辺野古訴訟、高裁和解勧告後沖縄は、米軍属による惨たらしい事件以外はこの参議院選まで一種のナカユクイ(休息)状態に置かれたのかもしれない。しかしその間も、特に事件前後にわたり辺野古、嘉手納、普天間、読谷等ではずっと市民の監視抗議行動が続けられてきた。
勿論この参議院選もある意味激しい市民運動の一環であり、「辺野古ノー」の意思を反映させるための県民規模の大抗議活動であった。結果は辺野古阻止の伊波氏が数年前に移設容認に転じた島尻現役大臣(この沖縄選出の政治家を担当大臣に配置した理由は全く分からないし当面継続させるという意味もわからない...つまりは政権が敗北を認められないのだろう)に圧勝し、当然すぎる県民の答えをはじき出したということになる。
ところが安倍晋三に言わせれば辺野古和解は「迂回策」だそうだ。ひと馬鹿にした話だが、客観的に見るとこの男の脳程度がこの程度かと思える言辞であろう。そういう宰相の采配で今度は高江が危機に瀕しているが、辺野古と高江はその質に於いて全く同じものなのに、参議院選明けには直ちに工事着手へ準備が始まった、という、司法による和解勧告を当の国がごみのように捨てる奇怪な展開となっている。
ここでもまた同じような国家権力と市民のせめぎあいが繰り広げられる(県民の誰一人こんな展開は望んでいないはずだが。国だけが勝手に強硬策をとって無用な人民闘争を喚起している)。翁長知事が高江ヘリパッド工事阻止の意思を明確にしない限りこの国家犯罪はゆくりなく進行する。沖縄県警など当然信用できない。全国規模で徴集される機動隊は500人規模と言われる。つまり、沖縄以外の日本全国46都道府県寄ってたかって沖縄を力づくで攻略しようという、前代未聞の野蛮な話が今この国では起きている、ということだ。
最早、堪忍袋の緒が切れたはずだ、あの米軍属による沖縄女性暴行殺害死体遺棄事件で。明治の併合以来、琉球沖縄は未だに繰り返し「琉球処分」的処遇を受け続けている。武力による威嚇で琉球王府を瓦解させた野蛮な明治新政府以来、近代化に最終的に失敗した大日本帝国は、先の大戦で沖縄を捨石に多大の残忍な犠牲を強いたくせに結局本土決戦、一億玉砕の闘いさえすることもなくぶざまに無条件降伏し、米国の軍門に下った。しかもその影響を7割方沖縄に集中させることで国民の目から安保被害の実態を覆い隠して、戦後はエコノミックアニマルなる獣的な非人間的な歓楽を謳歌しバブルがはじけ陥没し、そして今や中国に追い抜かれて三等国以下の地位をかこつことになる。当然中国は敵視する好材料となった。あの日中戦争並みに。あれは侵略だったが、今度はそびえたつアジアの脅威として敵視するのだ。
この対中脅威こそ安倍晋三の戦前復活、軍国化、憲法改悪の核となるものだ。しかも世界の大勢は安倍晋三の頭の中のえずらとは真逆の様相を呈している。今や戦争はミサイル戦争であり、沖縄の海兵隊など屁の役にも立たないばかりか、彼らがここにいるせいで沖縄島嶼がミサイル攻撃のまさに標的となる。沖縄県民は万が一局地戦からミサイル戦争に至ったなら直ちにここを脱出しなければならないが、これも恐らく事実上不可能だ(ミサイルは逃げ出す間もなく頭上に飛来する)。何万人もの人が再び殺される。こんな国の為に。
高江工事着手と同時に琉球分離独立宣言を発出すること。そうでなければ、命がけで抗議活動をする。しかも機動隊は数を恃んで排除に勤しむが、市民は何も無抵抗に引きずり回されることはない。ガンジーは「臆病よりも暴力を勧める」と言った。彼は知っているのだ。官憲の暴力には正当性がなく、ただ「公務執行妨害」という一事に縋っているだけだ。元々彼らの行為の根拠は薄い。命令通りやっているだけで、彼ら自身の中に現生活維持程度の意識以外は動機として何もない。動機のない行動に本当の力はない。これを怖れることはない。だから、数に恃んだ国家権力は張子の虎である。萎える必要はない。中身のない機械的な暴力装置が稼働しているだけだ。
わたしの信念によると、もし、臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、わたしはむしろ暴力をすすめるだろう。インドがいくじなしで、は ずかしめに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、わたしはインドが武器をとってでも自分の名誉を守ることを望んでいる。しかし、わたしは非暴力は暴 力よりもすぐれており、許しは罰よりも、さらに雄雄しい勇気と力がいることを知っている。しかし、許しはすべてにまさるとはいえ、罰をさしひかえ、許しを 与えることは、罰する力がある人だけに許されたことではないだろうか。(マハトマ・ガンジー)
コザ騒動がこの意見の正しさを証明している。その後の法的扱いは実に軽微なものだった。この騒動の原点は「堪忍袋の緒が切れた」ことによる。つまり、無力な市民(罰する力がない市民)が一種の暴力行使によってその意をアピールしたということ。
高江の理不尽は辺野古同然の意味にある。あれが「和解」的中断を導いたのは官憲が質に於いて市民を排除しきれなかったということだ。勿論どんどん増えていった県民の総力でもある。高江でそれができないはずはない。実際以前の闘いでここ2年近く工事はストップしていたのだ。しかし、安倍晋三によればこれも「迂回策」なのだろう。チルダイしてはならない。解決策、打開策は必ずある。沖縄だけがそれを可能にする。張子の虎に威しすかされていることはない。(つづく)