昨日朝、西に真っ白に雪化粧したアルプスの稜線が見えました。年に幾度も見ることのないステキな風景です。
今日は19夜様。
しかし長いこと働いている人がいるので、お彼岸前の日曜日に開催していました。
昨年と今年はお当番です。しかし今年は孫のおっかけに行きたいがために、欠席することにしました。
昔から当番も本当番があって昨年それを済ませていたのでいいかなあーと。
すみません、おまかせします、ということで。
それが急遽1日早い土曜日になったということで、参加できることになりましたが、今回は19夜塔にお線香をあげて、その後お店で食事会になっていました。
おまかせします、と言った以上何も言えませんでした。
考えてみれば、もう続けていられるのも時間の問題かもしれません。
どんななりにでも続けていくしかありません。
地区の19夜様の歴史を少しでも残しておかねば、と参加した88歳の長老にお聞きしました。
私が嫁に行った少し前に公民館が新しくなりましたが、その頃に大きく変わったような気がします。
それまでは個人の家で回していたからです。当番は3人で前年やった人と本当番と次年度本当番になる人をほっぺた回しにしていたようです。
昼間「おまる」を作って、学校から帰った子供たちが楽しみに寄ったようです。
そして夜本当番の家でお念仏をあげお茶をしたようです。
私が学校にあがる前、実家の母について19夜様に付いていったことを思い出しました。
19夜様には余興がつきもので、母が「うちの女房には髭がある」役をやっていた姿がいまも思い出されます。
女手がなかった母が練習にはいけないので、当日は何でもやりますからと言ってあてがわれた役だったと、その時の母の言葉も耳朶に残っています。
外に出かける機会も少なかった昔の嫁たちにとって、19夜様は大手を振って出かけられる楽しみの場だったと思うのです。
私の19夜様は嫁にいってからでした。当初はお当番の時だけの参加です。当番でない時母が出ていました。
最初の当番が終わった時、この次のお当番は30年後位かなと計算していました。
それが年を追うごとに早くなり、もう6回位お当番しているような気がします。
休会しますという体のいい退会者が出てきましたし、最初から入らない方もいたからです。
そして今は6年の内2年が当番となりました。
中身もどんどん簡略化してきました。
そして前回の当番の折は、参加者が当番の他に2~3人になってしまい。それからは当番だけでやって回すことになりました。
前のお当番は「おまる」を作ることもやめ、買ったもので済ませました。
それでも「おまる」作りは若い人たちには覚えておいた方がいいと、昨年は実施したのでした。
家でお団子を作らねばならない時がいつかきます。その時のために習っておく方がいいし・・・・。
実際作ったことのない人もいるのです。
19夜様にお祝いをいただいた方には大きなおまるをお返しにしていましたが、今回はありませんでした。
10日程前、19夜塔の廻りをきれいにしました。
昔から19夜塔にお線香をあげるのは若手の役目でした。
若いうちは何が何だかわからないのが現実で、実際どこへお線香をあげていたのか不明です。
19夜塔の横にはお地蔵様が建っているのです。たぶんそこにあげていたのかもしれません。
どなたかが植えられたつつじや紅葉が年々大きくなって十九夜塔の前にはお線香が立てられる状態ではありません。
1昨年道祖神のお当番をした時から、そこに隣接する19夜塔とお地蔵さん廻りの草取りや植木の剪定をしてきていました。
今年は欠席するつもりだったので、皆さんがお線香を立てやすいように枯草や植木の剪定を始めました。
作業していたら、軽トラが横に停まりました。見上げたら夫でした。
出たゴミを片付けに来てくれたのでした。
この先、どんなふうに19夜様のやり方が変わって行こうとも、私にできる19夜様はこれかなと思ったのでした。
19夜様塔の後ろに「弘化4年」とありました。西暦で1847年江戸も末期の時代です。
それ以前から続けられていたのでしょう。
これを私たちの代で絶やしていってしまうことは出来ないと思うのです。
そして簡略化を始めると際限なく簡略されていくものだというのもわかりました。
しかし・・・・現実は人的に厳しくなっていくのです。
お読みいただきありがとうございました。
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅・涼温な家 中島木材の家
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