パウロ(サウロ)と十二使徒の関係。
パウロはもともとはテント造りの職人で(使徒言行録18、3)、最初はキリスト教を迫害するファリサイ派に属していた(フィリピの信徒への手紙3、5~6)。ところがある日、天からの光に照らされ、主イエスの声を聴いた。目が見えなくなったパウロの上にアナニヤという人物が手を置くと、たちまち目は元通りになり、彼は洗礼を受けた(使徒言行録9、3~18)。
そういえば、「ブラインディド・バイ・ザ・ライト(光に目もくらみ)」という曲があったなあ。それはともかく、このようにパウロは十二使徒の弟子ではなく、神秘体験、つまりイエス・キリストとの「直接的な出会い」によって信徒となった。このことが、十二使徒との関係に微妙な影を落としているように思える。
キリスト教徒になってからエルサレムに上り、使徒たちと会おうとしたが、会えたのはヤコブひとりだけだった(ガラテヤの信徒への手紙1、19)。
いつの間にか、使徒ペトロはユダヤ人への布教、パウロは異邦人への布教、という役割分担が出来上がっていた(同2、7~9)。要するに、使徒たちから煙たがられていた、ということか。
そんなパウロは、「ユダヤ人のキリスト教徒と異邦人のキリスト教徒を差別している」、とペトロを非難している(同2、11~14)。
また、パウロは告白している。「アリスタルコ、バルナバのいとこマルコ、ユストと呼ばれるイエス。割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です」(コロサイの信徒への手紙4、10~11)。十二使徒は、ひとりもいない。
一方、ペトロはペトロで、こう書いている。「パウロの手紙には難しく理解しにくい箇所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(ペトロの手紙二 3、16)。
「ペトロとパウロは、皇帝ネロの命令で同じ日にローマで処刑された」、という伝承があるが、そもそもこの二人が行動を共にすることがあったのか。怪しいのにゃ。