際限なき時代に巣食う「心の過労」

2010年04月14日 15時22分29秒 | Weblog
AERA4月12日(月) 12時57分配信 / 国内 - 社会
──じっくり、心を込めて、仕事をすることが難しくなっている。
効率的に、極限の仕事量をさばくのが日常となりつつある。
あるコラムをきっかけに、いま働く人たちが抱える心の問題を巡った。──

 雨の月曜日は普段にも増してイライラ感が募っている。
 湿気が充満した満員電車の車内。乗客は下を向き携帯電話をいじっている。急ブレーキがかかり傘が隣の人に倒れかかる。舌打ちするだけで謝らない。
 改札の外には、宣伝文句をがなり立てながらビラを配る人。傘を広げようとするサラリーマンは、ビラに目もくれず迷惑そうに過ぎていく。落ちたビラが雨に濡れてぐちゃぐちゃに踏みつけられている。誰も自分以外のことには関心がない。
「剥がしても剥がしても張りついてくる薄い寂しさのようなものを、私たちは今抱えている気がする」
 一橋大教授で精神科医でもある宮地尚子さんは、3月17日の朝日新聞夕刊にこんなコラムを寄せた。読んで心が激しく共振した。殺伐とした砂漠のような社会で働く、一人の労働者として。

■尊厳守る最低ライン

「デフレで物の値段が下がる。物を作り、運び、売る人たちの価値が値切られる」
「肉体は動きを止めれば休養できるが、頭や心は職場を出てもすぐにスイッチを切れない」
「不安の時代」と言われるが、宮地さんは「不安」ではなく、「寂しさ」と書いた。いま労働者が直面する日常の救いようのなさは、寂しいという感情になってまとわりつく。
 最近私が取材した、従業員80人ほどの印刷会社で働く男性(31)は、こんなことをボソリとつぶやいた。
「際限がなくなっている気がするんですよね。これまで安心や安全やクオリティーのために、暗黙の了解で守られてきた一線が破られていく感じがします」
 昨年末に取引先から、「印刷代20%カット」を要求された。どんな不況期でも、「1メートル当たり1.6円」を死守してきた。それは「労働者の尊厳を守る最低線」でもあった。デフレや不況の前にはその最低ラインさえ存在しないかのような、値切り交渉を持ちかけられる。
 一方でここ数年、品質への要求水準がどんどん高まっている。目を凝らさなければ気づかない印刷のズレ、ごくわずかな発色の違い、本質的な機能には関係ない微細な部分まで完璧を求められ、その分仕事は増えていく。少しでも基準からずれれば、作り直しを命じられ、納期前は終電帰りの日が続く。「労働量の際限のなさ」を感じる。
 そんな究極の状態で、彼はあるとき年上のベテラン作業員が連発した単純ミスに、苛立ちに任せて怒鳴ってしまった。
「なんでこんなこともできないんだよ」
 ぶちまけたらスッキリするどころか、なぜあんな言い方になったのか、家に帰っても自問自答した。タイミングを見計らって、失礼な態度を謝った。
 胃炎、過敏性大腸症。体調を崩して病院に行くと、原因はストレスと診断されたという。
 穏やかな口調で話す大手メーカー勤務の女性(32)も、同じような経験を口にした。ある時、職場で自分が発した大声に驚いたことがあるという。
「そんなこと言ったってしょうがないでしょ」
 クライアントから急遽、変更要求が入ったからやり直してほしいと、上司から指示された。チームのメンバーは彼女だけが正社員で、ほかはほぼ年上の派遣や契約社員。彼女は気を使いながら、言葉を丁寧に選び、メンバーにやり直しを伝えた。だがメンバーからは、なんで余計な仕事をしなくちゃならないの?と、文句がこぼれた。どうにもならず、叫ぶしかなかったのだ。
「イライラしてすみません」
 次の日、彼女は饅頭を配って謝った。
 矛盾する要求の板挟み、終電まで働いてもさばききれない仕事量、いびつな社員構成……。職場で心を蝕むものを挙げればキリがない。でも誰も責めることはできない。理不尽な指示を出す上司だってパンパンだし、派遣社員たちにだって言い分があるのはわかっている。
 宮地さんのコラムには、こう書いてある。
「優秀だからこそ『よい人』でありたいと思う人も多いが、人の痛みへの共感は、自分をも傷つけかねない」

■善意や思いやりが凶器

 今の職場では、善意や思いやりさえも自分への凶器となって跳ね返る。気を使い、心を砕くことよりも、悩みもしないで効率的にこなすことの方が賢いとされてしまう。
「一番ひずみがたまっている現場かもしれません」
 そう言って、話を聞かせてくれたのは神奈川県の公立小で教員をする女性(34)。
 個々の児童に合わせた教育が求められ、会議や報告書の作成量が以前に比べ格段に増えた。親からは、クラス運営やクラス替えのメンバーについて細かい要求が入る。かつては「ちょっと個性的でやんちゃ」だった子どもに、病名が付けられ特別対応を迫られる。
 もともとは、子どもたちのために少しでもよい教育をしたいという学校や親たちの思いだ。でも、それは教師という個人のキャパシティーを超え、本末転倒な結果を生む。子どもから、
「先生、話があるんだけど」
 と言われても、忙しさのあまり後回しにしてしまったことがある。新人の教員たちの相談にもゆっくり耳を傾けたいが、余裕はない。
 そのひずみは彼女自身の子育てにものしかかる。今7歳の娘がアトピーやぜんそくに苦しんだ時期があった。病院でお母さんの忙しさが原因では、と言われた。どうしようもなかった。
 後輩の女性教員たちからは、
「そんなふうに仕事も子育てもするなんて絶対ムリ」
 と言われる。ここまで必死に働いて、後輩から目指されない存在でしかないって、何なんだろうと感じる。

■ゆっくり味わいたい

 確かなのは、そんなふうに働くことや生きることを誰も望んでいないということだ。それなのに、殺伐とした日常に私たちは搦めとられている。
 どうしたら抜け出せるのか、手がかりを教えてもらいたくて、宮地さんに会いに行った。
「私も答えを持ち合わせていません」
 宮地さんはそう前置きし、自分自身もストップできない日常に巻き込まれていると語った。ただ、ほんのちょっとした意識の大事さを教えてくれた。
「目には見えないけれど、脳や心にもキリがあることを意識すること。だれも万能ではないのだから、疲れたら少しでいいから肩から荷をおろすこと。『できる人』と自他ともに認める人やトップに立つ人ほど、『できない』と言う勇気をもつこと。みんなが少しずつ降りることを実践すること。そんなことしかないんじゃないでしょうか」
 小さなことから始めてみる。メールを見ない時間を作る。返信が少しぐらい遅れても割り切る。電車の中でまで寸暇を惜しんで情報をかき集めたり勉強したりしない。待つ時間や何もしない時間の豊かさを感じる……。そんなことで「心の過労」は少しずつ癒されていくのではないだろうか。
 前出の印刷会社で働く男性は、意識的に歩くことを心がけた。歩くために、少し早めに仕事を切り上げるようになった。歩く間は自然と頭が切り替わる。心が随分解放されたという。
 宮地さんの近著『傷を愛せるか』にはこんな一節がある。
「味わいたい。ゆっくり味わいたい。そう心が叫ぶ」
 忙しさから逃れてたどりつきたい境地は、丁寧に、心を込めて、ただ仕事を味わうことだ。
編集部 木村恵子
(4月19日号)

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100419-00000001-aera-soci

父は毎日決まった時間に帰宅していたが、今の父親たちは夜遅くなることが多いのだと思う。

これって家族のキズナが薄くなる原因にもなるのだろう。

本当に仕事=修行になっている現在はつらい。
だが、目の前に仕事を丹念にやるしかない。