「信州カラマツを宝に」シリーズは、2月3日の15回目をもって終了しました。
ロシアが高い関税を掛けたことにより、国内の木に脚光が集まり、長い不遇の時代ほ経ていたカラマツも伐られるようになりました。
それでも、搬出費用が高いので、山主に木の代金がたくさん還元されはしません。
木材価格が低迷していた時期、本来なら山全部を伐って、植林をして更新されなければいけない時も、あくまで間伐と称してオロヌキをしていたと思うのです。
本来なら皆伐したら、そこに植林をしなければなりません。
植林した後、下草刈りなど手がかかる、そうなんですお金がかかるのです。
僅かばかりの木の代金では賄えません。
いろんな補助金をもらったとしても、持ち出しになるでしょう。
広葉樹林なら、切り株から芽が出てきて再生されますが、カラマツにはそれがありません。
じゃあ自然に任せればとは簡単に言えません。
禿げ山は災害を起こします。
山を覆っていた土が雨で流されて、岩山になったら、そこに草木は生えません。
そして資源としての木材が必要なのです。
戦後我が国は世界中から木材を輸入して凌いできました。
我が国は木の文化だったから。
札びらを切ってよその国の資源を買える時代は終わりました。
ここのところ、木材価格は高騰しました。ひさしぶりにです。
太陽光発電で、道路脇の山林が軒並みパネルでおおわれてもいたりします。
かっては、木を伐れば植林がセットだったのですが、植林されない山が増えたのです。
赤堀さんも、植林されているのは、全体の3~4割と書いています。
私たちの親の年代は、持山の整備に通いました。
私たちの年代はそれがありません。ここに住んでいない不在地主も多いのです。
愛着もないし、自分の山がどこにあるかも知らないでしょう。
そんな時、売れます、という言葉がかかってきます。
周囲の山一帯を伐りたいからね。
私、伐られた山を見れば、ついつい植林されているかチェックしてしまうのです。
植林されていないことが心配なのです。
赤堀さんは、「伐ったら植える」をされた小海町の方を取り上げていました。
植林後10年間の保育作業は森林組合が請け負うシステムで。
かっては森林組合が全部把握していたのですが、その仕組みが解体されてしまったのですね。
県の林務部が試験的に植栽をしていると赤堀さんが、最終回で書かれていました。
これがとっても興味深かったのです。
試験地で植栽密度を通常の2~4倍で植栽。
いままでは、植林コストを下げるために、少なく植えることが奨励されていたからです。
本数を増やして、カラマツの主要用途の一つの杭材を10年程度で効率よく収穫することを目指す。
前にも書きました。北海道は平らな所に植えて、大根のように収穫していたと。
長野県は戦後の植林は山のてっぺんまで植えました。
そのため伐採コストもばかにならなかったのです。
これからは、従来の発想を止めて、大根のように収穫して、今の需要にそうことが求められていると思います。
でもねえ、この試験地まだ植えられて2年とのこと、先が長いです。
でも、カラマツを植林しない時期が結構あったから、私としてはうれしいです。
退屈な記事でごめんなさい、でもどこかに書き残して置きたいと、ついつい長く書いてしまいます。
カラマツを語り始めると、3日間はしゃべっていられる私です。
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昨日、書きたいところまで辿りつけないままに、字数いっぱい・・・・・・長いのは読んでいただく方にご迷惑だから。
そんな訳で続きです。
30年ほど前、実家の父が東京の病院に入院した時、その話相手に義姉と義妹と私が毎日交代で付き添った時でした。
病室のテレビに「カラマツ」のドキュメント番組が流れました。
新緑の薄緑色が、夏の濃い緑になり、黄金色の秋から晩秋の濃い茶色に変わっていく美しい風景を見ていました。
戦前、戦中の荒廃した山に、長野はカラマツが植林されました。
それはまた、失業対策でもありました。
このカラマツ、寒冷地向きだったのですが、この当時は土木用材くらいの用途しかありませんでした。
ナレーションで「お荷物となったカラマツ」の言葉が流れて来た時、私は飛び上がる程びっくりしたのです。
お荷物なんて・・・・・・毎日カラマツと共に生きている私にとって考えられない言葉でした。。
新しい植林にカラマツが選ばれなくなったのです。
そうなると、どうなるか。
つまり若木が供給されなくなってきたのです。
戦後植林された木が間伐材の時期を迎えたのが、昭和50年代です。
それまで国内に十分な木材が無かった時代に、木材を使わない住宅が推奨されましたね。
高度成長時代、列島改造が進んで、国中で土木事業が盛んに行われた頃、ソ連からカラマツが入ってきていました。
海のない長野県でも、新潟や富山、もっと遠くの港から毎日トラツクで運ばれてきました。
そうこうしているうちに、国内の木を間伐しなければならない時期がきても、近くの山の木よりも、海を渡って陸路を走ってきた木の方が価格が安かったのです。
それが、昭和54年か55年の台風で、ガラリと変化したのです。
山の木が全面なぎ倒されたのです。
間伐の時期を通り、中目材の時期、そして伐期を迎えと、その都度、技術が進歩し、カラマツの用途も土木材だけでなく、建築材に広がって行きました。
その流れを赤堀さんはよく書かれています。
北海道の皆さんが、視察にこられたことがありました・・・・・かなり昔です。
長野県のカラマツの苗木を植えられて、製材して販売を考えられていた頃でしょうか。
その時、ツインバンドというワンマンの画期的な機械が出来て、生産能力は格段にあがったのです。
私は「製造することよりも販路拡大の方が問題」と語ったことを思い出します。
まさにカラマツ、ねじれという特性を持っていましたから、製品を長く在庫しておけなかいからです。
長野の悩みはいずれは北海道の悩みになります、とも。
でもひとつ大きな違いがありました。長野は高い山のてっぺんまで植林しましたが、北海道は畑に大根を作るように植林したと聞きました。
長野からたくさんの苗木が東北、北海道に運ばれ苗木で利益をあげたのでしょうが、それがライバルとなり長野の業者は大変でした。
そして先の「お荷物」の頃より、長野県での苗木の製造も極端に少なくなったと思います。
植林されなくなって、ここ何年も細い材木が無くなりました。
大変なんです、これが。
まだまだ本題にたどりつけません。
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昨年の10月7日から、週1回信濃毎日新聞に掲載されている、林材ジャーナリストの赤堀楠雄氏の「信州カラマツを宝に」を興味深く読ませていただいている。
信州カラマツは、私の仕事の8割方を占めていたと言っても過言ではない。
平成20年に製材工場部門を閉め、木材の流通と建築の仕事に特化するまでの40年間、このカラマツと共に生きてきた。
誰よりもカラマツを愛し、先人が苦労して植林したカラマツを1本でも多く市場に載せたいと。
紆余曲折がありました。
今回の赤堀さんの連載を読みながら、その過去を思い出しました。復習していました。
興味のある方は、私の「信州の木材」のカテゴリーをご覧ください。
製材工場部門を閉めるには、あまりにも先の見通しがない国の方針もありました。
それで後継者に、木材と建築の仕事のどちらをやりたいかを選択させ、5年計画で工場を閉める計画だったのですが、結局3年前倒しになりました。
そこまでに持っていくには並大抵でない、水面下の準備が必要でした。
一番は社員です。
公にした日、仕入れ先に社長に同行して挨拶に伺い、そこで社員を雇ってもらうようお願いをしたのです。
「お宅で勤めていた社員なら」と仕入れ先から2つ返事をいただきました。
そして、社員に発表して、仕事先の確保はしたので、それぞれ自分が行きたい会社を選んでもらうようにしました。
これが一番心配でしたが、製材工ってある意味貴重なのですね。
製材機の音がなくなって、その静けさになれるまで2年かかりました。
工場を閉めてから、カラマツを取り巻く環境が大きく変わり、その変わりように驚きます。
それでも、日本の山の将来を考えると、これでいいのかと不安も感じます。
いえいえこんなことを書くつもりではなかったのですよ。
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昨日の続きです。
しかし、3次ウットショックと言われる今、私一人が「物が本当に無くなるということはない」と過去の経験から思いたくても、今回の原因が今のこの渦中では判断できません。
その要因が過去とはあまりに違うから。
いやいや分析している時間はないのです、実際日々の仕事に支障がでてきているのですから。
今回のセミナー、今現実に起きていることの対処法を皆さんもお聞きしたかったのだと思います。
アメリカ、カナダ、北欧から材木が入ってこないのです。
それでは国産材に向かっているのです。
けれど急には対応できません。その仕組みが急にはできないから。
マスクが足りなかった時、国は補助金をだして国内で作るようにしましたね。
あれ、今どうなっていると思いますか。結局安いマスクが中国から入つてきて、国内では競争にならず生産していないと思うのです。
それと同じです。設備投資したとしても、今後どうなるか分かりません。
2日前のNHKの朝5時台のラジオで熊本の女性が話していました。
目前の山がはげ山が増えたと。
そうなんです、皆伐がもう始まったのです。
木材が足りないからと。
重機が入った山は荒れます。おそらく植林はされないでしょうね。だから災害の元になります。
国内の木だけで回そうとすると、はげ山がぐ~んと増えます。
もっとも、日本は世界の木を買いあさってきました。
我が国、今は山に木がありますが、これは最近のことです。
戦後植林したからです。
戦後需要に供給が追い付かなかったから、非木造住宅が作られたりもしました。
そして長いこと外国から持ってきた方が、国内の木を使うより安かったという時代が続きました。
だから間伐材など切り捨てにされてきていました。
それが変わったのは10年少し前に、ロシアが木材に高い関税を掛けるようになったからです。
その時点から急に国産材が注目されてきました。
いいことではあったのですが、流通に変化が起きました。
その頃からはげ山を目にするようになりました。
さらにバイオマス発電による木材の需要が起き、太陽光発電の山への設置による伐採。
どうなっていくのでしょうね、日本の山。
山にはいろんな役割が期待されていますが、資材としての役割が5番目だった国のパンフレツトを15年位前に見た時正直唖然としました。
国内の需要を国内の木だけで賄うことは難しいのです。
伐って使ってしまえ、では済まない問題がいっぱいありますから。
日本中で今木材が間に合わない、足りないと言っています。
こちらがダメならあちらにもと声を掛けると仮需が発生します。
今までの取引先を信じていきましょう、と思っているこの頃です。
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昨日、ZOOMでセミナーに参加。
「日本の林業、木材産業の歴史と激変する今後の展望」という、第3次ウットショックといわれている今、聞いてみたいとなったのでした。
講師はノースジャパン素材流通協同組合 理事長の鈴木信哉氏です。
主催は一般社団法人 JBN・全国工務店協会。
この頃木材の流通がおもわしくなっているニュースが時々流れるようになりました。
まだ寒い頃、アメリカで木材が高騰しているニュースも流れていました。
暫く前のことです。私の息子と同じ齢の木材の営業が今、第3次ウットショックなんです、と言います。
おーおー、1次も2次の経験もない若い人から3次がねえ、と感慨深かったのでした。
1次は昭和48年、あのトイレットペーパーが無いと騒いだときです。
2次は昭和55年でした。
1次は木材というより油が足りなくて物の値段があがったのでしたね。
いやいや上がった上がった。
ある日、東京の得意先が夕方わざわざ見えてくださって、「太陽が西から昇る」と教えてくださった。
だから材木の手配をするようにと。
そしてまもなく狂乱物価と品不足が始まりました。
そうなると売らないで値上がり待ちが増え、過剰在庫をするようになるのですね。
1つあればいいところを3つ持つ。
仮需が起きます。
1日に3度値上がりしました。
必要な人に必要な物が届かない。
みんな儲かったように見えたかもしれない。
しかし、結果としてはいいことはそうはなかったと思う。
物の値段が倍になると、資金も倍必要になります。
過剰に持った在庫は、年明けと共に大幅に値下がりし、最終仕入法をなぜか税務署は認めず、税金をバッチリ納め。
原価割れで商品をさばき。
値上がりの後は必ず代替え品が出現し、市場が縮小したのでした。
堺屋太一さんの「油断」を読んで・・・・納得しましたね。
物が無くなるということはない、と。
長くなりました。明日続きを。
読みいただきありがとうございました。
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昨日の続きです。
材木の木口を計るのは、なかなかむずかしいのです。
丸太は真ん丸ではありません。
その最小のところを測定します。
昭和55年、社長に提案しました。
この丸太の選別の2人と検収する1人と合わせて3人。
この人件費を考えれば機械化にしませんかと。
ちょうど自動選別機が開発されてきたのでした。
その2号機を導入しました。
そうですね、このころから製材機はワンマン化になっていきます。
そしてノーマンにもなっていくのですが。
私、社長が常々言っていた言葉を忘れません。
ひとつ、仕入れのチェック
ふたつ、商品には自分で値を付ける。
みっつ、工場の製材の製品の出口を大事にする。
まだいっぱいありましたが、これが商売の基本だなと思ったものです。
しっかりした仕入れはまさに基本です。
私は自分の検収で仕入れ先に間違いを報告したことが何回もありました。故意なのか間違いなのかわかりません。
これをしない同業者もいたようです。
当時、自分で単価を決めないで売り上げ先が仕切ってくるという慣習がありました。
悪しき慣習でしたが、それは生かさず殺さずです。そのせいかどうか多くの同業者が淘汰されていきました。
そしてみっめは、丸太を製材した羊羹の部分は売れますが、その「がわた」をどう売っていくかです。
利益はその「がわた」にあるからです。
そして本当の最後の最後まで産業廃棄物にしないで商品として売る、もしくはタダでもいいから処分できる道を探すということでした。
この最後とは、木の皮やのこぎりくずや木っ端などです。
これらがスムーズに工場から出て行かないと、構内がきちんと回っていかないのです。
何が言いたいかって、思われたでしょう。
そうなんです。この頃聞く、我が国の原子力のゴミです。
このゴミの最後の始末が全然解決していないことにです。
また新しい原子力発電をつくるような話もあります。
2050年にはという話が新政権の売りのようです。
この原子力のゴミ問題を目にする度に、最後の始末が大切なのだという、社長の言葉が思い出されます。
あ~、これが本当にいいたいのよね。
お読みいただきありがとうございました。
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信濃毎日新聞の11月8日の「スマート林業」挑戦活発化の記事をとても興味深く読んだ。
ドローンにAIで実用化のメドがついてきたということである。
私が入社した半世紀前、新入社員の仕事は丸太の検収だった。
11トントラックで1日に5台も6台も入るソ連唐松の細物。小口(細い方)が8センチ位から16センチ位までが1台に700本から積んでくるのであった。
それを土場に一面に並べ、その小口にチョークで数字を書き込み、その数を正の字で野帳に記録していくのである。
仕入れ先から明細は来ているが、それとどの位差が出るか、ということも重要なのである。
小口に数字を書き込むのは、その数字を見て、そのサイズごとに2人がかりで仕分けるから。
私が入社した頃は、日本の唐松がようやく育ち、間伐しなければならない時期にようやく差し掛かった頃である。
それまで国内に木材がないからソ連から。
それに、国内の唐松より海を渡ってくるソ連唐松のほうが安かったから。
6月に入社した私は、この作業で月に2キロずつ体重が減り、学生時代の脂を3ケ月でそぎおとしたのだった。
いやいや話がそれました。
この新聞記事のほかに「長野の林業」の小冊子にも載っていました。
今回一番関心したのは、
はい積された丸太の木口側の写真を撮影して、その中から基準となる丸太を1本選び直径を入力することで、すべての丸太の直径が自動で計測される方法がある。
ということでした。
この他にも方法が2つあげられています。
半世紀前が思い出されました(笑)
AIがとっても身近に感じられました。
話はまた戻ります。
私が入社して9年経った昭和54年に、ソ唐(ソ連の唐松)から国産の唐松を仕入れすることに変えました。
同業者からは、高い国産を買うのはバカだとの評も得ました。
しかしソ唐は冬場はいいのですが、遠くから運ばれてくるため夏場になると乾燥が進み見栄えが悪くなるのです。
あ~、いい忘れました。
これらは土木用材、建築材とは全然違いますので、念のため。
我が国の日本列島改造とでもいいましょうか、高度成長期やオリンピック、関東一円津々浦々の構造改善や海岸の埋め立て、下水道工事やあらゆるところに使われていました。
それが昭和55年の台風は長野の山の木をなぎ倒しました。
それは見事なまでに風の向きに円を書くように倒されたのです。
その時から、海のない県で外材を使っていた内陸製材が、アッという間に国産材に変わりました。
おりしも、戦後植林されていた唐松が間伐の時期を迎えてていたのでした。
それ以来私は長野の唐松と共に、唐松を愛してきました。
長くなりました。
続きにします。
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マツタケが絶滅危惧種だと、国際自然保護連合のレットリスト最新版で初指定されたという新聞記事が7月10日にありました。
いつも写している、信濃毎日新聞の斜面のノートに、その記事を思わず書いてしまいました。
先日の松本市の山を見て、夫とマツタケはもう食べられないかも、と話したとこでした。
ここ何十年も毎年お取引先から頂いてマツタケを食べさせていただいていましたが、ここ何年か不作続きのようでした。
10年ばかり前、お客様の前の山で松枯れを見た時の驚き。あれが佐久で私が見た松枯れの最初だったかも。
20数年前、高速道路を走っていて道路脇の山に光る物がたくさん見えました。
それがなんだか分かったのはしばらく後のこと。
松枯れした木を伐採して、薬剤で燻蒸してシートで覆ってあったのでした。
その数がはんぱではなくて。
佐久市はそれでも少なかったのです。確かお隣の南佐久では最近までないと聞いていましたが、現在でも大丈夫なのでしょうか。
運動会の折、小学校の校庭から平尾山を見たら、赤かった・・・その時のショックときたら。
いたるところで松枯れは見られていますね。
植林がいけなかったと聞いたこともありますが、どうやったら自然の山が更新して赤松が枯れない状態がくるでしょうか。
12日の「斜面」に長野県の県林業総合センターで人工栽培の研究が進んでいるとありました。
菌を感染させた赤松の苗木を育成し、マツタケが発生するシロと呼ばれる塊を生み出すことに成功と。
今は苗木を植栽して、マツタケが実際に生えるか確かめる段階。
安定的に発生させる技術を確立できれば世界で初となる夢の技術。
素晴らしいですね。
過去、マツタケの人工栽培ができると言われて投資して会社をつぶした方を知っていますが、今まで多くの人が夢見たと思います。
ただし、成果が分かるのは約20年後だとか・・・・・ハイ、わが身の齢に20足してみました・・・頑張らねば(笑)
マツタケが絶滅してしまったら、あの風味を味わえない未来の人々に申し訳ないわ・・・・人工の匂いはあるけれどもね。
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「諏訪地方の停電引き起こした倒木」「カラマツ『根返り』原因か」の見出しで、さらに「『直根』なく風に弱い」の副見出しが付いていた。
9、10月の台風で茅野市などに数日間の広域停電を起こした倒木は、戦後造成されたカラマツの人工林だったことが、専門家への取材で分かった。という報道であった。
そこまでだったら、なるほどと納得したのかもしれないが、その後に続いた「植林されたカラマツは苗木段階で、地中に太く伸びる『直根』が生産効率を上げる目的で切られているものが多い」とあった。
「成長すればするほど重心が高くなり、強風によって根ごと倒れる『根返り』が相次いだとみている」
まさしくう~んだわね。
私の仕事は材木屋だったから、卒業して会社に入って以来、10年前まで「カラマツ・唐松」一辺倒という時代を過ごした。
唐松に対する愛着はひとしおである。
その私ずっと信じていた。唐松は向陽性と言って、根が浅いので根元に太陽が当たらないと、強風で倒れやすい。だから適切な間伐が必要なのだと。
昭和55年の台風で東信地区の唐松は、まさにベタに倒れた。それも台風の風の向きそのものに倒れたから、早く言えばあっち向きこっち向きで、その山の木を片付けるのに、何年も要したのである。
昭和55年と言えば、戦後の荒廃した山に植林したもので、間伐期を迎えている頃で、まだ使える木が少なかったから、カラマツはソ連から輸入していたのである。
正確に言えば唐松以外にもたくさんの木材が我が国にやってきていたのであるが。
ソ連カラマツを略して「ソ唐」と言っていた。ぼちぼち間伐が必要な時期に来ていたが、国内の間伐した木よりも、海を渡ってさらに陸路を走って来る「ソ唐」の方が安いと言う事情があり、ますます国内の間伐は進んでいなかったと思う。
その台風の前年、当社はその安い「ソ唐」を止めて、国内の唐松に切り替えていたのであった。
なぜかと言われれば、海を渡ってくる唐松は時間がかかっているので、皮が剝けないのである。
その頃から土木用材に「皮剥き」が求められるようになってきた。丸太は乾いてくると皮が剥げ落ちて、現場はその掃除を嫌がるようになっていったのだろう、だから出荷する前にと。それと長い時間を経てくるソ唐は見栄えが非常に悪いのであった。
ソ唐は冬場は我慢したとしても、夏場で苦労してしまうのだった。
国産材への転向は同業者からバカかと言われたが、先を見た選択であったと思う。
千葉県の構造改善事業で使う土木用材に、メーカーの制作したまだ何号機というレベルの皮剝き機を導入して、「皮剥き」した製品を出荷すると、後は右に倣えのようになった。
海の無い長野県で内陸製材でソ唐を使っていたこの地も、昭和55年の台風以後、ソ唐から国内の唐松に一斉に変わっていったのであった。
そうしなければ倒木の処理が進まなかったからである。
先人が植林した木を1本でも多く市場に出したい・・・・それがその当時の私の気持ちだった。
いやいや私の愛してやまなかった唐松が倒れやすいのは、「直根」をカットしていたからかもしれないなんて。
これが本当だとしたら・・・・・ものすごい複雑な気持ちになった。
かって長野県は唐松の苗木の産地だった。東北・北海道に苗木を売ってその当時いい商売をしたのだと思う。
そして間伐・伐期を迎えて、長野県はそのライバルとなった東北・北海道の唐松で苦しむこととなったが。
いつしかその唐松がお荷物となり、唐松の植林がごくわずかになって、苗木を作る人も少なくなった。
現在苗木を生産している農家では、苗を選別する時点で、「根切り機」を使っていて、その際直根を切っているという。
これを手作業に変えて直根を残すことは、経営的に難しいと言う。
災害に強い森づくり・・・・・とんだところに伏兵がいたものだと思った。
森林税・・・・こんなところに使ってほしいな。
啓蒙活動のパンフレットなんか作るよりいいと思うけれどな。
カラマツというとソ唐を連想するので、私は国産材は唐松と分けてしまう。
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家
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