goo blog サービス終了のお知らせ 

私のなべ四器(規矩準縄)

今、自分の周りで起きていること。ご近所のトマソンもそんなに、気にしてない。深めにかぶった帽子で、年内不定休営業中。

友達

2007-09-09 10:19:52 | 旧久能街道
高校生の時、中学時の友達から、突然電話が掛かってきた。友人の訃報だった。思い出話をした後、「亡くなった友人宅を知っているか?」と聞かれ、「知ってるよ」と、即答した。「じゃあ、○○さんに教えてあげて欲しい」言われ、○○さんに電話をかけるのだった。しかし、後で解った事なんだが、それは、私の勘違いで、全然違う家だった。私から電話を受けた友達は、お悔やみに出かけたらしいが、当然ご不幸などなく、困惑したらしい。苗字が同じ読みの、違う人物を、思い浮かべていたのだ。そう言われて、最初の思い出話を考えると、噛み合っていなかった様な気もする。
間違えたお宅が、この橋の袂のS魚屋だった。彼は、元気で居るだろうか。怖くて、顔をみれ~ない。
写真は、旧久能街道で、久能山を目指している。この橋は、浜田川に掛かる、「小橋」です。

大橋川

2007-09-05 08:16:51 | 旧久能街道
加茂神社のすぐ近くを、大橋川が流れている。(写真 大橋川橋より河口を見る)この川は、新川(日本平の方から)と大橋川(日立工場の方から)が加茂神社付近で合流している。日本平スタジアム(サッカー場)を挟む様に流れている番沢川と滝川が交流し杣川(そまがわ?)となり、杣川と小沢川が合流しした後、清水病院前で山から流れて来る冷川と合流し、新川となっている。

「冷川の水を飲んで死にたい」とよく言われたほど、この冷川の水は、甘くておいしんですよ」ですから、この水を、わたしたちが飲むだけでなく、明治の終わりごろ、竹どいでニキロ近くも引いて、船に売っていたんです。水を船に売るのは、昭和の始めまで続きましたかねえ。家の前の久能街道の東側は、”どんぶら”で西側は、桜並木の後に、田んぼが広がっていました。
中略
また、ここらの山は、今でこそみかん畑がたくさんありますが、私らが若いころは、松がいっぱい植わっていたんですよ。
「まちの思い出」より「冷川と久能街道」服部すゑ(77歳)昭和52年寄稿

日本平が、みかんの産地になり、山に消毒をするので、冷川の水を飲む事は出来ない。でも、冷たい水であることには、変わりない。「冷川」は「びや」とルビがあったので、地元の人は、「びやがわ」と言っていたらしい。しかも”どんぶら”と書いているので、多分沼地みたいな湿地帯だったらしい。だから、写真の当たりは、全て、湿地帯だったのだ。そしてその先には、遠浅の折り戸海岸があったことになる。
子供のころ、この川には丸太がたくさん浮いていた。野田合板の資材置き場に運ぶためだったと思うが、川面が丸太で埋め尽くされていたので、川だった印象がまるでない。しかも、遊んだ覚えもない。多分、立入禁止だったのかも知れない。今にして思えば、貯木場で遊んでいた子供が、丸太の下敷きになったりして、亡くなった話を何度も聞かされ、近づけなくなったのかもしれない。昔の子供にとって、立入禁止場所は、何処にも無かった。何処でも遊んで、大人に怒られた。でも、また遊んだ。そんな遊びが、一番面白かった。そう、命を張った遊びだったのかも知れない。

加茂神社

2007-09-04 19:16:06 | 旧久能街道
写真の右から、左に旧久能街道は続き、加茂神社の前を通り久能山を目指している。縦の道路を境に、右が「宮加三」、左が「駒越」で、ここから、駒越学区になる。中央の道を奥に行くと、静岡市立清水病院に突き当たる。小学4年生から21歳くらいまで、その病院(当時は、富士見病院)近くに、住んでいた。
小学生の頃、住んでいた近所に床屋が無くて、この写真の近所の床屋に、行っていた事を思い出す。しかし、その床屋も今は無く、別の建物が建っていた。(つづく)

久能山(1)

2007-09-01 10:10:57 | 旧久能街道
旧久能街道を、清水側から来ると、写真右奥から、左奥に久能山の山門を行く。(鳥居があるので、先刻承知)この道を、久能山に曲がらずに左に通り過ぎると、駿府城に続く静岡側の旧久能街道なのだ。
車で行ったので、駐車場を探していたが、ちょうどいい所にコンビニがあったので、駐車し無料と言う訳にも行かず、店内で飲み物を買った。改めて駐車場を見ると、「ここに駐車して、久能山の参拝は、ご遠慮ください」と看板が吊るしてあった。「(今時、ここに止めて、参拝する人が居るのか?)」と思いながら、自分は、参拝者じゃない事を再確認した。鳥居までの土産物店は、見事に閉まっていて、「(平日の夕方は、こんな物か)」と思ったが、観光地としては、すでに寂れていて、人通りもない。(夜の駅前銀座のようだ)しかし、イチゴ狩りのシーズンには、もう少し息を吹き返すのだろう。今は、それまでの「夏眠」でしょうか。「(カメラ片手に、現場服でうろついている人は、地元の人には、どんな風に見えるのだろうか)」と思いながら、区画整理が進み、旧久能街道が消されていく事を、淋しく思う。

久能山

2007-08-31 19:31:02 | 旧久能街道
自分の能力の低下を感じ、ますます、集中力が無くなって来た。「(これは、猛暑のせいだ)」と思いながら、インターネットで「猛暑のせい」を検索すると、出て来る出てくる。猛暑のせいで、仕事が進まない人達が。しかも、様々なブログに書き込まれていて、新参者が、いまさら書き込む隙間がない。そうなると、彼らと「同じ狢」になるのも癪なので、ここは、何とか乗り切って、明日へ繋げたい。
話がなかなか進まないと、「結局、結論は何?」などと口を挟み、プロセスを省きたくなる程のせっかちだ。推理小説でも、後ろから読んで犯人を調べてから、読み進んだりしていた。旧久能街道の旅も、時間がとれずに、イライラしながら、朝顔と話をしていたが、終点を、見に行く事にした。生憎の曇天で、山頂付近は霧が出てよく見えなかったけれど、それだけに気高さを感じた。何度か、観光で山頂に向かったことがあるけれど、日本平からロープウェイで行ったので、この石段を、登った記憶があまりない。あそこに寺を作って、民が参拝していたかと思うと、時代の流れを思う。多分、現代のように楽して登っても、御利益も、薄いんでしょうね。