を読む。ミルチア・エリアーデ著。ちくま学芸文庫。
第29章「帝政時代の異教、キリスト教、グノーシス派」。グノーシス派の最たるものが、マニ教だという。その神話によれば、最初に神と悪魔(光と闇)の戦いがあり、光の分子が悪魔に捕らえられてしまった。悪魔は光の分子の牢獄として、人類を創造した。だから、人類が存続する限り、光の分子は解放されないことになる。人類がひとり残らず死に絶えて、初めて宇宙は救済される、という。
鬱ムードいっぱいで、実にすがすがしい。フィリップ・K・ディックの小説(「電気羊」だったか)の主人公が、「自分はマニ教徒だ」と話すシーンがあったような気がするが、なるほど、彼の世界観と共通している。
もうひとつ思い出すのが、カルヴァンの「予定説」。マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」によれば、「死んだあとに人が永遠のいのちを得るかどうかは予め神が決めていて、この世でどんなに努力してもその決定は変わらない」、という説なのだが、これ、かなりグノーシス的だ。グノーシス派は、人間を「霊的な存在」と「肉的な存在」に分ける。前者の霊魂は救われるが、後者は物質的な世界とともに滅びるしかない、という。
カルヴァンの後継者が、この世での行いを重視するように方向転換したのは、異端とされる(火あぶりになる)のが怖かったからではないだろうか。
これだけ人間というものをネガティヴに捉えているのに、マニ教は自殺を禁じている。なぜだろう。キリスト教ならわかるが。「この世にあるものはすべてよきものである。なぜなら神が創造したから」。だから自殺は、神に対する反逆になる。
エリアーデはこの点について何も語っていないが、察するに、自殺は「肉体という牢獄」を絶対的なものにしてしまうから、ではないか。もっと身もフタもない言い方をするなら、自殺を認めてしまうとマニ教の信者がひとりもいなくなってしまうから、ではないか。