malのあっちこっちブログ

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奈良・唐招提寺

2010-04-17 11:00:06 | 
唐招提寺と薬師寺は歩いて10分足らずの距離にある。

「よしむら」を出て、程なく南大門の前に着いた、2年ぶりだ。



10年もの間、仮囲いに覆われていた金堂が見える。

南大門に架かる孝謙天皇の勅額といわれる扁額もそのままだ。




中に入る。

復元が終わった金堂がそこにあった。



天平の甍、である。

寄せ棟造りのどっしりとした屋根と列柱、アタシはこの奈良様式が大好きだ。

創建当初はこの屋根の棟の高さは今よりも3mほど低かった。

薬師寺の東塔と西塔を思い出して欲しい。西塔は創建当初の屋根勾配にして再建されたため

東塔よりも勾配がゆるくシャープな印象を受ける。

ただ、ここ唐招提寺の場合、その勾配は構造的にかなり無理があり軒先が垂れ下がると言う

構造的欠陥があったらしい。

元禄時代の改修では、その垂れを支える為に方杖を大梁の下に入れて突っ張りをしていたが、

この方杖が美しくないと思う建築史家の関野貞は明治31年の改修でコレを撤去し、屋根裏構造に

当時の輸入された最先端技術であるキングポストトラスと言う三角形を組み合わせた小さな部材の

工法でこれを改修した。

今回の解体修理に当たり、棟の高さをどうするか・・・と言う検討も行なわれたが、創建時の勾配では

大規模な補強が不可欠と言う事情もあり、現在の勾配のまま修理される事になった。



正面に並ぶ列柱は中央から両端に向かって少しづつ狭くなってゆく。この効果によって立面が

引き締まって見えるが、これは、安置される仏像の規模を想定しつつ平面規模を計画していった結果として、

生まれた効果らしい。






軒構造も丸垂木の上に飛檐垂木と言う角材を使った二軒で、それを支える組物は三手先と言う構えだ。




今回、鴟尾は新しく作り変えられたが、二年前に修理中に降ろされていた鴟尾を見て触った。

一体は創建時のもの、一体は元禄の時のものだったが1200年を経ても尚、堂々としていた。




日本に残る木造建築は、保存する為にその時代の知恵を使って維持管理をして行く訳だが、ここ唐招提寺にも、

時代の痕跡があちこちにあって面白い。



写真では分りづらいが、この鬼瓦も葵の紋がついている。元禄時の改修で使われた瓦だ。



金堂から戒壇院へ行く。



そもそも鑑真和上は日本の僧と言われていた人々に仏教の戒を授ける為に招かれた。

聖武天皇も和上から授けられた。

役目が終わり、東大寺戒壇院から唐招提寺に移ってここにも戒壇院を設けている。

いまでもここでは律宗の戒壇が授けられている。



ここの桜は美しい。



やがて本坊に至り右に曲がると右側に苔むす場所がある。

開山堂跡だ。



お寺はどこも草花が美しい。



今年の旅行は全ての場所で桜の開花時期にめぐり合えた。こんな年もあるのだろう・・・





本坊の朽ちた土塀に沿って進むと、やがて御影堂の前に出る。



入母屋造、銅板葺きの玄関が見えるが、ここは6月6日の開山忌の時期にしか入る事ができない。


そのまま、まっすぐ歩いてゆくと、やがて左側に鬱蒼とした杉木立と苔に覆われた場所に出る。

鑑真和上御廟だ。

ここの苔はすばらしい。秋篠寺の苔も素晴らしいがここは佇まいも含めて最高である。







先般、中国の要人が大阪滞在中に、車を飛ばして参詣していったという。



金堂に戻る途中に正倉院よりも古い校倉造の建物が2棟ある。



宝蔵と



経蔵と桜だ。

右手には



礼堂があり、続いて



東室

この東室と講堂、金堂に挟まれるように国宝の鼓楼がある。



唐招提寺唯一の重層建築である。

この建物は鎌倉時代のものだが、入母屋造はいかにも武家好みの建築様式で重厚だ。

入母屋造ある社寺仏閣は鎌倉以降と考えて差し支えないだろう。

それ以前は金堂のように寄せ棟か方形が多いのだが、私は断然こっちが好きだ。



名残惜しいが唐招提寺を後にする。



振り返ってみる金堂、ホントにカッコいい。。。

今回の解体修理で、その修理痕を探してみたが、トメの合わせ目にわずかなズレしか分らなかった。

時代と共に風化した朱や緑青は、すべて古色となり、日本人が好きな侘び寂びの世界を構成しているが、

こうした建物がその昔、絢爛豪華な黄金の輝きを持っていたことを想像する事はたやすい事ではない。