コメント
安心して下さい。黒澤さんなら出来ますよ。( ^ω^ )
(
さむ
)
2015-10-20 13:54:55
対話ってのはもしかしたら古代の仏教から絶えぬ、根本のスタイルかもしれませんね。
最近の「わたしはいない」ムーブメントのこともあって、皆生まれ変わりについては様々な解釈や疑問が頭を去らないでしょうが、あえて言いますが黒澤さんは誰がどう見ても仏教系の転生を何度か踏んでますわね?(笑)
いくら観念の上で「無い」ったって隠せない。あなたの魂は伝えずには居れないんだもの。
・・・
ところで、
黒澤さんのブログは過去の記事にも、言葉にならない思考を越えた世界について核心を突くものや、現実的に辛い思いを抱えた方の心を解す言葉をたくさん書いてこられましたね?
色んな角度、表現で、発信し続けてきたそれらのことを、今の黒澤さんはどう見るのか。どう表現するのか。またどう削ぎ落とすのか。
そんなことをふと思います。
まだ10周年には早いですが、近々そうした10年の積み重ねに相応しい、棚卸し的な取り組みをやってみるというのは如何でしょうか?
一読者の差し出がましい提案ではありますが…、
実際、今辛い思いをしてブログなどにたどり着いた方は読みたい気持ちも強いけれど、一方で記事の量の多さに打ちのめされるでしょう。
記事自体の数の多さもありますし、当時ならよく分かる笑いネタ要素の部分だったり、当時の告知部分の文字量の多さだったり。
あと定番ですけど、Aの記事、Bの記事、反対のことを書いてるように感じるけど、どっちをどう理解すればいいのか…的なこととか。
突き詰めれば、
たぶん古来の仏教から続く性質と同じだと思いますが、
「様々な衆生に向けた多様な説明が、その意図とは逆に分離をも招いてしまう」という構造ですね。
それらの現状を放置しておくのもさすがにもったいない。
それは、ダイヤが原石として埋もれてしまったかのようにも思えます。
・・・
というわけで、
行動予定表も出来たことですしね。(笑)
この10年の歩みに今の解体新書の視点で光が当たっていく。
削ぐべきものを削ぐことで、そのエッセンスが強く浮かび上がる。
そんな想像を1人楽しむ読者なのでした。
Unknown
(
Unknown
)
2015-10-20 16:10:24
台風って、なんか似てません?
台風の目の所から外側を見てると、雨が降ったり風が吹いたりする現象が見えるとして、それを自分だと思ったり、自分が起こしてると思っちゃうの(思いっきり擬人化、笑)
でも、あるとき、目が不意に内側(この場合は台風の中心)に向く。そうすると、そこには何もないし、なにも起こってないし、自分がいて動かしていたんじゃないんだ~~みたいな。無理があるかな???余計、伝わりづらいかも、ごめんなさい。混乱招きそうなら、コメント、のせなくてもいいですよ~。
黒も白もないですよねって書いたけど、黒いものって、分離の思い込みのことだったのですね、なるほどです。ありがとうございます。
先日の
(
Unknown
)
2015-10-20 18:07:38
ずっと黒斎さんのお話を聞いていて、無知だからこそ、あーそうなんだへーそうなんだと。抵抗することなくストンストンとおちていきました。 ただ先日の内容の中に、「本来、影響を与える側も受ける側もいない。」というのがあったと思うのですが…元々ひとつであるということなのかなとは思うのですが、現実、私は、黒斎さんに影響を受けているし…と…モヤモヤモヤモヤ。
うっΣ(゜Д゜)
(
てるみん
)
2015-10-20 18:27:26
さすがにいつもわかりやすい黒澤さんの表現を
駆使してもらってますが、頭がついていきません(T-T)
Unknown
(
ひよどり
)
2015-10-20 18:35:22
何はともあれ
更新がまめでうれしいです。(^_^)
要は
(
宙
)
2015-10-20 19:01:10
「起きていると思い込んでいるだけで本当は起きていない」ってことですよね。
「妙」というのはミクロ目線のことですよね。現象が起こっているように見えるが、それは全て原子(或はそれを作る電子等)。くっついたりしているが原子等であることに変わりはない。
だから起こっていない(本質が変化したわけではない)
人間もその辺の石ころも、どっちも原子等の集まりでしかなく、ミクロ目線では一緒
つまりは、「妙=原子等=見えない本質=見える現象=徼」
ってところですかね。
原子だから文字通り目に見えない本質ですね(笑)
「玄」が何なのかわかりませんが(´-`)
或は、「玄」も原子のことで、「さらに奥深くにある玄」が電子等のことなのかな
Unknown
(
マタ
)
2015-10-20 20:04:00
ごめんなさい。
コメントさせてもらいます。
二元と非二元の世界があるわけではなくて
①妙=無分別=空=見えない=起きてない
②徼=分別=色=見える=起きてる
①と②は別ではない=非二元=玄=ワンネス
=起きてるけど起きてない
なんではないかなぁと思ったのですが。
どうでしょう。
苦しみ
(
ちんぷん
)
2015-10-20 20:20:19
苦しみの真っ只中にいます
以前は覚者のメッセージで救われた気分になっていましたが
中途半端に理解した今
一時的な慰みと感じ尚苦しいです
只々楽になりたい
玄って?
(
あるく
)
2015-10-20 22:18:00
黒斎さん、分かりやすい解説ありがとうございます。
妙と徼についてはよく理解できますが、玄が
分かりません。
マタさんのコメントだとよく分かるのですが。
玄について改めて教えてください。
よろしくお願いします。
コメントパス
(
あるとき551
)
2015-10-20 22:47:46
今度のは難しいから、コメント休みます。
私の解釈ですが
(
模察
)
2015-10-20 23:27:49
玄とは無のことです。
量子論の不確定性原理に照らすと、無(真空)からエネルギーが生まれ、エネルギーが素粒子へ、そして原子が生成され物質となります。
意識(感情や思考を含む)も、同じエネルギーの現れです。
現代物理学は、タオや釈迦の教えと同じ解を導き出している気がしています。
わかった!
(
てるみん
)
2015-10-21 08:46:23
2回読み返したら、黒澤さんの伝えたいことがわかりました\(^o^)/
あー!
(
まーる
)
2015-10-21 09:59:31
起きてるけど起きていないが非二元そのものなんだぁ(*´∀`)
両方が、どん!とここにある。
起きてる(思考の世界)があり、起きていない(ただある世界)が。
Unknown
(
littlemy
)
2015-10-21 10:47:03
私もこのフレーズ、変だなぁと思っていた時がありました。菜穂さんの話を聞いていて、あぁ、違う視点から見た時の話をしているのかということにやっと気が付きました。
やっぱり、エゴちゃんの教育を目的とするなら、言葉をはしょると何を指し示しているのかすらわからなくなります。
その辺、コクサイさんはとても丁寧に説明して下さるので大変にありがたいです。
指さす。
(
星四朗
)
2015-10-21 11:24:25
外側に向けている方向を逆にする、
というか、どこから外側を認識していたかに意識を向けると、そこに何も無さ、変化と共にありながら変化に影響されない変わらなさがあるんじゃないかなとおもいます。
それは、それまで外側をさしていた指を内側に向けるということで、それが例えではなく文字通りの行為としてそのまんま有効な事がわかる、とても簡単で時間もかからない「実験」があります。
私はこの実験で、あまりにも当たり前すぎて見過ごしていた拍子抜けするほどシンプルなものが見えました。
それは確かに「起きているけど、起きていない」と表現できるものでした。
興味のある方は、リンク先の「ここを指さす」の説明や動画を見て実際にやってみる事をお勧めします。
他にも面白い記事や実験がいろいろありますよ。
宣伝くさくなって申し訳ないですが、
黒斎さんにも、コメントを見ている皆さんにも、
こんな簡単な方法があるって知ってもらいたかったんです。
Unknown
(
m
)
2015-10-21 19:56:33
私なんて、忘れたいのに思い出せないんですよ。
どうすることもできない
(
なう
)
2015-10-25 06:48:26
仮説
映画鑑賞をしているとする
映画は自動的に終わるのに
照明もついて勝手に明るくなります
それは
映画の登場人物が行っていることではない
映画の最後のシーンには
誰かが悟ったというシーンも映る
さらに映画のエンディングのあとの付録映像には
台本シナリオの作成の経緯や
この映画の実際の制作過程が映される
それも映像特典です
物語の最後の悟った登場人物が
こういった映像を作って終わらしたわけじゃない
笑
特典映像も含めて
ただの映画
そして照明がつくだけ
そのとき、本当に夢だったとわかるのではないだろうか
♪
(
なう
)
2015-10-28 04:45:14
私からの視点
と
意識(源)からの視点
世界の見方
自我からの視点だと自我の世界がみえる
意識からの視点だと
意識の世界がみえる
罪の世界か
潔白の世界か
非実在の世界か
実在(愛:存在)の世界か
♪
(
なう
)
2015-10-31 07:55:37
かんたんにいうと
自我ちゃんは
いしきが源でありながら
いしきを否定して成り立つ
ものであります
いしきを否定しないなら
いしきに消え去ってしまいます
いしきを否定することにより
自我構築が可能になります
自我ちゃんは源でないのに
源だと主張することにより
構築することが可能です
砂上の楼閣のようなもんですね
自我ちゃん
観念が基盤だというのです
私、という観念が基盤だというのです
コースによれば
夢みることはできてもそれを現実(基盤)にすることはできません
自我ちゃんは
矛盾をつかって成り立つものです
すなわち
源をつかって源を否定する
妥協は夢でしかない
(
なう
)
2015-11-23 09:26:48
起きるべきことが起きている
のもありかもしれませんが
起きていると錯覚してる存在がいるわけで
私(はいしきでない)
私の正体がわかれば
(いしきの指示語にすぎない)
なにも変わらない
だって
私は
いしきと同じだったから
なにも変わらなかったんです
起きることが起きてないんです
私
はいしきでない
は
起きてないんです
だから
起きるべきことも起きないんです
起きるべきことが起きている
と錯覚してる存在がいるわけで
その錯覚自身が起きてないんです
起きることは夢であり、私も含めて目覚めではありません
それは夢(錯覚)なんです
インナーチャイルド(原因)
(
なう
)
2015-11-26 11:44:43
わたし:「インナーチャイルド」は
キリスト(つまり いしき)か
自我か
http://www.youtube.com/watch?v=ILEnn4bjLAo&sns=em
飴玉(身体)
(
なう
)
2015-11-27 08:42:33
飴玉すべてパーフェクト世界
編
ノンデュアリティのオチばかりだと飽きてきたので
遊びにもひとつ書いときます
我われは
体の口のなかで飴を舐めて楽しんでいます
それと同じように
内側で体験してるんじゃなくて
飴のように
なにか制限のない外側の存在が飴を楽しんでいるように
身体を楽しんでいるのかもしれません
じつは内側で苦しんでるのではなく
自由な外側から肉体を楽しんでるのかもしれません
飴のたとえのように
しかし我われは
飴の中で苦しんでいる(舐められている)と錯覚しているのかもしれません
じつは舐めているうちにいろいろな味わいができる高級飴を舐めているのかもしれません(苦み、シュワっと刺激も、噛み砕かれるのも)
内側で舐められている(体験している)、そうして苦しんでるんじゃなく
本来自由な外側から飴を楽しんでるのかもしれません
そしていろんな舐め方をされてしまいますが
それは外側の存在が
楽しんでいるので
飴はなされるがまま
舐め方も決められない体験しているわけです
錯覚がおこって飴が舐められ体験させられていると苦しんでいるのかもしれない が
じつは
ほんとは楽しんでいたりして
本来のじぶん(自由)は
お口のなかの飴を
そして
作った飴は
舐めればなくなりますが
楽しんでいるじぶんはなくなりません
パワーは変わりようがない
(
なう
)
2015-12-14 18:36:33
身体が私という想いを発していると信じないかぎり
私という言葉や
私という想いは
私以前の
つまり
私という想いの自覚以前の
言葉にならない
想うまえの
いしき
から生まれている
それは
私という想いにもならない
以前の
パワー
それは
個
ではないパワー
個(私)という想いを自覚するまえのパワー
熟睡のときなどに存在しているパワーである
パワー(熟睡:休息:非個人的パワー)はいつもある
すべてはそこからあらわれた想像であり
パワーは
変わりようがない
変わったと考えるのが
‘私’であり
‘私’でさえ
‘私’にとっての何かさえ
そのパワーでしかない
エネルギーはなにも変わっていない
覚醒して
なにか夢の外にでなければそのパワーを味わえないというものではない
見るもの聞くもの
すべてこのパワーである
それは源であり起こっているすべてである
それしか味わっていないのである
その意味では
幻想は起きていない
幻想を味わっていると感じるか
変わっていないパワーを味わっているか
は
見方次第である
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最近の「わたしはいない」ムーブメントのこともあって、皆生まれ変わりについては様々な解釈や疑問が頭を去らないでしょうが、あえて言いますが黒澤さんは誰がどう見ても仏教系の転生を何度か踏んでますわね?(笑)
いくら観念の上で「無い」ったって隠せない。あなたの魂は伝えずには居れないんだもの。
・・・
ところで、
黒澤さんのブログは過去の記事にも、言葉にならない思考を越えた世界について核心を突くものや、現実的に辛い思いを抱えた方の心を解す言葉をたくさん書いてこられましたね?
色んな角度、表現で、発信し続けてきたそれらのことを、今の黒澤さんはどう見るのか。どう表現するのか。またどう削ぎ落とすのか。
そんなことをふと思います。
まだ10周年には早いですが、近々そうした10年の積み重ねに相応しい、棚卸し的な取り組みをやってみるというのは如何でしょうか?
一読者の差し出がましい提案ではありますが…、
実際、今辛い思いをしてブログなどにたどり着いた方は読みたい気持ちも強いけれど、一方で記事の量の多さに打ちのめされるでしょう。
記事自体の数の多さもありますし、当時ならよく分かる笑いネタ要素の部分だったり、当時の告知部分の文字量の多さだったり。
あと定番ですけど、Aの記事、Bの記事、反対のことを書いてるように感じるけど、どっちをどう理解すればいいのか…的なこととか。
突き詰めれば、
たぶん古来の仏教から続く性質と同じだと思いますが、
「様々な衆生に向けた多様な説明が、その意図とは逆に分離をも招いてしまう」という構造ですね。
それらの現状を放置しておくのもさすがにもったいない。
それは、ダイヤが原石として埋もれてしまったかのようにも思えます。
・・・
というわけで、
行動予定表も出来たことですしね。(笑)
この10年の歩みに今の解体新書の視点で光が当たっていく。
削ぐべきものを削ぐことで、そのエッセンスが強く浮かび上がる。
そんな想像を1人楽しむ読者なのでした。
台風の目の所から外側を見てると、雨が降ったり風が吹いたりする現象が見えるとして、それを自分だと思ったり、自分が起こしてると思っちゃうの(思いっきり擬人化、笑)
でも、あるとき、目が不意に内側(この場合は台風の中心)に向く。そうすると、そこには何もないし、なにも起こってないし、自分がいて動かしていたんじゃないんだ~~みたいな。無理があるかな???余計、伝わりづらいかも、ごめんなさい。混乱招きそうなら、コメント、のせなくてもいいですよ~。
黒も白もないですよねって書いたけど、黒いものって、分離の思い込みのことだったのですね、なるほどです。ありがとうございます。
駆使してもらってますが、頭がついていきません(T-T)
更新がまめでうれしいです。(^_^)
「妙」というのはミクロ目線のことですよね。現象が起こっているように見えるが、それは全て原子(或はそれを作る電子等)。くっついたりしているが原子等であることに変わりはない。
だから起こっていない(本質が変化したわけではない)
人間もその辺の石ころも、どっちも原子等の集まりでしかなく、ミクロ目線では一緒
つまりは、「妙=原子等=見えない本質=見える現象=徼」
ってところですかね。
原子だから文字通り目に見えない本質ですね(笑)
「玄」が何なのかわかりませんが(´-`)
或は、「玄」も原子のことで、「さらに奥深くにある玄」が電子等のことなのかな
コメントさせてもらいます。
二元と非二元の世界があるわけではなくて
①妙=無分別=空=見えない=起きてない
②徼=分別=色=見える=起きてる
①と②は別ではない=非二元=玄=ワンネス
=起きてるけど起きてない
なんではないかなぁと思ったのですが。
どうでしょう。
以前は覚者のメッセージで救われた気分になっていましたが
中途半端に理解した今
一時的な慰みと感じ尚苦しいです
只々楽になりたい
妙と徼についてはよく理解できますが、玄が
分かりません。
マタさんのコメントだとよく分かるのですが。
玄について改めて教えてください。
よろしくお願いします。
量子論の不確定性原理に照らすと、無(真空)からエネルギーが生まれ、エネルギーが素粒子へ、そして原子が生成され物質となります。
意識(感情や思考を含む)も、同じエネルギーの現れです。
現代物理学は、タオや釈迦の教えと同じ解を導き出している気がしています。
両方が、どん!とここにある。
起きてる(思考の世界)があり、起きていない(ただある世界)が。
やっぱり、エゴちゃんの教育を目的とするなら、言葉をはしょると何を指し示しているのかすらわからなくなります。
その辺、コクサイさんはとても丁寧に説明して下さるので大変にありがたいです。
というか、どこから外側を認識していたかに意識を向けると、そこに何も無さ、変化と共にありながら変化に影響されない変わらなさがあるんじゃないかなとおもいます。
それは、それまで外側をさしていた指を内側に向けるということで、それが例えではなく文字通りの行為としてそのまんま有効な事がわかる、とても簡単で時間もかからない「実験」があります。
私はこの実験で、あまりにも当たり前すぎて見過ごしていた拍子抜けするほどシンプルなものが見えました。
それは確かに「起きているけど、起きていない」と表現できるものでした。
興味のある方は、リンク先の「ここを指さす」の説明や動画を見て実際にやってみる事をお勧めします。
他にも面白い記事や実験がいろいろありますよ。
宣伝くさくなって申し訳ないですが、
黒斎さんにも、コメントを見ている皆さんにも、
こんな簡単な方法があるって知ってもらいたかったんです。
映画鑑賞をしているとする
映画は自動的に終わるのに
照明もついて勝手に明るくなります
それは
映画の登場人物が行っていることではない
映画の最後のシーンには
誰かが悟ったというシーンも映る
さらに映画のエンディングのあとの付録映像には
台本シナリオの作成の経緯や
この映画の実際の制作過程が映される
それも映像特典です
物語の最後の悟った登場人物が
こういった映像を作って終わらしたわけじゃない
笑
特典映像も含めて
ただの映画
そして照明がつくだけ
そのとき、本当に夢だったとわかるのではないだろうか
と
意識(源)からの視点
世界の見方
自我からの視点だと自我の世界がみえる
意識からの視点だと
意識の世界がみえる
罪の世界か
潔白の世界か
非実在の世界か
実在(愛:存在)の世界か
自我ちゃんは
いしきが源でありながら
いしきを否定して成り立つ
ものであります
いしきを否定しないなら
いしきに消え去ってしまいます
いしきを否定することにより
自我構築が可能になります
自我ちゃんは源でないのに
源だと主張することにより
構築することが可能です
砂上の楼閣のようなもんですね
自我ちゃん
観念が基盤だというのです
私、という観念が基盤だというのです
コースによれば
夢みることはできてもそれを現実(基盤)にすることはできません
自我ちゃんは
矛盾をつかって成り立つものです
すなわち
源をつかって源を否定する
のもありかもしれませんが
起きていると錯覚してる存在がいるわけで
私(はいしきでない)
私の正体がわかれば
(いしきの指示語にすぎない)
なにも変わらない
だって
私は
いしきと同じだったから
なにも変わらなかったんです
起きることが起きてないんです
私
はいしきでない
は
起きてないんです
だから
起きるべきことも起きないんです
起きるべきことが起きている
と錯覚してる存在がいるわけで
その錯覚自身が起きてないんです
起きることは夢であり、私も含めて目覚めではありません
それは夢(錯覚)なんです
キリスト(つまり いしき)か
自我か
http://www.youtube.com/watch?v=ILEnn4bjLAo&sns=em
編
ノンデュアリティのオチばかりだと飽きてきたので
遊びにもひとつ書いときます
我われは
体の口のなかで飴を舐めて楽しんでいます
それと同じように
内側で体験してるんじゃなくて
飴のように
なにか制限のない外側の存在が飴を楽しんでいるように
身体を楽しんでいるのかもしれません
じつは内側で苦しんでるのではなく
自由な外側から肉体を楽しんでるのかもしれません
飴のたとえのように
しかし我われは
飴の中で苦しんでいる(舐められている)と錯覚しているのかもしれません
じつは舐めているうちにいろいろな味わいができる高級飴を舐めているのかもしれません(苦み、シュワっと刺激も、噛み砕かれるのも)
内側で舐められている(体験している)、そうして苦しんでるんじゃなく
本来自由な外側から飴を楽しんでるのかもしれません
そしていろんな舐め方をされてしまいますが
それは外側の存在が
楽しんでいるので
飴はなされるがまま
舐め方も決められない体験しているわけです
錯覚がおこって飴が舐められ体験させられていると苦しんでいるのかもしれない が
じつは
ほんとは楽しんでいたりして
本来のじぶん(自由)は
お口のなかの飴を
そして
作った飴は
舐めればなくなりますが
楽しんでいるじぶんはなくなりません
私という言葉や
私という想いは
私以前の
つまり
私という想いの自覚以前の
言葉にならない
想うまえの
いしき
から生まれている
それは
私という想いにもならない
以前の
パワー
それは
個
ではないパワー
個(私)という想いを自覚するまえのパワー
熟睡のときなどに存在しているパワーである
パワー(熟睡:休息:非個人的パワー)はいつもある
すべてはそこからあらわれた想像であり
パワーは
変わりようがない
変わったと考えるのが
‘私’であり
‘私’でさえ
‘私’にとっての何かさえ
そのパワーでしかない
エネルギーはなにも変わっていない
覚醒して
なにか夢の外にでなければそのパワーを味わえないというものではない
見るもの聞くもの
すべてこのパワーである
それは源であり起こっているすべてである
それしか味わっていないのである
その意味では
幻想は起きていない
幻想を味わっていると感じるか
変わっていないパワーを味わっているか
は
見方次第である