富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ-神の憐れみと救い- 」ルカによる福音書18章9~14節

2020-03-06 13:50:41 | キリスト教

  ↑ ‘God, be merciful to me, a sinner!’「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」                    English Standard Version

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            日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

     受難節第2主日   2020年3月8日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                                       礼 拝 順 序

                                                     司会 斎藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   6(つくりぬしを讃美します)

交読詩編   51(神よ、わたしを憐れんでください)   

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書18章9~14節(新p.144)

説  教 「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ-神の憐れみと救い- 」 辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 495(しずけき祈りの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                            次週礼拝 3月15日(日) 午後5時~5時50分  

                                                           聖 書  ルカによる福音書15章4~10節

                                                            説教題  「失われた息子」

                                                            讃美歌(21)  441 513  交読詩編 18    

      本日の聖書 ルカによる福音書18章9~14節

 18:9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

                  本日の説教

「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても(また)」(18:9)、イエスは次のようなたとえを話されたという書き出しになっています。このたとえを「不義なる裁判官のたとえ」(18:1-8)とともに、正しい祈りの態度を教えたものとして、まとめて扱っていると思われます。失望せずに祈りつづけるやもめの熱心と、この徴税人のような謙虚さとは、たしかに正しい祈りに欠かせないものです。しかし「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」は、明らかにファリサイ派の人に向けて語られた論争的な調子をおびており、悔い改める罪人を受けいれてくださる神のあわれみについて教えられたたとえ話であると言えます。たとえ話は、エルサレムの神殿を舞台にして二人の人が登場します。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人です。二人は祈るために神殿に上り、おそらく神殿の前庭で祈ります。しかし、その内容が問題となっています。この二人のうちどちらが神に義とされたかという質問が主イエスによってなされ、たとえ話は終わっています。

 それでは、その詳細を読んでいきましょう。まずファリサイ派の人について語られます。ファリサイ派の人々は神に対する自分たちの果たすべき責任として、何よりも律法を守ることによって生活を聖別しなければならないことを主張していた人々でした。彼らの多くは、「自分は正しい人間だと自任して、他人を見下している人々」でした。彼らは、自分の義に対して確信をもっているから、神に頼る必要はなく、したがって神を信じ、神の律法を守ることに専念しているといいながら、実は神ではなく自分自身に信頼して生きていたのです。神を信じているといいながら、神よりも自己を信じているのです。彼らユダヤ人は選ばれ民という選民意識を持っています。特に指導層である律法の教師たちや、ファリサイ派の人々は、他の人よりも選ばれた者という意識が強く、自分を誇り、いわれのない優越感を持ち、そのことのゆえに不信仰と高慢の罪を犯していました。

神の前で自分を誇り、正しい者とする立場は主イエスの説く福音信仰とは相容れません。このたとえの「義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない」というイエスの言葉は、「徴税人や娼婦が、あなたがたより先に神の国にはいる」(マタイ21:31)と言われたイエスの言葉と同様に、彼らファリサイ派の感情を逆撫でし、徹底的に攻撃するものでした。

 「ファリサイ派の人は立って」祈りました。人々から尊敬されているファリサイ派の人は人々の注目をあつめるために、なるべく目立つところに立って、信心深そうな態度で祈ったのです。「心の中で祈った」は、直訳すると「自分自身に向かった祈った」となっています。神のみを見つめて祈ったのではなく、独り言を言ったことになります。神様との正しい対話の関係のない、いわば心で念じているような祈りなのです。神なしにでも人間の力でやっていけると自負している自己中心な人間にとって、祈る対象の神は漠然としたものになってしまいます。祈りは心の中でのつぶやきになるのです。彼は、「わたしはほかの人たちのように・・な者でもないことを感謝します」と祈ったのです。彼は他の人々と自分を見比べて、自分以外の人間がいかに多くの罪を犯しているかを語り、自分がその様な人間でないことを感謝したのです。彼は他人を裁くことによって感謝します。彼は神に感謝をささげているのでなく、神と人々の前で自分自身を誇っているにすぎません。祈りは自己主張や自己を誇ることではなく、聖なる裁き主でもある神に自己をゆだねて信頼することなのです。

 「わたしは、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者で」もないと語ります。「姦淫や不正や貪欲」(出エジプト記20:14-16)は十戒の禁じる行為でした。彼は戒めを忠実に守っていることを誇示しています。しかも「わたしはほかの人たちのように」と、そしてさらに「この徴税人のような者でもないことを」と徴税人を引合いにして比較します。

更に彼は単に律法を守るだけでなく、断食と献金に励んでいることを誇ります。律法はすべての民に年一回、贖罪日の断食を規定しています(レビ記16:29-31)。しかしファリサイ派の人々は律法の定め以上に、週に二回(月、木)の断食をしていました。

 また、律法は農作物の十分の一を献げることを定めています(申命記14:22-23)。家畜、穀物、ぶどう酒、油などの収穫物の十分の一です。しかしファリサイ派の人々は、律法に定められていない、はっか、うん香、いのんど、クミンなどの農作物についても献げ、全収入の十分の一を自発的に献げていました(マタイ23:23、ルカ11:42)。

 律法に定められた以上のことを実行していることは、ファリサイ人の誇りであり、彼らの宗教的熱心のあらわれでした。しかしたとい他のすべての人にまさって律法を忠実であったにしても、それは神の恵みによることであって、神と人々の前で誇るべきものではないはずです。

 ファリサイ派の人が自信に満ちた堂々たる態度で祈ったのに対して、もう一方の徴税人は遠く離れ立って祈りました。徴税人とは、当時のイスラエルがローマ帝国の支配下にあったので、税金はローマに納めなければなりませんでした。この税金の取り立ては、請負制になっていて、ローマ人から委託されたイスラエル人の徴税人がおこなっていました。彼らは一定の地域の税を前払いしておいて、さらに余分に取り立てたものは自分の所有にしても良いという権利を得ていたので、不正な強欲な取り立てをしていました。イスラエルの人々にとって、税金を納める相手が占領国であり、その仕事を自分たちと同国人である徴税人がやっており、おまけに彼らは私腹を肥やしていのですから、当然イスラエルの人々は徴税人を罪人や遊女などと同じように蔑んで罪人扱いをいました。

 この徴税人が遠く離れて立ったのは、神のみもとに近づいて祈るにふさわしくない自己の罪を感じていたためでしょうか。聖と義なる裁き主なる神の前で、彼は目を天に向けようともせず、目を伏せ、はげしく胸を打ちたたきながら祈りました。胸を打つということは、罪にたいする深い後悔と悲しみの思いをあらわす行為でした(ルカ23:48)。彼は聖なる神の前に出る価値の全くない者と考え、自分の罪を深く悲しみ、ただ神のあわれみを乞い求めるだけでした。この徴税人の祈りの言葉は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という一言でした。「憐れんでください」は、口語訳聖書では「おゆるしくさい」と訳しています。原語<ἱλάσθητίヒラスセーティ>は「あわれむ、ゆるす」という意味です。その「あわれみ」は、霊的苦しみ、罪に苦しむものをゆるし受け入れる神のあわれみを表す言葉です。彼は罪に苦しむものをゆるし受け入れる神の憐れみを求めたのです。徴税人は自分のことを「罪人のわたし」と告白しています。この徴税人は、彼がこれまで犯してきた、かずかずの罪にたいするゆるしを求めているのではなく、罪そのものであるみじめな絶望的な自己の存在にたいする神のあわれみを乞うているのです。どこからみても、救われる望みを全く失った絶望的な自己を神の前になげ出しているのです。ファリサイ人には見られない救いに対する切なる求めがここにあります。

主イエスは、この二人の人の祈りをあげて、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない」と言われました。神の目は、自己中心的な思い上がったファリサイ派の人の祈りではなく、謙虚な徴税人の祈りに注がれたのでした。「義とされる」は神と人との正しい関係を表す言葉で、神のみこころに適って、神に正しい者として受け入れられることです。「家に帰ったのは」とは、神殿から出て、もとの日常生活に帰って行ったことを意味しますが、しかしそれはこの徴税人にとって、もとの生活に逆もどりすることではなく、まったく新しくされた再出発することでした。

 主イエスの「義とされたのは徴税人の方である」とのお言葉は、ひたすら神に仕え、忠実に律法を守ってきたファリサイ派の人々にとっては、意表をつくような驚くべきことばです。貪欲不正な職業のゆえに、世間からつまはじきにされ、神からも見離されていると思われていた徴税人が、神の国に受け入れられたのです。

 主イエスの「義とされたのは徴税人の方である」というお言葉は、人はその行いによって義とされないこと、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(ローマ3:24)こと、ただ、神の憐れみによって救われることを示されたのではないでしょうか。そうすると、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈った徴税人だけでなく、「罪を犯して神の栄光を受けらえなくなって」いる人は皆、徴税人のように神の憐れみを求めるべきことが、このたたえ話によって示されているのではないでしょうか。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」これは謙遜についての教えですが、たんに、ファリサイ人はその高慢さのゆえに退けられ、徴税人はその謙虚さのゆえに受け入れられたというような教訓ではありません。もしそうであるとすれば、神に受け入れられる条件は、人間の側にあることになります。ファリサイ人の熱心さも、徴税人の徹底した謙虚さも、救いの条件にはなりません。

 イエスは罪人を救うために世に来られました。イエスによれば、神が見下さない人々とは、罪人、徴税人、娼婦などであり、ファリサイ派の人々が見下す人々ではありません。徴税人が義とされたのは、ただ悔い改めた罪人をゆるし受け入れるために、十字架にご自身を命を献げられたイエス・キリストのめぐみによるのです。

 「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ことをイエスは御自分の生涯を通して、わたしたちに示されました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ2:6-9)。わたしたち、神の御前に罪あある人間は、自分の義を全く持たない者として、すべての自慢を排除し、不完全な罪人として、謙遜な、悔いた心をもってへりくだり、神のあわれみにゆだねばならないのです。

神の御子イエスは、「人間と同じ者になられ、人間の姿で現れ」ました。ということは、「徴税人」とも同じ人間になって来られたということです。【マザー・テレサは、死にかかった路上生活者を、姿を変えたイエス・キリストと見ていました。】神の身分でありながら、自分を無にして、そこまでへりくだられたのです。たとえの中の徴税人の祈りは、主イエスの祈りでした。

聖なる神の御前で、罪のゆえに裁かれなければならない、神を認めようとしない人間に代わって、罪のない御子イエスが、罪人の一人になって、「父なる神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈られたのです。それはすべての人間がなさなければならない祈りでした。

罪人にたいする神の憐れみと赦しは、わたしたち人間に代わって神の裁きを受けられたイエスの十字架の贖いの死によて与えられるものでした。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶句したイエスの死は、わたしたち人間の罪を背負って、神の裁きを受けられたことを示しています。イエスの死からのよみがえりによって、私たちも、義とされ、聖霊による新し命を与えられ、日常生活をする家に帰っていくことが出来るものとされたのです。

「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩篇51:1)。

「めぐみの主よ、ゆるしたまえわが罪    今よりのち 神のものとならせたまえ、わが身を」(讃美歌21,441番 「信仰をもて」2節)

めぐみの主を讃美しつつ、イエス様を心に宿し、充実した日々の生活を送らせていただきましょう。

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