃんの教育を目的とするなら、言葉をはしょると何を指し示しているのかすらわからなくなります。
その辺、コクサイさんはとても丁寧に説明して下さるので大変にありがたいです。
というか、どこから外側を認識していたかに意識を向けると、そこに何も無さ、変化と共にありながら変化に影響されない変わらなさがあるんじゃないかなとおもいます。
それは、それまで外側をさしていた指を内側に向けるということで、それが例えではなく文字通りの行為としてそのまんま有効な事がわかる、とても簡単で時間もかからない「実験」があります。
私はこの実験で、あまりにも当たり前すぎて見過ごしていた拍子抜けするほどシンプルなものが見えました。
それは確かに「起きているけど、起きていない」と表現できるものでした。
興味のある方は、リンク先の「ここを指さす」の説明や動画を見て実際にやってみる事をお勧めします。
他にも面白い記事や実験がいろいろありますよ。
宣伝くさくなって申し訳ないですが、
黒斎さんにも、コメントを見ている皆さんにも、
こんな簡単な方法があるって知ってもらいたかったんです。
映画鑑賞をしているとする
映画は自動的に終わるのに
照明もついて勝手に明るくなります
それは
映画の登場人物が行っていることではない
映画の最後のシーンには
誰かが悟ったというシーンも映る
さらに映画のエンディングのあとの付録映像には
台本シナリオの作成の経緯や
この映画の実際の制作過程が映される
それも映像特典です
物語の最後の悟った登場人物が
こういった映像を作って終わらしたわけじゃない
笑
特典映像も含めて
ただの映画
そして照明がつくだけ
そのとき、本当に夢だったとわかるのではないだろうか
と
意識(源)からの視点
世界の見方
自我からの視点だと自我の世界がみえる
意識からの視点だと
意識の世界がみえる
罪の世界か
潔白の世界か
非実在の世界か
実在(愛:存在)の世界か
自我ちゃんは
いしきが源でありながら
いしきを否定して成り立つ
ものであります
いしきを否定しないなら
いしきに消え去ってしまいます
いしきを否定することにより
自我構築が可能になります
自我ちゃんは源でないのに
源だと主張することにより
構築することが可能です
砂上の楼閣のようなもんですね
自我ちゃん
観念が基盤だというのです
私、という観念が基盤だというのです
コースによれば
夢みることはできてもそれを現実(基盤)にすることはできません
自我ちゃんは
矛盾をつかって成り立つものです
すなわち
源をつかって源を否定する
のもありかもしれませんが
起きていると錯覚してる存在がいるわけで
私(はいしきでない)
私の正体がわかれば
(いしきの指示語にすぎない)
なにも変わらない
だって
私は
いしきと同じだったから
なにも変わらなかったんです
起きることが起きてないんです
私
はいしきでない
は
起きてないんです
だから
起きるべきことも起きないんです
起きるべきことが起きている
と錯覚してる存在がいるわけで
その錯覚自身が起きてないんです
起きることは夢であり、私も含めて目覚めではありません
それは夢(錯覚)なんです
キリスト(つまり いしき)か
自我か
http://www.youtube.com/watch?v=ILEnn4bjLAo&sns=em
編
ノンデュアリティのオチばかりだと飽きてきたので
遊びにもひとつ書いときます
我われは
体の口のなかで飴を舐めて楽しんでいます
それと同じように
内側で体験してるんじゃなくて
飴のように
なにか制限のない外側の存在が飴を楽しんでいるように
身体を楽しんでいるのかもしれません
じつは内側で苦しんでるのではなく
自由な外側から肉体を楽しんでるのかもしれません
飴のたとえのように
しかし我われは
飴の中で苦しんでいる(舐められている)と錯覚しているのかもしれません
じつは舐めているうちにいろいろな味わいができる高級飴を舐めているのかもしれません(苦み、シュワっと刺激も、噛み砕かれるのも)
内側で舐められている(体験している)、そうして苦しんでるんじゃなく
本来自由な外側から飴を楽しんでるのかもしれません
そしていろんな舐め方をされてしまいますが
それは外側の存在が
楽しんでいるので
飴はなされるがまま
舐め方も決められない体験しているわけです
錯覚がおこって飴が舐められ体験させられていると苦しんでいるのかもしれない が
じつは
ほんとは楽しんでいたりして
本来のじぶん(自由)は
お口のなかの飴を
そして
作った飴は
舐めればなくなりますが
楽しんでいるじぶんはなくなりません
私という言葉や
私という想いは
私以前の
つまり
私という想いの自覚以前の
言葉にならない
想うまえの
いしき
から生まれている
それは
私という想いにもならない
以前の
パワー
それは
個
ではないパワー
個(私)という想いを自覚するまえのパワー
熟睡のときなどに存在しているパワーである
パワー(熟睡:休息:非個人的パワー)はいつもある
すべてはそこからあらわれた想像であり
パワーは
変わりようがない
変わったと考えるのが
‘私’であり
‘私’でさえ
‘私’にとっての何かさえ
そのパワーでしかない
エネルギーはなにも変わっていない
覚醒して
なにか夢の外にでなければそのパワーを味わえないというものではない
見るもの聞くもの
すべてこのパワーである
それは源であり起こっているすべてである
それしか味わっていないのである
その意味では
幻想は起きていない
幻想を味わっていると感じるか
変わっていないパワーを味わっているか
は
見方次第である