malのあっちこっちブログ

山・旅・料理。。。

気ままに、気張らず、、出来ることを、、、

奈良・山の辺の道(天理から)後半

2010-04-20 07:46:04 | 
山の辺の道を歩いていて畑から集落に入ると、こんな塀があった。



棟瓦を塀に埋め込んだものだと思うが、手が込んでいる。ここに写っている亀だけでなく、もっと沢山の

種類の物が埋め込まれていた。


奈良の民家は歴史を感じさせるものがある。



やがて、西山塚古墳に出た・・・と言っても、古墳の中に民家が建っている。



この辺りの人の営みは、それくらい歴史があるのだろう・・・

また、この辺りは古墳が多い地域としても知られている。



この前方後円墳は衾田陵と言われ、全長234m、継体天皇皇后陵と伝えられている。

皇室または、それに準ずる物と認定されれば宮内庁に比定され管理されるが、先ほどの西山塚古墳のように、

認定されなければ、既得権者の善意に委ねられる。



のどかな道を歩く、素晴らしい柿畑があった。



うす曇りで遠望は利かないが、



大和三山の耳成山と畝傍山は見ることが出来た。




やがて、長岳寺に着く


山門

真言宗のお寺さんで824年、弘法大師の開基と伝えられているが、戦国の世と明治の廃仏毀釈で荒廃し、

42棟もの建物も現存する建物では平安時代の鐘楼門と、鎌倉時代の本堂だけになっている。


鐘楼門



ここでも桜が満開だった。





本堂に入ると本尊仏の脇に多聞天がいらっしゃった。





一回りしていると、鐘楼があった。

誰でも漬くことができると書いてある。



ある思いを願って撞いた。「無病息災、満願成就、etc etc etc」



Pも・・・



日頃の暴食の反省を込めて・・・




清清しい気持ちで、本堂を眺める。



良い気分で参道を下ってゆくと、、、



ど真ん中でコイツが・・・「オレの道やんか・・・」って顔して寝そべっていた。。。




長岳寺を後にして先に進むと、



路傍にニッコニコのお地蔵さんが立っていた。



ほどなく崇神天皇陵が見えてきた。





ここからは国道を渡って5~6分で駅に着く。

3年前にここから始まった山の辺の道が繋がった・・・と思いながら歩いてゆくと、



黒塚古墳に隣接する公園にこの看板が在った。



町内会主催のジモティだけの桜祭りだ。

人数の7割は子供だったが、たこ焼きとビールで乾杯をした。



この黒塚古墳はさして大きな古墳ではないが、発掘されて出土した副葬品は中々素晴らしく、

中でも三角縁神獣鏡は確か33点も出土したように記憶している。

公園内に資料館があり、石室のレプリカと出土状況が丁寧に展示されている。




駅手前に面白い建物を見つけた。



「柳〇〇ンション」だ。。。

いつの時代の建物かは分らないが、〇ンションと呼べた時代もあったと言う事だ。

2文字欠落していて、幸いと言うべきか・・・



そして



柳本駅に到着。

山の辺の道の南半分は繋がった。



秋には柿が、春には桜が、、山の辺の道は楽しい。。。

奈良・山の辺の道(天理から)前半

2010-04-19 10:43:20 | 
山の辺の道は古代の奈良の主要な街道でもあった。

この道には、いたるところに古墳があり、また万葉集、特に柿本人麻呂が詠んだ歌が多いことから、

万葉の道などとも言われている。

この道は三年ほど前、柳本から大神神社までは歩いていたので、今回は天理から柳本までを歩く事にした。



近鉄電車に乗って天理に着く



新しくは無いが整然とした駅で、駅特有の騒然さが無い。




駅に置いてある、山の辺の道の案内図を持って出発する。

山の辺の道は、ここ天理を挟んで山の辺の道南と北に分かれるのだが、その南の前半分を繋げるべく

案内図に沿ってアーケード街を歩いてゆく。

駅前では教団の若者が掃き掃除をしていた。

道行く商店街の3軒に一軒は教団に関係する商いで成り立っているような感じがする。

やがて、教団本部前に出た。







沢山の神社仏閣を見てきたアタシだが、ここはそういう意味では異質な感じがした。

なんて言ったら言いのだろうか・・・怖さ、そう、、怖さみたいなものを感じた。



しばらく歩くと、山の辺交番があった。



山の辺の道への取り付きにあるからだろうが、ネーミングがいい。



駅から20分ほどで石上神宮(いそのかみ)に着いた。



神を祀る神宮はどこも同じような雰囲気を持っている、、、と思って歩いていたら、、、

「コッコッコッコ コッケッコッケ」

「コッケッコ コッケッコ コケコッコオ~」

とけたたましい泣き声が聞こえてくる。





この連中だ。

放し飼いにされていて、自由にエサをついばんでいたが、うるさいこと・・・この上ない。

どうやらこの石上神宮は動物の神様でもあるらしい。



道しるべに従って神宮内を抜け歩いてゆくと、やがて永久寺に着く。

永久年間(1113~7)に鳥羽天皇の受戒の師と言われる亮恵上人によって開かれたと言われている。



調査ではこのような大伽藍を持っていたらしいが、その後寺勢が衰え明治の廃物毀釈によって廃棄された。

歴史って残酷なものだが、明治の廃仏毀釈は世紀の悪法だったと思っている。

いまでは、池を残しているだけだ。





その池に咲く桜は、とても美しかった。



この永久寺辺りから市街地を離れて山の辺(ふち)の道になる。



お地蔵さんや



畑や



桜などを愛でながら歩いてゆくと、特産の柿畑が頻繁に現れるようになる。



私は奈良の柿が大好きだ。。。同じ富有柿でも奈良でなければならない。。。

ここの柿の木は貫禄が違う。近寄りがたい気品が漂う。。。

遠くに「柿の木古墳」が見えた。



断っておくが、そんな古墳は見たことも聞いたことも無い。勝手にそう名づけたのだ。。。




やがて、夜都伎神社に着く。



特に沢山の由緒を持つ神社ではなかったが、名前にはひきつけられる魅力がある。



奈良で神社と言うと春日大社が一番に思い出される。

故に、その造作も春日流造りという建築様式が多い。大社ゆえに摂社、末社も多い。

灯篭なども春日灯篭として名高い。

ここ夜都伎神社も春日大社の一神を祀るが、その拝殿は萱葺きで珍しい。




暖かな春の日、山の辺の道を行く




つづく・・・

奈良・平城宮跡

2010-04-18 08:41:45 | 
唐招提寺を出て、平城宮跡に向かって歩いた。



唐招提寺の辺りは、平城京では確か4条辺りだろうか・・・

大した距離ではないが、朱雀門からは確か線路が邪魔をしてまっすぐには宮跡に向かって行けないはずだ・・・

3条辺りで寄りたい店があったので、そこによって歩いているとこんな店を見付けた。




回転寿司「まぐろ家」一皿88円・・・・・

なんだかなぁ~って思いつつ入ってみた。



流れている皿は無視して、まとめて5~6皿注文すると・・・

しばらく経って、、、

注文したインターフォン越しに「〇〇〇〇・・・した」って聞き取れない声が流れてきた。

「なんて言ってた?」なんて話していると・・・



突然、番号札を旗艦とする連合艦隊がやってきた。



「あっコレ、おらっちのテーブル番号だべ・・取れ!とれ!・・・」

取り忘れても一周廻ってくるだけだろうけど、これにはあせった。。。

所変われば品変わる・・・まったく、なれない場所で注文すると旅に変化があっていい。



やがて、指定地の平城京跡地に入る。



柳が風に吹かれていた。。



こっち側から朱雀門を見たのは初めてだ。




西側から線路を渡って大極殿に向かう。

開館は4月からなので見学はできないが、本体は完成して現在は外構周りを工事している。



2006年の11月にここに来た時、大極殿はまだ工事中だった。

とてつもなく大きな仮囲いに覆われていた。

たまたま工事中の現場を見学する機会に恵まれ、中に入って上まで見る事ができた。









製材方法は当時の工法を使っているという。仕上は鑓鉋を使っていた。

使われている二抱えもある檜の大柱も全て国産とのこと。

国内にもまだこんなに大きな檜があったのかと感動した。



復元された第一次大極殿は、断然東側からの顔がいい。










写真を撮った場所の前でバグパイプを吹いている家族がいた。

旦那はスコットランド(?)人だと確信しているが、堂々たる体躯でバグパイプも上手だった。

不思議にこの場所にその音は馴染んだ。




この場所からは、若草山や東大寺が見える。






宿への帰り道、餅飯殿(もちいど)通りを歩いていると、暗がりの向こうで灯りが点いていた。

なにやら稽古をしている。

邪魔をしないように遠目から眺めていた。



通りに戻ると、そこに立て札があった。

春日大社大宿所という場所らしい。

春日若宮おん祭の願主役を大和の国の大和士(やまとざむらい)が集まって精進潔斉を行なう奉篭所なるものだったらしい。

豊臣秀長の命によって作られた場所らしいから、4百数十年経ってまだ続けられている文化である。

奈良にとっては、まだ最近の話なのかもしれない。




奈良・唐招提寺

2010-04-17 11:00:06 | 
唐招提寺と薬師寺は歩いて10分足らずの距離にある。

「よしむら」を出て、程なく南大門の前に着いた、2年ぶりだ。



10年もの間、仮囲いに覆われていた金堂が見える。

南大門に架かる孝謙天皇の勅額といわれる扁額もそのままだ。




中に入る。

復元が終わった金堂がそこにあった。



天平の甍、である。

寄せ棟造りのどっしりとした屋根と列柱、アタシはこの奈良様式が大好きだ。

創建当初はこの屋根の棟の高さは今よりも3mほど低かった。

薬師寺の東塔と西塔を思い出して欲しい。西塔は創建当初の屋根勾配にして再建されたため

東塔よりも勾配がゆるくシャープな印象を受ける。

ただ、ここ唐招提寺の場合、その勾配は構造的にかなり無理があり軒先が垂れ下がると言う

構造的欠陥があったらしい。

元禄時代の改修では、その垂れを支える為に方杖を大梁の下に入れて突っ張りをしていたが、

この方杖が美しくないと思う建築史家の関野貞は明治31年の改修でコレを撤去し、屋根裏構造に

当時の輸入された最先端技術であるキングポストトラスと言う三角形を組み合わせた小さな部材の

工法でこれを改修した。

今回の解体修理に当たり、棟の高さをどうするか・・・と言う検討も行なわれたが、創建時の勾配では

大規模な補強が不可欠と言う事情もあり、現在の勾配のまま修理される事になった。



正面に並ぶ列柱は中央から両端に向かって少しづつ狭くなってゆく。この効果によって立面が

引き締まって見えるが、これは、安置される仏像の規模を想定しつつ平面規模を計画していった結果として、

生まれた効果らしい。






軒構造も丸垂木の上に飛檐垂木と言う角材を使った二軒で、それを支える組物は三手先と言う構えだ。




今回、鴟尾は新しく作り変えられたが、二年前に修理中に降ろされていた鴟尾を見て触った。

一体は創建時のもの、一体は元禄の時のものだったが1200年を経ても尚、堂々としていた。




日本に残る木造建築は、保存する為にその時代の知恵を使って維持管理をして行く訳だが、ここ唐招提寺にも、

時代の痕跡があちこちにあって面白い。



写真では分りづらいが、この鬼瓦も葵の紋がついている。元禄時の改修で使われた瓦だ。



金堂から戒壇院へ行く。



そもそも鑑真和上は日本の僧と言われていた人々に仏教の戒を授ける為に招かれた。

聖武天皇も和上から授けられた。

役目が終わり、東大寺戒壇院から唐招提寺に移ってここにも戒壇院を設けている。

いまでもここでは律宗の戒壇が授けられている。



ここの桜は美しい。



やがて本坊に至り右に曲がると右側に苔むす場所がある。

開山堂跡だ。



お寺はどこも草花が美しい。



今年の旅行は全ての場所で桜の開花時期にめぐり合えた。こんな年もあるのだろう・・・





本坊の朽ちた土塀に沿って進むと、やがて御影堂の前に出る。



入母屋造、銅板葺きの玄関が見えるが、ここは6月6日の開山忌の時期にしか入る事ができない。


そのまま、まっすぐ歩いてゆくと、やがて左側に鬱蒼とした杉木立と苔に覆われた場所に出る。

鑑真和上御廟だ。

ここの苔はすばらしい。秋篠寺の苔も素晴らしいがここは佇まいも含めて最高である。







先般、中国の要人が大阪滞在中に、車を飛ばして参詣していったという。



金堂に戻る途中に正倉院よりも古い校倉造の建物が2棟ある。



宝蔵と



経蔵と桜だ。

右手には



礼堂があり、続いて



東室

この東室と講堂、金堂に挟まれるように国宝の鼓楼がある。



唐招提寺唯一の重層建築である。

この建物は鎌倉時代のものだが、入母屋造はいかにも武家好みの建築様式で重厚だ。

入母屋造ある社寺仏閣は鎌倉以降と考えて差し支えないだろう。

それ以前は金堂のように寄せ棟か方形が多いのだが、私は断然こっちが好きだ。



名残惜しいが唐招提寺を後にする。



振り返ってみる金堂、ホントにカッコいい。。。

今回の解体修理で、その修理痕を探してみたが、トメの合わせ目にわずかなズレしか分らなかった。

時代と共に風化した朱や緑青は、すべて古色となり、日本人が好きな侘び寂びの世界を構成しているが、

こうした建物がその昔、絢爛豪華な黄金の輝きを持っていたことを想像する事はたやすい事ではない。

奈良・薬師寺(西ノ京界隈)

2010-04-16 07:26:46 | 
4月3日、今日は西ノ京に出掛ける。

朝、宿を出てまっすぐ歩いてゆくと猿沢の池にぶつかる。

その辺りから携帯でブログUPしてから西ノ京に向かった。



目指すはとある喫茶店パルロア、なんでもここのブランチが食べたいそうだ。

駅から2~3分も歩くと秋篠川と出逢う、両岸共に歩けるが往きは舗装されている遊歩道を歩いてみた。

遊歩道からは



どこからでも薬師寺の塔が見える。



桜並木もあって絶好のカメラアングルらしく沢山の人が撮影していた。



確かに絵になるビューポイントが多いのだろう。


5~6分で目指す店に着いた。



川名表示の石柱の脇に可愛らしいサインが置いてあった。

注文したのは



ベーグル・ヨーグルト・コーヒーのセット。

このベーグルが美味しかった。アタシはシナモンを頼んだのだが、Pが頼んだ柑橘系の名前の

ベーグルが旨かった。口に入れて噛むと、その香が口中に拡がってパン生地の甘みと絡んで

この場所、この時期、この時間と上手く調和してくれた。



満足して薬師寺に向かう。今度は遊歩道とは反対側の土手道を歩く。



途中からお決まりの田んぼ道でショートカット。薬師寺に向かった。



薬師寺で



東塔と



西塔を撮っていると、Pが誰かとなにやら話している。

話し終わって近づいてきて、「これもらっちゃった」と言って見せた物は、抹茶の野点券と

玄奘三蔵館の入場券、宝物殿の入場券など。

「何故私にくれたんだろう?」その後で「どうせなら、お弁当券も欲しかったよね」だってさ。。。


そんな訳で裏千家がお手前する野点のご相伴に預かった。





良い気分で薬師寺を後に唐招提寺へ向かう

途中、



我が家でも育てている、ムスカリや勿忘草があったり、



名前が思い出せないこんな花があったりしながら歩いてゆくと、右手に・・・



「よしむら」と言う蕎麦屋が出来ていた。小腹も空いていたので入った。



押し寿しと



かき揚げと



鴨せいろを頼んだ。


なにしろ、薬師寺から唐招提寺に向かう一本道にあるこぎれいな店である。イヤでも客は入るだろう。

賢パパの蕎麦が食べたくなった。



腹も満たされたので、気を取り直して唐招提寺に向かう。

奈良(各駅停車の旅)

2010-04-15 07:46:22 | 
4月2日、予てより計画していた奈良へ向かった。

当初は移動手段で電車か車かで迷っていたが、一週前の神戸~四国~岡山の旅で味を占めた

各駅停車の旅とすることにした。

今年は平城京遷都1300年に当たり様々な催しと秘仏等の公開がある。そして、なによりも

待ちに待った唐招提寺金堂の10年ぶりの再開だ。

今回の目的には、その唐招提寺と一週前の旅で果たせなかった食べ歩きとがある。しかし、日程には

限りもあるので、往きは各駅停車、帰りは目一杯使って新幹線とした。安く上げようと4月2日に

みどりの窓口で「ぷらっとこだま」の4月5日の遅い便を買い求めたが既に売り切れていた。

どうやら考える事はみんな同じらしい。スタートダッシュは出遅れた。。。





さて、そんなことで4/2早朝、出発したが、この日は強風が吹き荒れ首都圏のダイヤは大荒れ状態だ。

東海道線も乱れていて、当初の予定電車には乗れず前週と同じようにまたもや島田で停車と相成った。



余程この駅には縁があるようだ。そして前週と同じように雨が降っていた。



そして、目的1号「浜松餃子」



駅周辺にある餃子屋さんを軒並み調べてみたが、昼時の営業時間が電車の時間と合わない。

たまたま駅ビルに「五味八珍」が入っていると言う、この店はチェーン店なので気が進まないが、

この際そんな事は言ってられない、五味八珍盛りの円形の真ん中に浜松餃子の所以らしいモヤシが

のっているのを頂いた。



食後はデザートと相場は決まっている。

乗換駅の豊橋で旨そうな甘味があったので、買い求めた。



藤田屋のカスタード餡巻き・・・

乗り換えの通路上に店を構えていて、いやでも目に触れる。通りかかる乗降客は「美味しそうねえ・・」

などと言いながらも先を急ぐ。

アタシも「あと3分・・・」などと気をもみながらPを待った。



ここからは確か50分弱で名古屋に着く。

ここでの目的2号は、山本屋総本家の「みそ煮込みうどん」



あっつ熱の八丁味噌にこっちこちのうどんが煮込まれている。

広すぎる駅ビルに圧倒された。



これで奈良までは特に目的は無い。のんびり各駅停車の旅を楽しむ事にした。

やがて、亀山に到着。



駅前には、



でっかい鳥居が建っている???

亀山って、賢パパが言う「亀山ローソク」と「亀山茶」くらいしか知らない。

駅にあった名所旧跡の案内板を見ると



どうやら日本武尊の御陵と神社があるらしい。初めて知った。




ここからは関西本線になる。



こんな電車に乗って



出発した。ワンマンカーなのだ。無人駅では運転手が切符をもぎる。。。


のどかな三重の鈴鹿山中を一路奈良に向かう






やがて木津川に沿って走る。



月ヶ瀬に入った



梅の頃は月ヶ瀬渓谷は綺麗なのだろう・・・山を越せば柳生の里に至る。



駅には桜が咲いていた。



奈良には夕刻に到着。今回の宿はなら町にある、新田旅館と言う安宿。

さっぱりした女将さんが、
「いらっしゃい」
「お世話になります」
「ここがトイレ、ここがお風呂、いま誰か入っているかな?」
「ここにあるタオル使って、使ったら置いといて」
「ここが上のトイレ」

ってな具合でサラっと説明してくれる。
部屋の掃除もサラっとされているようないないような・・・
部屋の照明は点けてから一定時間が経過すると一度切れて、そして、また点く。
寒かったら、廊下にある石油ストーブが使えるけど灯油は3晩分は入ってなかった。


初日の晩御飯は椿井市場の中華の大廣



こんな市場内の路地にある。

奈良の夜は早い。うっかりすると食逃す。ここは11時まで開いている。アリガタイ。。

ビールと餃子と春巻きとニラ炒めでこの日を締めくくった。



この春巻き、皮が卵で巻いてある。なかなか美味しかった。

モンゴルの至宝展、そしてアドレナリン噴出

2010-04-14 09:36:16 | 日々のこと
4月11日の日曜日、東京江戸博物館で開催されている「モンゴルの至宝展」に行って来た。



あわよくば両国から船に乗って芝の浜離宮に寄って桜を見て・・・

なんて考えていたのだが、前日のハイクの後遺症でなんとなくダラついてしまい、その儚い夢は消えた。



代々木から総武線に乗ると、お堀の桜は今が盛り、ボートで楽しむカップルや、釣堀での太公望たちが

暑いと感じる日差しの中でそれぞれが時を過ごしていた。



両国に着き、博物館に向かうと道の脇で「モンゴルはモンゴルであって中国ではない」と言う内容の

ビラを配っている人たちがいた。

政治論争をする気は無いが、モンゴルもチベットも今の中国の対応に意義を唱える一人だ。



それ程、人が出ている感じがしないが博物館が見えた。



建物の壁面には大きなポスターが貼ってあった。





ロッカーにザックを入れ、入場した。



紀元前から始まる東北地方の草原での歴史と知恵に驚きながら半分ほど進んで、ある展示物の前で立ち止まっていると、

若い係員が「恐れ入りますが、お口の中にガムか飴を入れていらっしゃいますか?」と、聞いてきた。

私「はい。噛んでます。」

若「恐れ入りますが、飲食は禁止されていますので・・・」

私「はい。わかりました。。。」と言えばこの話はブログにならなかった。

私「飲食とはパンや弁当を食べたり水を飲んだりする事ではないのか?」と反論した。


何故なのか自分でもわからないのだが、この若い係員の態度・・・無表情で機械的で慇懃で相手にしない無礼な物腰に無意識で反発してしまったのだ。

私「何故、ガムや飴が駄目なのか説明して欲しい」

若「唾液によって展示物が汚染されるからです」

カチーーーンときた。ガム・飴を噛んでいて唾液で展示物が汚染されるものか。。。


私「それじゃあ多汗症の人はどうなるんだ?」

ここまで来ると、もう収拾はつかない。

若「その様な場合は問題ありません」

私「人の汗は問題なくて、唾液は問題あるのか?第一、唾液が本当にかかるのか?」

もう、ガキの喧嘩である。

その後の数分間は「ブラブラブラ」「バアバアバア」と言い合いが続いた。


断っておくが、囁く様に・・・続いたのだ。

しかし、展示室の展示物の真ん前で言い合いをしている60オヤジと20代の係員は異様だ。

全員、興味深々で通り過ぎる。




若「ガム・飴の持込み禁止の表示はしてあります」

私「見せてもらおうじゃないか」

若「どうぞ」



二人して勢い良く入口に戻る。

入口でその禁止サインを探すが、「飲食物」はあっても「ガム・飴」は見つからない。

モギリの女性達にも聞いて廻るが、「飲食物」はあっても「ガム・飴」はない。


よぉ~し、勝った。。。とばかりに口撃にでる私。

守りに入りながらも、あくまで自分の正しさ(当然だが)を主張しようとする奴。



そうこうするうち上司がやってきた。


何故、ここで揉めているかを説明していると、突然、奴が・・・

「ありました。こっちへ来てください」と俺を連れてゆく。

おう、見てやろうじゃないか・・・と付いて行くと、それはあった。。。



まず、江戸博物館の1階展示室の入口付近の状況説明をする。

1階の展示室は、建物入口ドアを入ってまっすぐ進むと正面やや左側にモギリ嬢が立っている

いわばゲートがある。

そのゲートから3~4m先に展示室入口があり、入って左壁に関係者の挨拶文が4~5枚展示されてあり、

正面壁に今回の展示に関する説明文があって、入場者は右に流れながら左側・右側にある展示物を見てゆくことになる。


奴があったというそのピクトサインは、展示室入口右側の見返り壁に20cm角ほどの大きさで掲示してあった。



奴「ここにあります」

ここで私は完全に切れた。

私「お前ナア・・・入場者は展示室に入った瞬間から展示物に気をとられるんだぞ、こんな場所に、こんな小さなサインで書いてありますなんて、ふざけんじゃない!!!ガオ~」

上司「あのお~こちらへ・・・」


そのとき中に居たオバサンが

「せっかく楽しみで観に来ているのに、うるさくて集中できません。外でやってください」

あんたは正しい・・・



そもそも、このような場合、係員はワガママな客に対して、書いてあったじゃないか、と言い続けるものだろうか?

お客さまの言い分もごもっともでございますが、過去にも床等に廃棄されたもので館内が汚れたケースがございますのでご理解ください。

こんな風に言うものじゃないかと考えるが・・・(またアドレナリンが、、、)

そもそも唾液で汚染されるはないだろう。。。(あぁ、アドレナリンが・・・)



またゲート付近に戻る。


上司に向かって、私「奴はガム・飴は展示物が汚染されると言ったが、上から見られる展示物は全てガラスケースに入っているではないか、何故、ガム・飴が禁止されているのか説明してもらいたい。過去に展示物にガムをつけられた事があるのか?唾液で汚染されて汗は何故大丈夫なのか?それ以外にも汚染される物質は沢山あるではないか?喉が渇くからガムを噛んでいる人も居れば、食後の習慣で噛んでいる人も居る。なんといってもガムで展示物が汚染されると言う理屈が理解できない。

ワガママな客である。

上「床などにガムを捨てるお客様がいらっしゃいます。」

私「・・・・・・・・・・なるほど、、、、、、、、(何故かここで急速に冷静になれた)
人間千差万別、そういう奴も居るんだろう。。。いや、分った、俺はそんな事はしないが、そういう可能性も否定できない主催者側としては禁止せざるを得ないことは理解した。ガムは廃棄する。
但し、ガム・飴は習慣で噛んでいる人たちが沢山居る訳だから、これほど大騒ぎになる問題だという事を認識して、明瞭な表示にしてもらいたい」

上「分りました。対処します。」

私「ところで○○さんだか○○さんと読むのか知らないけど、あんたは他人とのコミュニケーションをもう少し学んだほうがいい。キチンとコミュニケーションがとれれば、こんな問題起こらなかったはずだから・・・」

おおきなお世話である。。。

上「今後気をつけさせます」

若くても上司たるもの、その対応を心得ている。

若くて綺麗なモギリ嬢達の冷たい視線を感じながら、展示室内に戻ると、Pが「やっちゃったね・・・」っていう感じで優しく迎えてくれた。
なんだか妙に嬉しかった。が、もう見る気はなくなっていた。。
「すごいねぇ・・」なんて他人事の感想を述べながら展示室を後にした。



この一連の騒動で、私のアドレナリンは大放出、頭、背中、脇と猛烈な発汗作用が置き。興奮状態に陥った為・・・・・

展示物は記憶の外に飛んでいってしまった。

惜しい事をした。



気を取り直して5~6階の常設展示館に行った。

江戸以降の展示物をほの暗い展示室で見ているうちに気持ちが落ち着いてきた。

なので、こんなこともやってみた。





人間、怒ると腹が減る。

館内に在ったパンフで旨そうな店を探して、「かき揚げ丼」に決めた。

怒りと天麩羅にはどんな相関関係があるのかなぁ・・・

清澄通りの線路際にある「天亀八」に入って注文した。



かき揚げ丼セット2300円也。

かき揚げはムキエビだらけとモンゴイカが数個と大葉が一枚、それ以外はなし。

私にとっては日光の手前だった。

蛇の湯温泉

2010-04-13 14:05:46 | 温泉
三頭山から数馬に降りてくると、「数馬の湯」という風呂がある。


この数馬の湯から数馬のバス停方向に歩いて行くと、左手に「蛇の湯温泉」と言う鄙びた感じの温泉旅館がある。




その昔、まだ電気もなかった頃からあるらしい。


今回はこの「蛇の湯温泉」でハイクの疲れを落とした。

道路から階段を下ってゆくと



いかにも時代を感じさせる建物と能書が掛かっている。



玄関はこじんまりしている。

入って右が帳場になっている。



子供をおぶった若女将風の女性が相手をしてくれた。

入浴料1000円を払って風呂場へ行く。

階段を2階分ほど下がった所に風呂はあった。

先客は1名のみ、それも湯上がりだ。二言三言世間話をして湯船に浸かった。

湯温は41.5℃、加温、濾過はしているが加水はしてないと書いてある。

アルカリ泉特有のつるっと感がある良い湯だった。

久しぶりの山で傷んだ筋肉に温泉の効能が浸み込んでウットリした。



帳場の裏手に待合スペースがある。




柱時計、天照皇大神の掛け軸、数種類の賞状、そして旅館の身内の方なのだろう人の出征写真や陸軍伍長拝命書等々が飾ってあった。

Pを待つ間、ここに座ってボンヤリと見るともなく眺めていたら、若女将の父親らしい人がさっきの子供をおんぶしていた。

どうやらこの「たから荘」の子育ては「おんぶ」することから始まるようだ。



三頭山

2010-04-13 08:00:10 | ハイク
笹尾根の南半分を繋げるきっかけがこのハイクだった。



3月20日、3~4年前の同じ時期に来たことのあるこの山に戻ってきた。

このルートは2度目になる。

今回は無事、奥多摩湖~槙寄山~数馬と歩いて蛇の湯に入った。





1度目は、当時職場の同僚だった人と2度目か3度目の山行だったと思う。

上り始めて40~50分、イヨ山の手前でパラパラと雨が落ちてきた。

この日は天気予報でも降られるかもしれないという予想だったが、強くはならないと思っていた。


と、この同僚が立ち止った。



空を見上げている。。。

この日の山行は、同僚に決断させようと決めていたので、黙って私も止まった。



数十秒後、「行きましょう」と言って歩き出した。





イヨ山を越えてしばらくして、又、雨が落ちてきた。





同僚は又、立ち止った。


私は振り向きもしないで、黙って待った。



「戻りましょう」同僚は言った。





私は黙って下り始めた。


一度も後ろを振り返ることなく、ただ黙々と歩いた。

登山口に着いてザックを下し、水を飲んで座って待つと、15分ほど経って同僚が降りてきた。



「雨、止みましたね」と私は言った。

「そうですね」と同僚は答えた。

「持ってきたおでん食べませんか?」同僚は言った。

「・・・・・・・・・・・・」と私は答えた。



浮橋を渡り、階段を上った頃、日が差してきた。




藤棚の下でミョーな雰囲気でおでんを食べた。

その後、8ヶ月くらい机を並べて仕事をしたが、二人して山に行くことはなかった。




注:写真と本文とは関係がありませんが、すべて三頭山で撮った写真です。

笹尾根ハイク(これで繋がった・・)

2010-04-12 08:53:18 | ハイク
3~4年前に歩いた笹尾根がこんな形で繋がるとは面白い。

3~4年前、盛んに奥多摩、陣馬、高尾周辺を歩いていた頃、上川乗から槙寄山~数馬へ下りた。

それが、つい先月、奥多摩湖から槙寄山~数馬で北半分が繋がったんだ。

こうなると南半分もつなげたくなるのは・・・オレだけ?じゃないよね。。。

長丁場なので7時10分のバスに乗ることにした。

4時に起き、おにぎりを作ってもらい、5時36分の電車で出掛けた。


数馬方面のこのバスには、この時間、座席を埋めるだけの乗客は乗っていなかった。

上川乗で降りる。降りたのは我々を含んで3人。ここで降りて同じ方向に歩く人は笹尾根に行く。

登山口でその人と話したら、三頭山に行くと言う。出来れば奥多摩湖まで行きたいと・・・

無理では無いだろうが、こっちもかなりの長丁場、無理をしないで、と話して分かれた。



アタシはバスの中で済ましたのだが、この人は登山口で握り飯を頬張った。



バスの中では、アタシが食べ始めると運転手とその後ろに座っていたご婦人が振り向いた。

なぜだ?匂ったのか??それともイカナゴが入っていたからなのか???



奥多摩も陣馬・高尾周辺も尾根道の感じはほとんど同じだ。



この感じが好きだ。。。





浅間峠から高尾山までは「関東ふれあいの道」になる。

ところどころにこの標識がある。



上川苔7.7km、陣馬高原下7kmとある。

前半も中間点を越した。

ところで、奥多摩にある川苔山も川乗山と書いたりする。

ここのバス停は川乗だが、関東ふれあいの道の標識には川苔となっている。

苔と乗では意味も成り立ちも全然異なるし、第一、苔で「のり」とは中々読ませない。

こういう疑問は工場長に任せて、先に進もう。




今回の目的の第一は完歩、第二はリフトに乗ること。

故に時間との競争も入ったので、巻ける道は全て巻くことにした。が、立派な太腿が完備されている

この人は、物足りないと見えて、醍醐丸辺りからアタシとは別にピークを踏み始めた。

この人も案外ドMなのかも知れない。





和田峠に着いた。

これで前半は終了。いよいよ表銀座に入る。


和田峠から陣馬高原に登ると途端にそこは宴会場となった。

花見山行の皆さんだ・・・

浅間峠から和田峠まで、すれ違った人は10人程度。ところがここでは・・・数えるのは止そう。。。


身体も温まって調子も出てきた。

先も見えてきたので、登りはゆっくり、下りは早く、平坦路はピッチを上げてガンガン進む。

やがて小仏峠に到着。

小仏トンネルの尾根道は東面が伐採されていて中央高速が見ることができた。



なんだか初めて見たような気がして嬉しかった。


このあたりの風情はいい



でも、路面は確実に硬くなっている事に気づいた。

前半の路面は腐葉土でフカフカ・・・やはり通行量が圧倒的に違うんだろう。。。



やがて一丁平の山桜が遠望できると



まもなく一丁平に到着。



ここの桜がこんなに綺麗だったとは・・・

来年もまた来よう・・・って思った。。。


こうして奥多摩湖から高尾山までが繋がった。

最後のハイクが一番充実した事は言うまでも無い。

天気・花・ケーブルカー・ビール・ソバ・・・全て良し、そして終わり良し。。。。。