望月の万治の石仏 天神城の石碑

2023年05月18日 | 



万治の石仏です。
万治元年のフツトボールなんて題名の小説を読んだのは、はるか昔でした。

いいお顔しています。
製作年が掘られていますが、万治二年、とも四年とも読めるようですが、万治は三年で終わっています。
でも、あるんですよね、年号が変わったなんて下々に行きわたっていなくて、去年の続きの年号になっているの。

以前見たことがありました。
ちなみに万治は1658年から1660年のことです。


これを見た後、堂上の五輪塔を見に行きました。
堂上という地名は、土地の中でも尊重される場所を指しているのだそうです。
道路の拡張工事をしたら、五輪塔がでてきたのだとか。
室町時代初期の造立とされるようです・・・・・・その形から。この時期望月氏が活躍なされていた時期だったので、そうではないかとされるのですが、講師は資料がないと明言されませんでした。
南北朝時代1335年に小笠原貞宗により滅ばされています。

その後また復活したのでしょうか。
望月氏は1543年に武田信玄に滅ぼされています。
その時のお城が天神城。

現在の天皇が学生時代に卒論の調査で、天神城と五輪塔とお寺をご学友と見学に訪れたそうです。
講師はそのご案内をしたそうです。

その記念碑が両方に建立されていました。
その石碑を見ていた方が、この字なんと読むのでしょうか?と隣にいた私に声を掛けられました。

えー、そんな難しい字、というか難しいいこと書いてありましたっけと、しみじみ眺めました。

この石碑は五輪塔のところのもの
、さすがに裏を見てきませんでした。見てくればよかったわ。
こちらが天神城の石碑なのですが、上記と同じないようですが、反射してよく見えません。



おわかりになりますか、昭和の和が裏返っているのです。

この石碑にどんなドラマがあったのでしょうね。
なんていろいろ想像したのでした。
「氏子」の皆さんがこれを立てておくには、それ相応の理由があってのことなのでしょうね。
講師も初めて知ったとのことですが、決して間違いということではないだろうとのこと。
わー、この訳を私は知りた~いです、どなたか教えて下さい。

読みいただきありがとうございました。
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コメント (2)
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