富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「十字架の他に誇るものなし」ガラテヤの信徒への手紙、6章11~18節

2015-09-06 20:26:07 | 説教

        ↑ ピシディアのアンティオケ(アンティオキア)からガラテヤ地方のベッシヌス→アンキラ(アンカラ)→ドルライスへの矢印つき点線は、北ガラテヤ説のパウロの通った道をしめす。

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会

        週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと

願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 聖霊降臨節第16主日  2015年9月6日(日) 5時~5時50分 

         礼 拝 順 序

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ) 

交読詩篇  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

聖 書 ガラテヤの信徒への手紙、6章11~18節(新p.350)

説  教  「十字架の他に誇るものなし」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 297(栄の主イエスの)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏

 

                                         次週礼拝 9月13日(日)午後5時~5時50分。  

                                      聖書 コロサイの信徒への手紙、3章12-17節

                                      説教  「新しい人間」

                                         賛美歌(21)10 436 24

                                         交読詩編 33篇

 本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙、6章11~18節

  11このとおり、わた しは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。12肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。13割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。14しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。15割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。16このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。17これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。18兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

       本日の説教

     パウロが「ガラテヤの信徒への手紙」を書き送った<ガラテヤの諸教会>については二つの説があります。

 一つは、パウロが第一回伝道旅行(紀元46~48年頃)で訪れ、第二回伝道旅行(紀元49~52年頃)で再び訪れたローマの属州であるガラテヤ州の南部のフリギア、ピシディア、リカオニア地方のアンティオキア、イコニオン、リストラ(使徒言行録13・3~14・27参照)の諸教会とする「南ガラテヤ説」があります。

   もう一つは、パウロが第二回と第三回伝道旅行(紀元53~58年頃)に訪れた可能性のあるガラテヤ州北部の本来のガラテヤ人定住地のアンキラ(現トルコの首都アンカラ)を中心とする地域一帯にできた諸教会とする「北ガラテヤ説」があります。

    このガラテヤ書が、どちらの教会に宛てられたのかは、学説が二つに分かれ、決定することは難しいのですが、「南ガラテヤ説」によれば、この手紙は第一回伝道旅行後のエルサレム使徒会議(紀元48年頃)の直前か直後に、シリアのアンテオキアか、エルサレムへ行く途上で書かれたとされています。

 「北ガラテヤ説」によれば、この手紙は、第三回伝道旅行中、おそらくエフェソに二年間滞在していた時(紀元53~54年頃)に書かれたと推定されています。今日の学会では北ガラテヤ説が有力視されています。使徒言行録18・23に「パウロは…ガラテヤやフリギアの地方を次々と巡回し」とあり、16・6にも、「彼らは…フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」と、フリギアとガラテヤが併記されているからです。この場合のガラテヤは地方のガラテヤのことであり、北部ガラテヤを指すとしか考えられないからです。

   この手紙を書いた執筆の動機は、パウロがガラテヤの諸教会を立ち去った後にやって来たユダヤ人キリスト者に惑わされて、信徒たちが「真の福音」から離れて、ほかの福音に移っていく重大な事態が生じたからです(ガラテヤ1・6)。

  ユダヤ人キリスト者の教師たちは異邦人キリスト者に律法、ことに割礼の遵守を迫りました。彼らは教会を乱し、パウロの使徒職を疑問視し、パウロとパウロの教えを排除しようとしました。パウロにとって、彼らのそのような言動を放っておくことはできません。彼らの教えは福音が与える「律法からの自由」を失い、キリストの十字架の死によって成し遂げられた救いの業を無意味にし、「キリストの福音」そのものをユダヤ教に換えてしまうことに他なりません。

  そこでパウロは、福音とは何であるかを説明します。彼は先ず、自分が説く福音は、キリストの啓示にもとづくものであり、エルサレムの使徒から受けたのではなく、独自のものであることを、具体的な事実により主張します(1・11~2・21)。こうしてパウロは、自己の回心と召命の事実を語り、エルサレムの使徒たちと対等の立場にある、キリストによって選ばれた使徒であることを宣言します。次いで、すべての人は律法の行いによるのではなく、救い主キリストを信じる信仰によって救われるという「信仰義認」を説きます(2・15~21)。

  パウロはユダヤ人の父祖アブラハムを諸民族の「祝福の源」として神が選んだのは、神は初めから罪人を信仰によって義と認める計画を立てていたからだと説きます。神がユダヤ人にモーセを通して律法を授けたのは、アブラハムから430年後のことであり、それは人が律法を行おうとして罪の意識と自覚を与えるためであり、キリストの救いに導く養育係りの役目を果たすためである(3章6~25)。

  罪の支配されている人間は、神の律法を完全に守ることができません。(律法はキリストが山上の説教で教えたように、罪ある人間にとっては実行不可能な戒律です。)罪人が聖なる神との交わりを回復する救いの道は、キリストの十字架の死によるあがないと、罪と死に勝利した復活による救いを信じることによって開かれる。キリストを信じて神との交わりを回復した者は、神の子とされ、御子キリストの聖霊を受ける。人を律法の呪いから贖い出して、信じる者に御霊を与えて、神との生ける交わりのうちに歩む新しい生活へと導く入れることが出来るのは、十字架と復活のキリスト、この福音のみである。人はキリストを信じる信仰によってのみ、神によって義と認められ、神の子として受け入れられ聖なる神との交わるにあずかることが出来るのである。このようにパウロは福音について教え、説いたのです。

  パウロの反対者たちは、パウロの福音は律法の行いを無視し、無律法主義の危険を招くと批判しました。このような非難や疑問に答えたのがガラテヤの手紙5章以下です。

   御霊が創造する新しいいのちは、人間生活を道徳的にする原動力となる。信仰によってキリストに結ばれているとき、その人は御霊によって歩み、肉の欲望に打ち勝つ力を与えられ、御霊の実を結ぶ生活に導かれる(5・16~23)。それゆえ、キリスト者の自由は無律法主義の危険を克服し、愛をもって互いに仕え合う生活をすることによって、キリストの律法を全うするのです(5・13~14)。

  キリスト者の自由は、キリストと共に十字架につけられ、キリスト共に復活させられた者となり、キリストの御霊との親密な交わりのうちに歩むことにあります。肉の欲望と行いを聖霊の力をいただいて退け、霊の導きに従ってたゆまず善をを行い、愛の実践に励む信仰こそが大切なのです(5・25~6・10)。これがパウロの説いた福音に生きる者の生き方です。

   今日の6章11~18節は、手紙の結びの言葉です。

このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。

  当時の手紙は口述筆記です。パウロの語ったことを筆記者に書かせたのです(ローマ16・16)。筆記者による口述筆記は6章10節で終わり、手紙の結びはパウロが直筆で書くのです。他のパウロの書いた手紙では、結びは短い挨拶の言葉と祝祷だけパウロが親しみを込めて書いています(コリントの信徒への第一の手紙やテサロニケの信徒への第二の手紙参照)。だが、このガラテヤの信徒への手紙では、かなり長い結びの言葉になっています。<こんなに大きい字で、自分の手で書いています>と、通常の手紙には意外と思われる断り書きがあります。大きな字で書いたのは、パウロが眼病を患っていたからとする説がありますが、この強調は、重事を改めて、まとめて告げようとする意図がこめられたものと思われます。

 「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。

  いつわりの福音を伝える敵対者たちを思い起させ、<肉において恰好よくみなされたい>と願って、あなたがたに割礼を強いるのは、ユダヤ教徒から背教者として迫害されることを恐れ、身の安全を守ろうとする自分たちのためを思ってのこと以外のなにものでもない。パウロは彼らの魂胆を暴いてみせます。<キリストの十字架>が原因である迫害を逃れようとすることは、パウロにとって福音の否定することであり、彼らの立場には同情の余地がありません。

 「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。

    彼らの考えと行動のあざむきを暴いたパウロは、今度はその矛盾を皮肉な調子で指摘します。あなたがたに割礼を望む彼らの意図は、<あなたがたの肉について誇るためであり>、それはユダヤ教徒の迫害を免れさせることになうからです。割礼を受けている彼ら自身は、実は律法を守ってはいないのですから、割礼を勧めるの彼ら身の動機はまったくの自己満足と形式主義に過ぎないのです。

 「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

  パウロは彼らの誇りについて語ったので、今度は自分自身の誇りについて高らかに宣言します。その誇りとは、<主イエス・キリストの十字架>以外に<誇るものが決してあってはなりません>という断固とした調子で宣言しています。

 「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

  ここで言われている<世>とは、<律法>を生きるよりどころとするような人間の生の現実を表しているとみなされます。わたしと世とは互いに相手に対して十字架にはりつけにされている、つまり縁もゆかりもなくなってしまっているのです。

  「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されされることです。

  キリスト者の実存が、ではなくキリストをこそよりどころとするものであることが強調されています。<古い人>から<新しい人>への転換は、洗礼によって実現されるのですが、<新しく創造されること>とは、キリスト者がキリスト者であること、またそれにふさわしく生きることです。

 パウロはコリントの信徒への手紙二の5章17節で「キリトと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と述べています。

  こうしてキリストを通して始められた新しい創造の御業に与ることこそが、救いにとって重要な事柄なのです。

  「このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

  パウロは当時の書簡形式に従って終わりの挨拶に移ります。<平和と憐れみ>を、神とキリストに願い求める祝福が述べられています。<このような原理>とは、「キリストの十字架」と「新しい創造」のことです。すなわち、キリストを実存のよりどころとするキリスト者のことです。<神のイスラエル>は、<肉によるイスラエル>との対比が意識された表現です。真の意味で{アブラハムの子・イスラエルの民となっているキリスト者を指しています。

  「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。

   <煩わす>とは、言うまでもなく、ユダヤ人キリスト者の<偽りの福音>に惑わされて、パウロの伝えた<真の福音>から離れ、偽りの神々に仕えるかつての「奴隷状態」へ逆戻りの道を歩むことであり、パウロの心を痛ませ、悩ませ、そしてこのような手紙を書かせることです。<焼き印>は奴隷が主人の所有物であることを表す入れ墨のようなしるしですが、パウロはこの語を用いることによって、自分が「主であるキリスト」に仕える奴隷となっており、またその保護下にあることを示そうとします。同時に、この「焼き印」は彼が宣教中キリストのゆえに被った迫害の傷痕であり、それもキリストの受難に参与する証しとして理解された傷痕を意味すると考えらえます。これはイエスに仕える真の使徒であるという主張に他なりません。

  「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

   パウロの手紙の末尾の祝福です。<兄弟たち>と呼びかけ、祝福が<あなたがた>に向けられています。祝福の語として、イエス・キリストから、したがって神から与えらえる恵み」があるように祈られています。<アーメン>は、アラム・ヘブライ語の音訳で、「まことに、確かに(そうであるるように)の意味があり、祈りの末尾に添えられるものです。

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