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私のなべ四器(規矩準縄)

今、自分の周りで起きていること。ご近所のトマソンもそんなに、気にしてない。深めにかぶった帽子で、年内不定休営業中。

子供の頃

2007-08-28 07:52:08 | 旧久能街道
子供の頃(昭和30年代終り)、ロバのパン屋が、売り歩きに来ていた事がある。その時、ロバが曳いていたパンのショーケースに掛かっていた布の模様が、ちょうど写真に写っている、白とオレンジのストライプにそっくりだった。この日除けを見たときに、ロバのパン屋の事を思い出した。ロバのパン屋は、静岡市清水区の一部で行われていたパン行商で、「季刊清水39」に詳しく載っていた。ロバのパンの定価が10円だった事は、この本で初めて知った訳で、子供の頃、近所の八幡神社で遊んでいたら、ロバのパン屋が来たので、嬉しくて急いで駆け寄って、手持ちのお金5円をおじちゃんに差し出すと、「いつも買ってくれる子じゃないから、5円のパンはないよ」と言われた事をよく覚えている。悲しい事に、ロバのパン屋の記憶は、これだけだった。そのうちに、近所の八百屋(何でも屋)が、パンを売り始めたので、ロバのパン屋も来なくなってしまった。
この道は、旧久能街道で、写真奥が久能山を目指している。実は、このストライプのお宅は、魚屋なのだ(静岡市清水区宮加三)。昔、店先のたらい(アルマイト製)に、海つぼが沢山入れられていたことを思い出す。当時、この魚屋の裏の長屋に住んでいた。今回、旧久能街道を行く旅の、目的の場所のひとつなのだ。恐る恐る小路を入っていくと、長屋に続く道がなくなっていて、住宅が建っていた。「(それでも、当時を思い出す物は、ないかなあ)」とキョロキョロしながら歩いていると、不審者のように思われてしまったので、早々に退散して来てしまった。(余計に怪しい)
街道は残っていても、生活道路(私道)は変わってしまった。それで、良かったような、ちょっぴり寂しいような気がして、昔話が出来る友達に、会いたくなった。

東向寺

2007-08-17 08:21:24 | 旧久能街道
大正14年、東向寺の住職が、保育園を始めた。私も、そこの保育園出身なのだが、そこの寺の住職の子供と同級生で、小学校低学年の時は、一緒に登校していた事を思い出す。線の細い子で、物静かな子供だった。旧久能街道の旅のついでに、ちょっと覗いてみる事にした。
すると、何かが足りない。「??。山門がない?。」更に入っていくと、子供の遊び場だった所は駐車場になっていて、保育所は、集会場になっていた。「あらら…」と思いながら更に、進むと変わっていないのは、墓地と記念碑だった。「(何もなくなっちゃったなぁ)」と、当時の記憶と照らし合わせながら、境内を散策した。
ここに砂場があって、ここに滑り台があって、そう言えば当時、滑り台は、子供達の人気でいつも順番待ちだった。次が自分の番の時に、前に座った女の子がなかなか滑らない。早く滑って欲しくて、その子の背中を押すと、前転をしながら下まで行ってしまった。真似をしようと思ってやってみたけど、一回転だけでとても下までは出来なかった。その話を、中学の同窓会の時に話したら、隣に居た女の子が「それは、私!」と怖い顔をする。「頭を三針縫ったんだから」と言われ、びっくりした事を思い出す。それ以来カミングアウトには、細心の注意をしている。
同級生の住職は、留守だったので、昔話をする事もなくなっってしまった。

日曜日

2007-08-15 14:51:41 | 旧久能街道
旧久能街道を、宮加三(みやかみ)まで来た。私が10歳位まで住んでいた町だ。明治6年に、宮一色村、加茂村、三沢村が合併し、頭の三文字を繋げて出来た町だ。
町内対抗の運動会が近くなると、町内放送で子供達が集められ、この道路で選手の選別をしていた。特に足が速いわけでもなく、どうしても選手になりたい訳でもないので、いつも殿(しんがり)を務めていた。その後、選手が誰になって、運動会がどうだったかなんて、まったく覚えていない。右端に写っている駄菓子屋「杉山商店」は、子供の頃入り浸っていた店です。夏のこの時期は、毎日のようにアイスを買っていた。四角で、銀色の紙に包まれていて、その紙を剥くとミルクアイスに棒が刺さっているのだ。棒に「当たり」が出たらもう一本なのだが、当った記憶がない。親が一緒の時は、カキ氷を良く食べた。心太もあった。寒くなれば、おでんもあった。あの店は、子供の「オアシス」のような所で、友達もよく集まっていた。あの時の、オバサンは、元気にしているだろうか。シャッターが閉まっていて、様子が分らずに、ちょっと残念だ。
写真左側の、ネットフェンスで囲まれた所が、変電所です。

旧久能街道4-2

2007-08-14 08:22:12 | 旧久能街道
「龍華寺道」の道標。海側(右)に「明治四十二年三月日」、山側(左)に「前田日皖之立」とある。(龍華寺は写真左の方に行く)
この道標は、『「清水みなと道」の道標と並んでいたと言う』と、資料にあるが、何処にあったかは、よく分らなかった。少なくとも、ここにあったんじゃない事だけは分る。大正初期の地図を見ると、観音小路が太い道になっているので「旧久能街道」と、「観音小路」との交点か、「清水みなと道」の交点辺りに立っていたであろう事は、想像できる。
「(昔の物を、勝手に動かしちゃダメじゃん)」と思ったものの、「道の呼び名が変わっちゃうんだから、道標も動かざるを得ないんだね」と、思い直す。
現代でも国道にバイパスなどが出来たりして、バイパスが国道になり、国道だった道が、県道になったりして混乱する事がある。(昔、清水駅前の道は、国道一号線だった事を思う)

旧久能街道4-1

2007-08-14 04:57:17 | 旧久能街道
現在の、「龍華寺道」と言うべきか。(「龍華寺道」と呼ばれた道の資料を見つけられなかった。)日立工場正門前の道です。(昭和2年12月に都市計画が決定された道路)
写真正面が龍華寺で、写真奥の山が「日本平」と言う「丘?」です。写真手前の細い道(横断歩道の向こう側)が、「旧久能街道」で、右から左に久能山を目指す。
「観音小路」と言われた道が、旧久能街道から「鉄舟寺」に向けて作られていた。現在、観音小路は、旧久能街道から分かれて、100mほど残っているが、そこから先は、不ニ見小学校や、宅地造成などで、跡形もなく消えている。
高度成長期の頃のこの道は(40年位前)、日立工場も好景気で、朝の出勤時間には、満員のバスから、次々に人が降りて来て、歩道が人の波でいっぱいになり、そのまま正門に吸い込まれていった事を、思い出す。この道路の右側には、日立工場の野球グランドがあって、運動会や、ソフトボール大会などが、盛んに行われていた。近年売却され、宅地分譲されてしまい、グランドを思い出すものはない。新しく出来たものは、次々に、姿、形を変えてしまう。未だ、最終形になっていないから、仕方がないけれど、「(この世の中に「最終形」が、有るのだろうか)」と考え出すと、すぐ眠くなる。
「龍華寺道」の道標は、ここから150mほど龍華寺寄りに行った右側にあります。