富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

キリスト者の走るべき道のりとは」 テモテへの手紙二、4章7~8節

2018-06-25 00:09:06 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  聖霊降臨節第6主日  2018年6月24日(日)   午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 佐藤 洋子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ わが心)

交読詩編   33(主に従う人よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳) テモテへの手紙二、4章7~8節(p.394)

説  教    「キリスト者の走るべき道のりとは」

祈 祷                鈴木 博牧師

讃美歌(21) 528(あなたの道を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                  次週礼拝 7月1日(日) 午後5時~5時50分

                                   聖書 ガラテヤの信徒への手紙、5章2~11節

                                 説教題 「愛の実践を伴う信仰」

                                 讃美歌(21) 141 394 24 交読詩編52篇

      本日の聖書 テモテへの手紙二、4章7~8節     

 4:7わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 4:8今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

               本日の説教

  パウロは7節で「立派に戦い抜き、走りとおし、守りぬきました」と言います。このことは、私たちのパウロに対する「評価」と一致します。パウロ無しでは、キリスト教は存在しなかったとさえ言われます。「功成り名を遂げた」パウロです。

 しかし、パウロの生涯は、彼が言う「難破や鞭打ち」などの困難があったどころではなく、結果的に失敗でした。歴史的に言えば、パウロの開拓した教会は、決してその当時のキリスト教会の中心的なものではありませんでした。そして、パウロも、ペトロも、主の兄弟ヤコブも紀元70年半ばに死んでしまったのでした。そして、70年にはエルサレムが破壊されてしまいます。

 しかし、不思議なことにキリスト教は、その後も発展していきます。それはまさに、パウロの残した「福音」という遺産によるものでした。

 では、パウロ自身は、その志半ばで終わった歩みを、なぜ「戦い抜き、走りとおし、守り抜き」というように、過去形で言うことが出来たのでしょうか。これは、「神の視点」、または「信仰の視点」からではないでしょうか。

 「自分の働きやその結果が、どんなに小さくても、神のご計画の一部であるという自覚は、信仰により、「すでになった達成感」を感じさせるものなのかも知れません。でも、私たちはその視点を確かなものとして持っているでしょうか。それは、なかなか難しいこおです。

 実際には、今を生きる私たちは、本当に先の分からない人生を歩んでいます。息子が反抗期のころ、ゲームばかりしていたので、将来に備えて何か別ことをやったらいいよ」と言ったら、「将来のことなんか分かるものか!」と逆に言われたことがありました。確かに一理ありますが、私たちの人生では、分からないなりに、将来のために備える必要があるはずです。はっきり言えば、私たちは「分からないこと」のために日々一生懸命生きているのではないでしょうか。

 そんな時、指針としての「神のご計画」が分かれば、どんなに楽でしょう。しかし、ことはそんなに簡単ではありません。

 太宰治の「ヴィヨンの妻」という小説の中で、主人公である妻が、夫の不貞ふゃ放蕩に悩まされるなか、ふと小さな平穏な時が与えられたとき、「神様はいるんでしょうか?」夫にいいます。夫が「いるんでしょうね~。」と答えると、さらに「神様がいるなら、出てきてください」と言います。

 パウロの生涯も、本当は、そんなことを言いたくなる連続だったに違いありません。私たしも、そう言いたくなる時が何度あることでしょうか。

 実際、神様の「決められた道」というのも、なかなかはっきりしません。そんな時は、信仰においても、はっきりしたものが欲しいということになります。聖書では「しるし」とも言われます。しかし「しるしを求める」信仰は不信仰として描かれています。

 確かなことは「私たちが救われている」ということです。パウロの言う「福音」です。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされているのです」(ロマ3:24)

 これだけでいいのです。パウロは言います。「人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。」

 とすれば、第二テモテのパウロの言葉は、自分が成し遂げたことの誇りではなく、勧めということになるでしょう。8節の最後に「だれにでも授けてくださいます。」とあるように。

 「決められた道のり」とも言える信仰生活でお、「分かること」と「分からないこと」があることを、認めましょう。「分かること」が私たちと神様の関係を決定します。この「分かること」が「福音」です。これこそが、分からないことだらけ人生を導いてくれます。パウロの言葉は、成功者としての言葉であるよりも、それを分かち合う勧めであったのですから。

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