富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

天地と人間の創造

2015-10-25 14:34:35 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

               日本キリスト教 富 谷 教 会

          週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

       降誕前第9主日  2015年10月25日(日)      5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します) 

交読詩篇  148(ハレルヤ。天において、主を賛美せよ。)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   創世記1章1~5、24~31節a(旧p.1、2)

説  教     「天地と人間の創造」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 281(大いなる神は)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

 

                次週礼拝 11月1日(日)午後5時~5時50分

                    聖書  創世記3章1~15節

                    説教  「人間の堕落」

                    賛美歌(21)6 69  24 交読詩篇 51

 本日の聖書 創世記1章1~5、24~31節a

  1初めに、神は天地を創造された。2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。3神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。4神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、5光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

………

  24神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。25神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。26神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」29神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。31神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

     本日の説教

 創世記の一章一節には、「初めに、神は天地を創造された」とあります。そして神が宇宙や世界、そしてあらゆる生き物を造られたことが記されています。

  しかし、現代の自然科学的宇宙論や人間を含めて動植物の進化の過程を知っている現代人にとって、聖書の物語はでたらめな神話にすぎないとして、否定してしまう人が多いのではないかと思います。

  自然科学が究明しようとしていることは、自然現象の生成過程についての客観的な事実の解明です。それに対して聖書の記している創造物語は天地の起源という物語を通して、この世界の存在の意味や、人間の生きる目的についての真理を知ることにあります。

  創世記一章は、世界がどのようにして成立したか、を説明するために記したのではありません。そうではなく、世界と人間の存在の確かさ、その意味はどこにあるのか、という根源的な課題に答えたものです。

  創世記一章は、およそ紀元前六世紀頃、バビロニアの捕囚(ほしゅう)地でイスラエルの祭司記者によって書かれました。イスラエルのユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、多くの民は捕囚の民として連れ去られ、苦役に服しました。紀元前597年から538年にかけて、60年近い捕囚の時期がありました。彼らにとって、そこは「異教の地」であり、多神教と偶像礼拝の支配している地でした。当時世界最大の都バビロンでは壮大な祭りが行われていました。新年祭には巨大な神像が運ばれる行列を見て、イスラエルの民は圧倒されたに違いありません。バビロニアの勝利はバビロンの神の勝利であると誇り、イスラエルの敗北と亡国は、彼らの信じるヤーウェ(主なる神)の敗北としてあざけられ、彼らは屈辱を味わいました。イスラエルの国家は滅び、神から与えられたとする嗣業の地を失い、神との契約は破棄され、それまでの社会体制は崩壊しました。それは大きな変動と荒廃の時代でした。このような崩壊と虚無の中から、祭司記者といわれる人々は、まず<世界>の存立の根源を問いはじめました。創世記一章は、こうした激動期に捕囚地バビロニアで成立したのです。

  第一章の創造物語は、バビロニアの創造神話からの影響の下に成立したと言われています。ただバビロニア神話の方は多神教ですが、聖書の創造物語の方は、イスラエルの唯一神教の信仰によって修正され、独創的なものになっています。このように、創世記一章は、世界がどのようにして成立したかを説明するために、記したものではありません。そうではなく、世界と人間の存在の意味、その確かさがどこにあるのか、という当時の緊急かつ根源的な課題に答えたものです。イスラエルの民は、偶像を崇拝するバビロニアの民に精神的に屈することをしませんでした。深い悔い改めとともに、国を失ったのは自分たちの罪の故であることを認め、神に選ばれたイスラエルの歴史を回顧し、唯一の創造神を信じ、神は必ず自分たちを守り、この苦役から解放してくださると期待したのです。

 「主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものに見なされる」(イザヤ書四〇・一七)。第二イザヤはその預言の冒頭から、バビロンの巨大な神像は細工人の造ったものに過ぎないこと、真の創造主はマルドゥクの神ではなく、唯一の神ヤーウェであること、それゆえイスラエルは「主を待ち望む」べきことを歌っています。創世記第一章の天地創造物語の背後には、このような信仰の闘いがあったことを知る必要があります。

  「初めに、神は天地を創造された」(一節)。

  一節は創造物語全体を要約する序文です。<初めに>とは、世界の初めのことですが、イスラエルは捕囚という国家と民族の滅亡の危機にあって、自分たちの存在意義とその「救い」を求めるために世界の<初め>を問いました。それは単なる知識の興味としてではなく、彼らの生死をめぐる信仰の闘いの問題としての切実な問いでした。イスラエルの民は、捕囚の中で神の全能とその恵みを知らされ、世界の始原について、「初めに、神は天地を創造された」と告白せざるを得なかったのです。<初め>に おられる方は、創造者にして人格的な唯一の神です。

  <神>は、ヘブライ語の原典では、エローヒーム(力を表わすエルの複数形)という語が用いられています。これは、諸種の働きや、尊厳性の表現としての複数形であって、多神教の神を表しているわけではありません。<天地を>とは、天と地、つまりこの世のすべてのものを、という意味です。<創造された>のヘブライ語バーラ-は神の創造行為にのみ用いられる語で、何らかの材料を用いて作る場合の語はアーサーです。従ってバ―ラーは「無からの創造」を示しているのです。

  イスラエルはこの創造物語において、歴史を開始し、これを治め、これを審き、かつ救う全能の主なる神を告白しているのです。この言葉の根底には一切のものの造り主である創造者への賛美と神への服従があります。

  二節は、独立した句で、一節や三節とのつながりはありません。二節で、深く見つめているのは世界の<不確かさ>です。二節は、<地><深淵><水>が既存のものとして描かれているので、一節の「無からの創造」と矛盾します。これはバビロニアの創造神話の影響によるものです。一節の「無からの創造」との関連を求めるなら、神の創造の第一歩は「混沌」の創造であったことになります。しかし大切なことは、バビロニアの神話を借用しながら、その神々に勝るイスラエルの神の唯一の主権を告白する意図がここにあることです。

  <地は混沌であって>とは、秩序がなくなり、荒廃している様子を示しています。「形も姿もなく」と訳される荒涼とした情景を表現しています。

  <闇が深淵の面にあり>の≪深淵≫とは「原始の大洋」のことで、古代の神話的世界像に共通して見られる宇宙生成以前の状態を海のイメージで表したもので、「底なしの深み」を言います。底なしの深みにしかも≪暗闇≫がおおている世界という見方、それが祭司文書記者の現実認識でした。

  <神の霊>の≪霊≫は、「息」「風」という意味もある語なので、ここは「激しい風」と訳すこともできます。二節は暴風雨のときのような海のイメージで創造以前の状態を描写していると解することができます。

  創世記一章の記者の見つめている現実世界は、強風が間断なく荒れ狂う底知れぬ深みを、暗闇がおおう、混沌とした荒涼世界です。混沌は空しく空虚で、何もありません。聖書はこの死の現実を厳しく見つめます。

  「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(三節)

  <神は言われた>とは、創造は神のみことばによる、ということです。みことばは神の力です。神が<光あれ>と言われたのは、明確な命令のことばであり、神の意志の表現です。神が最初に創造した光は、太陽や星の光ではありません。太陽や星の創造は一六節で語られます。

  この光は天体の光ではありません。混沌や闇や深淵を手に取るように照らし出す、希望と慰めに満ちた光です。この光によってすべてのものが整然と秩序正しく形づくられていくのです。この光はやがて「わたしは世の光である」(ヨハネ9・5)と宣言されたイエスによって、より具体的に輝くのです。この光が暗闇を照らしたことは、

  神の意志が創造された世界に貫徹されたことを意味します。<神は光を見て、良しとされた>。神は創造されたものを、満足と喜びの対象として見られます。底なしの深みと混沌の海を照らした光は夜と昼を分ける秩序の光です。

  世界は神に見捨てられたのではなく、神が語りかけ、それが実現する世界です。

  「神は…闇を夜と呼ばれた」(五節)。<呼ばれた>は、<名づけた>とも訳される語で、これは、神の主権と支配を意味します。神が闇を夜と名づけた、とは、神が闇をご支配のうちに置かれたことを示します。キリストが陰府(よみ)にくだられたのは、キリストが死の深淵の支配者となられたとの勝利の告白です。

  五節は、「こうして夕方となり、朝となった」という文です。イスラエルの一日は夕方六時より始まります。神は地上に家畜、這うもの、地の獣を創造され、これを見て、良しとされました。

  次に、神は御自分にかたどって人を創造されました。神にかたどって創造された。男と女に創造されました(二七節)。

  <ご自分にかたどって>は、ヘブライ語を直訳すると、「われわれの形・像として、われわれの姿・摸像のように」となります。神が自らを<われわれ>と複数形表現しているのは、尊厳の複数形とか三位一体性を意味するとか、いろいろな解釈があります。これは古代オリエント世界の神話を背景とした「主なる神を中心とした天的存在の議会」というイスラエルのイメージに由来するもので、ここでは「神の熟慮・決断」の表現として用いられているようです。<人>は、集合名詞の「人間」「人類」という意味です。人が「神の像として造られた」ということは、人間の外形が神に似ているという意味ではなく、人間が神と霊的に交わることができる、神に向き合う者として造られたということです。人間は「神の像」としての尊厳と地を支配する機能を担うべき存在として創造されたのです。

  <見よ、それは極めて良かった>は、創造全体の総括として最上級の表現を用いています。創世記を記した祭司記者は人間の創造の背後に強烈な神の決意のあることを知ったのです。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這生き物をすべて支配せよ。』」(二八節)。

  「産めよ、増えよ」とは、呪われた世界に対する神の祝福の言葉です。神は彼らを祝福して言われたのです。この祝福は人間に大きく未来を開く生命力を与えるものです。

  「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブライ十一・三)。

  わたしたちは信仰により、存在するすべてのものを無より創造であることを知り、全能の神を告白するのです。信仰は神のことばを、福音を聞くことにより生じます。この創造の神により頼む人は、詩人も歌っているように助けを得ることができるのです(詩編一二一・一、二)

  「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」

コメント (1)
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