酷すぎる安倍政権の沖縄いじめ…米軍属事件対策の防衛省パトロール隊が基地反対派を監視! 小池百合子も沖縄ヘイト
http://lite-ra.com/2016/07/post-2451.html
安倍首相の子飼いである長尾敬衆院議員
そして、いま話題の小池百合子・東京都知事候補も、沖縄バッシングに加担してきた人物だ。沖縄担当相だった2006年には、「沖縄とアラブのマスコミは似ている。超理想主義で明確な反米と反イスラエルだ。それ以外は出てこない」
「沖縄のメディアが言ってることが県民すべてを代表しているわけではない」と述べている。
〈小池とメアの2人はビールなどをレジに運び、その場でどちらが支払いをするかで軽くもめていた。
「私が払う」「いや、私に払わせてくれ」
(中略)
「私が払います」。小池がメアを制して、店員に無理やり1万円札を手渡した。続けて、小池はメアにこう告げたのだという。
「思いやり予算よ」
コンビニの支払いを、米軍駐留経費に対する日本側の財政的支援に例えたのである。
2人は軽く笑いながら店を出ていった〉
そしていま、高江で、辺野古で起こっていることは、沖縄の問題ではなく日本全体の問題だ。人権を無視する行動が行われても平然とするばかりか、さらにそれ を煽る長尾議員のような言動は、安倍政権下で、いつ、わたしたちに向けられてもおかしくはない。沖縄に対する民主主義を無下にした政府の蛮行に、いま「本 土」からこそ、批判の声を高めなくてはいけないはずだ
(以上抜粋)
150人の村を500人の機動隊で制圧、混乱続く沖縄のヘリパッド移設
http://dot.asahi.com/aera/2016072700103.html
何となくだが、知事の安保容認の基本姿勢が国家政府の犯罪的暴力的侵略的断行を招いているとしか考えられない。知事は高江に行って惨状を目の当たりにすればいいのだ。これが国家のすることか、あり得ない、となる。そこからオール沖縄を再度立ち上げなければならない。でないと、市民運動のエネルギーを損ねるばかりか県民を置き去りに行政が勝手にその運命を決する重大な失政となりかねない。
沖縄タイムス辺野古・高江取材班 @times_henoko 14分前
7月28日午前9時52分、警察車両が前後を警備する中、米軍北部訓練場N1地区表側の出入り口からトラックが入りました。市民らは警察に対し、「工事に加担して恥ずかしくないのか」と怒りの声を上げました。#沖縄 #高江
世界史的に言うところの「近代」化は、この国日本(明治維新以来の日本)においては明らかに失敗だった(勿論この断定的結論は論証を必要とする)のだが、敗戦の一事だけでそれがそのように片づけられないことは、むしろ世界的展望からも容易に判断できることだ。何故なら、現に今でもこれからも戦争の種は尽きそうにないしそれには必ず勝者がいれば敗者もいる(終わりのない泥沼戦争もあるが)。人類史は戦争の繰り返しとも言われるし、推論的には正解でもある。逆に言えば、その(戦争の)悲惨な実情に思いを巡らせるなら、敗者も勝者も等しく、明らかに愚かしい残忍な行為に加担した事実は争えない。そこから、極東裁判が勝者による報復的裁判という誹りに塗れるのは当然である(ニュルンベルグ裁判のことは今問わない)。だが暫く「正義」の名のもとに戦争することを肯定するなら、オバマのいう現実主義は正当であり、又、例えば「人口調節」的な人工的操作を肯定するなら、戦争の効用を認めるのは客観的には妥当とさえいえる(ナチスのユダヤ絶滅計画を妥当というのではない)のだが、翻って、国家とは何か(戦争は国家が始める)、国民とは何か(国民は戦争の国家要員とされる)、と問うとき、「ニワトリと卵」的水掛け論でなくまともな意見として論えば、そこに重大な人類的価値観に関する永遠の試練が待ち構えている。試練である以上誰しも免れない道義的切迫性がある(基本的には政治的外交的問題の解決手段としての戦争を是とするか否とするかの国民投票を用意するのか、国家専権事項として時の代議が決定するのか、いずれにしても重大な案件には変わりがない)。
第2次大戦、あるいは15年戦争において日本が中国はじめ連合国に敗北したことは、様々な意味において国家的な従って国民的な、極めて重くのしかかる大きな課題を突き付けられた、ということになるのだが、筆者の見るところこれに対し戦後日本が一つの国家的国民的コンセンサスを呈示し得たものにはお目にかかっていない。それは極東裁判に代わる人民法廷さえ一度も開かれたことがないことからも窺える戦後日本の在り様だ。戦犯は正しく裁かれたのか、その裁定で敗戦を総括し得、戦後の在り様を真摯に展望できたのか、答えは否、だ。
安倍晋三、日本会議等現今国家右翼の跳梁はすさまじい勢いで日本を席巻している様子が見える。しかし、その言行、執政の根本が歪んでいる。彼らに固より先の大戦への真面目な省察など望むべくもない。これはしかし、日本国自体が敗戦含め維新以降の近代日本を総括する取り組みに少しく挑んでないせいでもある。だから不遜にして傲慢な、かつ極めて恣意的私的な願望がまるで正当性を保障されている(代議選投票実数が議席数に正確に反映されてないうえに国民の5割近くが棄権しているのにかかわらず)かのごとく、厚顔な反知性的、非論理的、非倫理的叫喚まで政策課題に上せることができてしまう、非「民主的」環境に陥没するのだ。
国家主義は大掛かりな、国民を使った人体実験である(正確にはそこに至る国策に国民は介在してない)。ヒトラーという稀代の国家主義者がやったことは後代に文化的遺産として何一つ残さなかった、と言えばうそになる。しかしそれは実におぞましいものとしてしか残らなかった。ドイツ国民は戦後この負の遺産を抱えて人道的倫理的義務を果たさねばならなくなった。大東亜共栄圏というアジアを巻き込む全体主義は、右翼に言わせれば多くの弱小民族を欧米の帝国主義から解放するきっかけとなったということになる(だが、中国や朝鮮、フィリッピンなどの人民は未だに反日的感情に支配されている部分がある)。では日本帝国にとって、自国が敗北してでも(自国民が敗北の民となっても)これをする意味はあったのか。というよりその資格があったのかとさえいえるが、例えば敗戦のあと沖縄はどういう憂き目を見たか。既に勝敗が決している戦争を、天皇の恣意によって続行した挙句が沖縄抹殺の人体実験だった。
彼らは責任を負わない。国家主義の実践は数人の人身御供を殺して終わる(A級戦犯のこと)、総括せず堕落の途に上るうやむや世界を生むだけだ。堕落の一途は既に戦後70年の事跡が実証している。原発のでたらめ、米軍基地の苦々しい存続、沖縄特化の差別的構造、こういうのを政治の堕落というそうだ。(つづく)
<米軍ヘリパッド>防衛局、伐採の事前協議なし テント撤去も法的根拠なし
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=180468
東村高江周辺の米軍北部訓練場でヘリパッド建設工事を進める沖縄防衛局が木を伐採する際、本来必要な林野庁沖縄森林管理署との事前協議を行わないまま工事に着手していた
22日に建設に反対する市民のテントを撤去したことについて、法的根拠がないことを事実上認めた。(抜粋)
こんなことは安倍晋三の手先が最初からやりそうなことで、呆れ返って物も言えない。
<米軍ヘリパッド>N1地区裏の工事用道路、完成後は軍が使用の可能性
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=180465
こいつら戦争で分捕った島だと、我が物顔でやりたい放題だなあ