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言葉

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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最近なんだか娘の言葉遣いがとても丁寧です。

いえ、もともと荒々しい言葉使いだったということではないのですが、なんて言うんですか、「敬語」に興味が出てきたようなところがありまして。

幼い娘が一生懸命敬語を使っている様は、なんとも微笑ましいかぎりではありますが、勢い余って僕が帰宅するなり

ヾ(≧▽≦)ノ 「パパーー! お帰りくださいっ!!」

って出迎えるはどうなのよ…。


(-公-;) 竹彩さん。。。気持ちはわかりますが、この場合「ください」は余計です。


と、言うことで、今日は「言葉」をテーマにちょっとマニアックなお話を進めてみたいと思います。


唐突ですが…

皆さんは『言葉が世界を創り出している』というフレーズを見たとき、その言葉の意味するところを掴むことができますか?


これは、言い換えると『言葉が「幻想の世界(マトリックス)」を創りだしている』ということなんです。

人間は、「言葉」に出会った事を切っ掛けに、「悟り」という目覚めた状態を忘れてしまいました。

この場合、「言葉」をそのまま「思考」と言い換えてもいいかもしれません。


このブログや阿部さんのブログをご覧の方の中には、最近「瞑想」にチャレンジしている方も多いと思います。

この「瞑想」。

「思考を消し去ること」、と言われると難しいかもしれませんが、「アタマの中から言葉を消し去ること」と捉え直すと少しわかりやすくなりませんか?

「思考(自我)」は、物事を「あるがままの状態」で認識することができません。

「感じたこと」を、瞬時に「言葉(またはイメージ)」に変換してしまうのです。


座禅を組んでいる最中、ジリジリと感じられる足の痛みを「痺れた」という言葉にしてみたり、呼吸の最中も「吸って~、吐いて~…」と呼吸そのものから離れ、行為や状態を「言葉」にしてしまいます。

また、今行っているはずの「瞑想」という状態を忘れ、過去に起こった事や、未来への展望、計画、「いまここ」とはまったく関係のない情景や想像・妄想など、アタマの中では絶えず「独り言」が続いているのです。

「瞑想」の本質を知るコツは、アレコレその仕方を追い求めることではなく、実際にやってみること。

そして、日々自分のアタマの中で、常時独り言が休む間もなく続いていることに気づくことです。

また、気付きの後、何かをしようと思わないことです。

何かをしようと思ったとたん、そのことに関しての独り言が始まってしまいますから。

気付いたら、気付いたままでいいんです。

アタマの仕組み上、「思考」と「気付き」は同時に出来ないんです。ですから、アナタが自分の独り言に気付いている時、独り言は自然と止まり、気付きだけがあるはずです。(「気付きが大切」と言われる所以はこういうところにあります。)


また、「思考を消し去ること」は「意識を失うこと」ではありません。

自分が今感じていることを、「言葉」に変換せずに「感じたまま」にしておくことです。

ですから、しっかり意識はあります。むしろ、思考に邪魔をされない分、意識はより鮮明になっていきます。

自分が今感じていることを、「言葉」に変換せずに「感じたまま」にしておくこと。そうすることでアタマから「言葉(Think)」が消え、「感じている(Feel)」というクリアな意識だけが残るんです。

その「思考」に縛られていない純粋な意識が「存在」というアナタの本質です。

アナタの皮膚の細胞の一つが死に絶え、垢となってアナタから離れてもアナタ自身が消えない様に、私たちの身体が死に絶え、死体となってこの世から離れても、「存在」は決して消えることはありません。

物事の「本質」は、けっして「思考(言葉)」で見つけることは出来ません。


ブルース・リーが残した名言「Don't think, Feel!」は、まさにこのことに気付くことの大切さを示した言葉です。


視覚・触覚・嗅覚・聴覚・味覚、それらの感覚をとおして捉えたものを「言葉」に変換したとたん、感覚が「言葉」という「主観による断定」「定義」に姿を変え、『超個人的な世界』が誕生するんです。

「超個人的な世界」は、その本人にとっては揺るがない真実ですが、全ての人に共通する世界ではありません。

つまり、その世界は、自分だけが目にしている「主観」という「幻想(マトリックス)」なんです。



ちなみに、今日お話したこの内容は、旧約聖書『創世記』で説かれる「アダムが口にした善悪の知識の木の実」のお話に通じます。

アダムが食べた「善悪の知識の木の実」。宗教画で「林檎」がモチーフとして描かれているあれがそうです。

聖書は「思考」のことを「善悪の知識の木の実」として伝えたんですね。



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