ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



地方の農村って、若者は都会に出て行って、なんだか沈滞してるよね。どうすればいいのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『政治の理想について──幸福実現党宣言②』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 若者がいなくなった村や町には魅力がありません。おそらく、農業の振興だけではなく、いろいろな、文化的なものの再構築も併せて、村おこしをしないかぎり、農村は再活性化していかないだろうと思います。
 私たちは、宗教をバックボーンにして、政治に進出を果たそうとしていますが、農村の再活性化における、宗教の持つ機能には、非常に大きいものがあると思います。
 人間にとって、つらいことは、「お金をくれない」「補助金がない」「病院に入れてもらえない」ということだけではありません。人間間のネットワークがなくなり、コミュニケーションがとれなくなることが、非常につらいことなのです。
 したがって、政治の一方の側面として、宗教などが人間間のネットワークを強くし、お互いに助け合うカルチャーを地域に根づかせていくことが、非常に大事です。過疎地(かそち)、あるいは、所得が低い世界に住んでいる人たちにとっては、助け合いのカルチャーを強くつくっていくこと、そういうコミュニケーションを強化していくことが、非常に大事であろうと思います。
 宗教は一つの大きな「人のネットワーク」です。このネットワークのなかには、あらゆる産業、業種の人々が参加しています。
 そのため、いざというときには、国家という、上から来る垂直権力、つまり、法律や行政命令等で物事を動かせる垂直権力とは違った意味での「水平権力」として、お互いの出身や業種、立場などを超えて助け合えるネットワークをつくれると思っています。宗教と政治の両者が補い合わないと、弱者の救済は十分には成り立たないと思います。
 決して、お金をばらまくだけでよいわけではありませんし、年を取ったら病院などに入院させればよいわけでもありません。
 例えば、当会は全国各地で伝道活動に取り組んでいますが、お年寄りにとっては、毎週、話をしに来てくれる人、自宅に月刊誌を届けに来てくれる人、いつも安否を気遣ってくれる人など、話し相手がいて、いざというときには電話をかける先があること、そうした信者が近所にいることは、とてもありがたいことでしょう。
 こういうネットワークは、いわゆるNPO(非営利団体)に相当するのかもしれませんが、宗教は、垂直権力の発想では対応が難しい面をカバーする力を持っているのです。
 したがって、私は、垂直権力と、水平権力とでも言うべき「横のネットワーク部分」とがかみ合わさって初めて、理想的な社会、理想的な国家が成り立つのではないかと考えます。
 人と人との優しい「結びつき」や「助け合い」の部分なしに、すべてを国家の予算だけで片付けようとするのは無理でしょう。「何か不都合なことがあれば、補助金を増やしましょう。病院を増やしましょう」などという対応だけでは不十分であり、やはり、その根底には、「人間同士の助け合い」というものが流れていなければいけないと思います。
(141~144ページ)

農村の再活性化における宗教の持つ機能には、非常に大きいものがある。

あらゆる産業、業種の人々が参加している宗教が、人間間のネットワークを強くし、お互いに助け合うカルチャーを地域に根づかせていくことが、非常に大事である。

国家という、上から来る垂直権力と、水平権力とでも言うべき宗教による「横のネットワーク部分」とがかみ合わさって初めて、理想的な社会、理想的な国家が成り立つ──。

今日は、「農村の再活性化」を題材にとって、ちょっとむずかしい言葉ですが、「水平権力」としての宗教の役割を、改めて教えていただきました。

本書が刊行されてから、もう10年の時間が経過しているんですが、まったく色あせない新鮮なお教えだとと私は思っているのです。

 

政治の理想について 幸福実現党宣言2 (OR books) 『政治の理想について──幸福実現党宣言②』

 大川隆法著

 

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あんなに善人なのに、どうして不幸な人生を送ってるの。腹黒いあの悪人のほうは、どうしてあんなに出世してるのよ。神とか仏なんていって、やっぱりほんとはいないんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 みなさんが、きょう何をするかによって、みなさんの人生は変わり、みなさんのまわりの人の人生も変わります。そして、それによって、世界が部分的に変わっていきます。さらには、みなさんが重要な立場に立てば、みなさんの下した判断によって、会社、あるいは社会や国家、世界の方向が変わることさえあります。
 このように、未来というものは選択の積み重ねの結果なのです。この重要性を深く認識する必要があります。
 仏は、心の自由性と、原因・結果の「縁起の理法」を人間に与えました。心の自由性には、その反面として、必ず責任が伴います。したがって、人間は、自分がなした原因行為による結果については、甘んじて受けなくてはいけません。それは覚悟すべきです。
 原因に対する結果は、この世においても来ますし、また、この世で縁起が完結しない場合には、この世を超えた世界において、それは必ず完結します。
 この世においては、「努力しても報われなかった」ということもあるでしょう。その一方で、「努力しなかったのに非常に成功した」という人もいるかもしれません。それだけを見ると、非常に不公平であり、原因・結果の時間縁起が必ずしも働いていないようにも思えます。(中略)
 この世において、善人が不幸な死に方をすることもあります。しかし、それは、ほんとうの意味での不幸ではありません。そういう人は天上界において必ず報いられることになっているのです。
 この世において、悪人が栄えるように見えることもあります。しかし、その繁栄は永遠のものではありません。それは必ず、大きな執着となって、来世の苦しみを生むことになるのです。
 そのように、この世においては、必ずしも「善因善果、悪因悪果」になっておらず、その正反対に見えるようなことがあります。仏教では、これを「異熟」といい、その結果のことを「異熟果」といいます。
 それはいろいろな場面で見られると思いますが、そのような現象が起きるということ自体が、実は、縁起の理法がこの世で完結せず、来世まで行って初めて完結するということを意味しているのです。
 いま述べたことは、人生の終わりについての話ですが、人生の始まりについても同じことが言えます。
 「人間はみな仏子であり、平等である」と言っても、生まれにおいて違いがあります。(中略)人間には違いがあり、人間は必ずしも平等ではありません。
 これも、現時点だけを見れば、「平等ではない。公平ではない」と思えるのですが、実は、過去世からの転生輪廻の結果が、ずっとつながってきているのです。今世だけで考えると理解できず、説明がつかないものについては、その前の時代から原因行為が始まっていると考えるべきなのです。
(267~271ページ)

仏は、心の自由性と、原因・結果の「縁起の理法」を人間に与えた。だから、未来はその自由性に基づく選択の積み重ねの結果である。

この世において原因に対する結果の「縁起の理法」が完結しない場合には、この世を超えたあの世において、必ず完結することになっている。

そして、人間が生まれにおいて違いがあるのは、じつは過去世からの転生輪廻の結果なのである──。

仏教において、もっとも中心的な教えの一つである「縁起の理法」については、その重要性を考えて繰り返しご紹介してきました。

今日は、また別の角度からのお教えですが、ここで説かれたのもまた一つの悟りでもあるのだと思います。

要は、今世のみならず、前世から来世までを見とおす眼でみることができたときに初めて、「縁起の理法」のほんとうの意味を知ることができる。

大川隆法先生は、そう教えて下さっているのではないかと私は思っているのです。

大悟の法―常に仏陀と共に歩め (OR books) 『大悟の法』

 大川隆法著

 

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病気になっちゃったよ。どうやったら、健康を復活させることができるのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『超・絶対健康法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 医者の言うことをあまりまともに受け止めると、暗示にかかって、さらに悪くなることがあるので、ある程度、割り引いて聞いたほうがよいでしょう。また、「医者の予想に反して回復する」ということも数多くあるので、回復する可能性を信じたほうがよいと思います。
 健康になるためには、積極的で明るい想念を持って生きることが非常に大事なのです。
 全体的に、健康の復活のためのキーワードを考えてみると、それは「反省」「感謝」「精進」「祈り」の四つになると思います。

 まず、「反省」によって、
 霊体のなかにある悪想念の部分を除去することが大事です。
 反省によって仏の光を入れることです。
    ◇
 次は「感謝」です。
 病人には、たいてい感謝の心がありません。
 不平不満や愚痴は出ますが、感謝の思いは出ないことが多いのです。
 したがって、病気になりたくなければ、
 いろいろな人に感謝をすることが大事です。
 現に病気になっている場合には、
 周りの看護師や家族などに対する感謝を心がけてください。
 そうすると病気は良くなります。
 他人を責める心があると病気は良くなりません。
 病気は、本人に、反省を促したり、
 家族のありがたみを教えたりする機会でもあります。
 反省や感謝を教えるための修行の機会でもあるわけです。
    ◇
 それから、「精進」です。
 食事や運動など、体のコントロールの大切さについても述べましたが、
 「医学知識も勉強しながら、自分の健康を維持していこう」
 という精進の心が不可欠です。
    ◇
 最後は「祈り」です。
 「良くなりたい」という気持ちを持ち、
 自分の人生全体を設計することです。
 「自分としては、こういう人生にしたい。このくらいの年齢までは、
 元気に現役で働きたい。その後も、このようにして家族と暮らしたい」
 という人生設計を、繰り返し繰り返し、心のなかに思い描くことです。
 毎日、自分の健康生活について設計し、祈ることによって、
 次第しだいに、生活や考え方、行動など、いろいろなものが、
 それに合致したものになっていきます。

 この「反省」「感謝」「精進」「祈り」という四つの言葉を、健康を復活させるためのキーワードにしてください。
(144~149ページ)

今日のお教えには、宗教的に病を癒し、健康を復活させるためのエッセンスが、とても簡潔に説かれているのではないでしょうか。

この大川隆法先生のお教えで、一人でも多くの方が、健康を復活されますように!

 

超・絶対健康法 (OR books) 『超・絶対健康法』

 大川隆法著

 

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レプタリアンって呼ばれる宇宙人が、実際にいるんでしょ。爬虫類みたいな、けっこう怖いタイプの宇宙人なんだってね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊の『レプタリアンの逆襲Ⅰ・Ⅱ』(幸福の科学出版)のまえがきで、こう教えておられます。

 以前から地球には、宇宙からの来訪者がいるということ、その中には「レプタリアン」と分類される爬虫類類似の獰猛な種族がいて、危険性があることなどが、いろんな研究者によって伝えられていた。また現在、宇宙人からの通信と称するスピリチュアル・メッセージも欧米や日本にも出回っている。玉石混交の内容だろう。
 私も仕事の一ジャンルとして宇宙人ものを出し続けているが、本書『レプタリアンの逆襲』の一巻と二巻は、「宇宙人リーディング」という新しい秘術によって知りえた事実、とりわけ「レプタリアン」と称されているものを中心にまとめたものである。「逆襲」とは、『先入観』に対する『反論』ぐらいの意味で用いた言葉である。著者も寡聞にして、これほど詳細かつ、宏大無辺な宇宙人リーディングの存在は知らない。超能力による宇宙人の生態研究の先駆けとなれば幸いである。
(1~2ページ)

レプタリアンについては、一度、ご紹介しました。

大川隆法先生によって公開収録された「宇宙人リーディング」が活字に起こされた、この2冊、いや、まさに驚くべき話の連続です。

レプタリアンの真実に興味がある人はもちろん、宇宙人の話題に興味がある人にとって、どちらも、必読文献だと私は思っているのです。

レプタリアンの逆襲 I (OR books) 『レプタリアンの逆襲Ⅰ』

 大川隆法著

 

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「選択」するって、そう簡単じゃないと思うんだけど、指導者になると、この選択って、個人の場合と違った判断が出てきたりするのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 情だけでいくと、なかなか割り切りがたい部分はありますが、パートナーを組む場合には、最終的に勝利する相手と組まないと、敗れることになるのです。
 第二次世界大戦での日本の敗戦も、「負ける国と組んだから負けた」と言えば、それまでのことです。(中略)その当時、政治的、外交的な目で見て、明確に、「ドイツと組んでアメリカと戦っても、勝てるはずがない」という見方をしている人がいたならば、敗戦は避けられたのです。「ドイツと組めば勝てるのではないか」と思ったから戦争をしたのであり、負けることがはっきりしていれば、戦争はしなかったはずです。(中略)
 湾岸戦争では、アメリカと、サダム・フセインのイラクとが戦いましたが、双方に言い分はあり、主張だけを見れば、アメリカ側の圧倒的正義とも言えない面もありました。それはイラク側についても同じです。
 アメリカ側から言えば、「クウェートの解放」という大義名分はありましたが、クウェートがそれほど立派な国であったかといえば、そうでもありません。ごく少数の王族が、富のほとんど、九十数パーセントを支配しているような国であり、民主主義国家から見れば、まさしく敵と目すべき国、つぶさなければいけないような国だったのです。(中略)
 ただ、よその国を勝手に侵略するようなことを許したならば、何度も同じようなことが起きるので、アメリカは、「国際ルール違反は許さない」という大義のほうを優先させ、それに基づいて戦ったわけです。
 一方、イラクのほうから言えば、クウェートというのは、そういう悪い国でもあるし、また、「地下からイラクの石油を奪っている」ということになるのです。それはそのとおりでしょう。(中略)
 「国同士で調整がうまくついていなかった」と言えばそれまでの話ですが、イラクにもいろいろと言い分はあったのです。
 こういう場合に、日本はどちらに味方すべきかというと、やはり、負けるほうに味方してはいけないのであって、最終的に勝つほうに味方しなければいけません。負けるほうに味方した場合には、次は日本が“いじめ”を受けることになります。「アメリカ側が勝つ」と思えば、アメリカと組むべきなのです。それが国家の指導者として当然の選択です。
 善悪というものは、いろいろあるのです。さまざまな考え方や価値観のなかで、どこにポイントを置くかによって、それぞれ言い分はあります。国のレベルでも、会社のレベルでも、個人のレベルでも、いさかいが起きるときに、両者に言い分がないなどということはありえません。「片方は完全な善で、もう片方は完全な悪である」などということはないのです。
 最終的には、指導者の立場に立つ者は、多くの人々を不幸にするような選択をしてはいけません。感情的なものや現在の価値観だけで判断してはならず、将来を見通して、「将来において国民が存続できる行き方は何なのか」という観点から判断をしなければならないのです。
(120~125ページ)

善悪というのは、さまざまな価値観のどこにポイントを置くかによって違ってくる。いさかいが起きるときに、片方が完全な善でもう片方が完全な悪などということはない。

指導者の立場に立つ者は、多くの人々を不幸にするような選択をしてはならない。

感情や現在の価値観だけで判断するのではなく、将来を見通して、国民が存続できる行き方は何なのかという観点から判断しなければならない──。

個人であれば、自分の選択の結果としての責任をとるのは自分ですから、感情や好き嫌いで選択することも、あってもいいでありましょう。

しかし、いったん「指導者」となった場合には、数多くの人々の幸不幸に直結する責任が生じるだけに、そんな安易な選択は許されないというのが、今日のお教えだと思います。

本書は、もう19年も前に刊行された書籍です。

でも、今の国際政治の情況にもあてはまる、まさに普遍的なお教えではないかと私は思っているのです。

常勝の法―人生の勝負に勝つ成功法則 (OR books)

『常勝の法』

  大川隆法著

 

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さわやかに生きるってことを、前に教えてもらったよ。そこのところ、もう少し詳しく教えてもらえないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 『幸福への道標』では、さわやかに生きていると言えるための条件として、まず、「潔さ」ということを挙げています。
 現代では、潔い人をあまり見かけなくなりました。弁解や言い訳が多くて、なかなか反省ができず、非常に理屈っぽくなっているのが現代人の特徴です。学校の勉強や、社会に出てから経験することの影響もあるのでしょうが、現代人には言い訳をする癖があります。知恵がつくと、いろいろと理由をつけたがる傾向が生じてきて、心の素直さを失っていく面もあるのです。
 したがって、「自分は、弁解や言い訳をする傾向が少し強くなってきた」と感じたときには、潔さということを思い出してください。
 人間には失敗が付き物ですが、失敗したとき、それを潔く認めることは、魂が前進するための方法です。失敗したときに潔さがないと、次のステップに、なかなか踏み出せないのです。
 潔さを言う人は、現代では、ほとんどいなくなりました。そういうことを言うのは「忠臣蔵」の時代あたりが最後であって、現代人は言わなくなっていると思います。
 しかし、「潔い」という言葉の意味を心に刻んでおくだけでも大事なのです。(中略)
 次には、「多くの人たちに分け与えて、見返りを求めない態度」を挙げてあります。
 こういう人は、ほんとうに少なく、百人に一人もいませんが、よく目を凝らして見ると、やはりいることはいるのです。
 したがって、そういう人間になろうと思うことが出発点です。
 朝、「おはようございます」と言って、人々の胸に花をサッと差し込んで、スーッと通り過ぎていくような人格を目指すことです。
 いつも心掛けていると、やがて、風のように自然に通り過ぎていける性格になることができます。ぜひ努力してみてください。
(238~241ページ)

さわやかに生きるための条件の第一は、「潔さ」であり、この言葉を心に刻んでおくことが、大事である。

条件の第二は、多くの人たちに分け与えて見返りを求めない態度であり、まずはそういう人間になろうと思うことが、出発点である。

いつも心掛けていると、やがて風のように自然に通り過ぎていく性格になることができる──。

そして、その先の条件は? というお話は、また次の機会に!

感化力―スキルの先にあるリーダーシップ (OR books) 『感化力』

大川隆法著

 

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地獄って、なんであるのよ。神さま、仏さまがほんとにいるのなら、なんで地獄をなくしてしまわないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊的世界のほんとうの話。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 地獄というものは、ある意味では罰なのですが、別の意味においては病院なのです。地獄霊は、まさしく病人と同じです。
 「地獄をなくせばよい」という考えは、例えば、「病人をなくせばよい」という考えと同じなのです。これは、「爆弾を落として病院を粉砕すれば、病人がいなくなるかどうか」ということです。あるいは、「病人は特別な生き物だから、地上に置いていてはいけないと考えるかどうか」ということです。
 病人というものは、もともとはいないのです。もともとは健康な人間しかいないのですが、不養生をするなど、何か原因があって病気になっているのです。しかし、「病人であっても、やがて治れば健康人に戻る。本来の実相は健康人である」と仏は考えているわけです。
 あなただって病気をするかもしれません。そのときに、すぐ抹殺されたら困るでしょう。本来は健康なのに、病人になったからといって、「おまえは病院行きになった。病院に入った人は、もう役に立たないから、殺してしまう」と言われたら、困るでしょう。
 したがって、「地獄は、ある意味では罰でもあるが、病院でもある」という寛容の目で見てあげる必要があります。
 あなただって地獄へ行く可能性はあるのです。地獄へ行ったとき、魂を消されたいかどうかを、よく考えてみると、たとえ五百年かかっても、反省して生き延びたいでしょう。
 地獄霊は病人と同じだと考えてみてください。
 本来の姿ではないけれども、運動不足や過食、仕事のしすぎなどで病気になることはあります。そのときに、その人を消してしまってよいと言えるかどうか、その人は存在が許されないかどうか、それを考えれば、「仏は、そうとう長い間、待っている、慈悲深い方だ」ということが分かるのです。
(185~187ページ)

地獄とは、ある意味では罰であるが、別の意味においては病院である。

地獄霊とは、病人と同じである。

病人であっても、本来の実相は健康人であって、やがて治れば健康人に戻ると、仏は慈悲深く考えておられる──。

なんとありがたい世界なんでしょう。

地獄霊が健康な魂に戻るのを、寛容に待ってくださっている。

地獄をも、その御手で支えてくださっている。

それこそが、御仏の慈悲である。

なんてありがたいことかと改めてしみじみと私は感じているのです。

 

霊的世界のほんとうの話。―スピリチュアル幸福生活 (OR books) 『霊的世界のほんとうの話。』

 大川隆法著

 

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マルクス経済学って、一世を風靡したけど、21世紀の今の目で見て、正しかったのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『アダム・スミス霊言による「新・国富論」』(幸福の科学出版)で、「経済学の父」として有名なアダム・スミスの霊の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

 マルクスの考え方のなかには、自分自身を「弱者」と捉え、世の中の弱者に対する共感の部分はあったと思います。そういう、本来、宗教が持っているような部分はあっただろうとは思いますね。
 けれども、現実の政治経済の運営においては、合理性が必要とされるがゆえに、宗教的な慰めの世界とは少し違ったものがあるんです。そのため、弱肉強食の厳しい市場原理のように見える面もあるけれども、やはり、そのなかで智慧が磨かれていることは間違いないですね。(中略)
 実に厳しいけれども、自分の仕事の適正な判断というか、「自分がいい仕事をしているかどうか」の判断は、本当は自分自身でできるものではなく、やはり、マーケットの評価、お客さまの総合的評価によって決まるものなんです。(中略)
 今、日本の国の経済運営という面で政府の仕事を見ると、やはり、そのなかにいる人たちに、マルクス経済学的な考え方がそうとう入っていると思われます。
 だから、お金がなくても、ばら撒くようなことを平気でしますよね。(中略)
 マルクス主義のなかには、やはり、「利益を出すことは悪である」という考え方が入っているんですよ。それは、マルクス自身が悪いんです。彼自身が、あまり儲けることができない人たちに共感するのはいいとしても、だからといって、「儲けているやつらは、みな、人を踏み台にして利益を絞り取った悪人ばかりだ」という考え方は間違っています。(中略)
 「人間に、あまりにも差がありすぎる」という批判は、当たっていないわけではないんだけれども、その逆に、「努力・精進し、あるいは、智慧を発揮して頑張っている人たちが、正当に評価されない世界というのが、どれほどつらいものであるか」ということも言えるわけですね。一生懸命に努力しても報われない世界というのは、これもまた地獄であるということです。(中略)
 レッセフェール(自由放任)の思想は、ただ自由に放任し、人々を堕落させることを目指しているわけではありません。自分にいちばん利害関係があるのは自分自身なので、やはり、自分自身を護り、伸ばしていくことに、人間は、生きがいを感じるものなのです。
 例えば、会社の社長であれば、会社を大きくすることに生きがいを感じます。それが、本来の経営のあり方です。そういう倫理が、レッセフェールの裏に入っているんですよ。だから、「倫理なき自由放任」ではないんです。「学業を放擲して、暴走族になる」というような自由放任ではないんです。
 そうではなくて、「神の見えざる手」と言っているように、一定の理念、要するに、「神の望まれる繁栄」というものがバックにあって、その上で、各人の創意工夫による自由性を担保するということなんです。
 現代にその思想を持ってきたらどうなるかといえば、「やはり、いろいろな、よろしくない規制、個人の創意工夫を止めるような規制を、できるだけ、はずしていくことが大事だ」という考えになっていくでしょうね。
(52~59ページ)

自分がいい仕事をしているかどうかの判断は、マーケットの評価、お客さまの総合的評価によって決まるものである。

マルクス主義のなかには、「利益を出すことは悪である」という考え方が入っているが、その考え方は間違っている。

レッセフェール(自由放任)の思想は、神の望まれる繁栄というものが背景にあって、その上で、各人の創意工夫による自由性を担保するということである──。

マルクス経済学に関する大川隆法先生のお教えは、以前に、ご紹介したことがありました。

今日は、著名な経済学者にして哲学者であるアダム・スミスの霊言ですが、まったく違和感なく読むことができるのは、とても不思議な感じです。

でも、それはすなわち、このアダム・スミス型の思想こそが、大川隆法先生のお考えでもあるからではないかと私は思っているのです。

アダム・スミス霊言による新国富論―同時収録鄧小平の霊言改革開放の真実 (OR books) 『アダム・スミス霊言による「新・国富論」』

 大川隆法著

 

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ねえ、人間、遺伝で病気になることがあるんでしょ。それって、どうしようもないのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福へのヒント』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 遺伝子は肉体の設計図のようなものです。子供は親から設計図を貰い、その設計図どおりに肉体ができ上がっていきます。
 ただ、最終的にどのような肉体ができ上がるかは、後天的な要素の影響が半分以上あります。(中略)
 これは車と運転手の関係にたとえることもできます。肉体が車で、魂が運転手です。(中略)車種によって車の性能は違いますが、性能の劣った車であっても、運転手の腕がよいと、運転の下手な人が性能のよい車に乗っているとき以上の成果をあげることは可能です。
 さらには、車の使い方や手入れの仕方のよし悪しによって、車が故障したり、しなかったりします。
 肉体の病気の場合も同じです。たとえ故障しやすい車であっても、充分に点検しながら乗れば、あまり故障しないで済むように、病気になりやすい遺伝子を持った肉体だったとしても、充分に気を付ければ、病気にならないこともあるのです。(中略)
 もっとも、気を付けただけでは逃れられないものもあります。なぜなら、遺伝子には、霊的なる理念というものが打ち込んであるからです。遺伝子のなかには、ある程度、その人の運命が入っているのです。
 普通ならば、誰しも長生きするのが望ましいでしょうが、それだけでは人生修行にならない場合もあって、子供時代に亡くなる人、若い時代に亡くなる人、中年で亡くなる人など、いろいろな年代で亡くなる人がいます。
 そういう運命がもともと設定されている人もいるのです。なぜなら、その人にとっては、その体験が何らかの魂修行になるからです。
 このような場合には、遺伝子のなかに、そういう霊的な刻印、運命の刻印があります。これはなかなか除けません。そのため、一定の年代になると、予定された病気になって死ぬことがあります。病気ではなく、事故の場合もあります。
 ただ、事情が変わるなどの理由によって、予定とはまったく違った人生を生きていくこともあります。たとえば、「仏法真理の勉強をした結果、それまでとは違って、指導霊による指導を受けるようになったため、予定が急に変わってしまう」という場合もあるのです。(中略)
 男女とも、三十歳ぐらいまでは、性格や体質などにおいて、かなり、生まれつきに影響されます。
 しかし、三十歳を過ぎると、遺伝など、親から受け継いだものによって決定される部分よりも、後天的な要素によって決定される部分のほうが大きくなります。これが一般的なケースです。
 そのため、三十歳を過ぎると、親子でもあまり似ていなくなったり、兄弟でもまったく違うようになったりします。(中略)これは、生まれてからのさまざまな経験によって、魂の本来の生地が出てくるからです。
(193~199ページ)

逃れられない運命が遺伝子に刻印されている場合は、いくら気を付けても、予定された病気や事故で死ぬことがある。

しかし、たとえ故障しやすい車でも、充分に点検して乗れば故障しないで済むように、病気になりやすい遺伝子を持った肉体という程度であれば、充分に気を付ければ、病気にならないですむこともある。

また、たとえば仏法真理に触れるなど、事情がまったく変わることで、遺伝子の予定とはまったく違った人生を生きていくこともある──。

なるほど、なるほど、です。

仏法真理からみれば、「遺伝子」が絶対なんてことはない。

遺伝子による病気に打ち勝つ方法は、ある。

このお教えは、人生に悩む私たちを励ましてくださる、まさに福音ではないかと私は思っているのです。

幸福へのヒント―光り輝く家庭をつくるには (OR books) 『幸福へのヒント』

 大川隆法著

 

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ドラッカーのマネジメントの思想って大事だって、よく聞くよね。そのドラッカーのマネジメントの思想って、簡単にいうと、どういうものなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ドラッカー霊言による「国家と経営」』(幸福の科学出版)で、ドラッカー自身の霊の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

 天才は、才能と個人的な努力があれば出ます。
 しかし、天才に頼るのではなく、野球で言う「全員野球」「管理野球」のように、一定レベルの運動能力を持っている人たちが、上手に練習を積み重ねることによって、チーム力で勝っていけるようなシステムをつくることが、ドラッカー流なのです。
 高校野球においては、「天才的な投手の右腕一本に頼って、甲子園で優勝する」ということもあるとは思いますが、プロ野球の世界では、やはり、そうはいかなくて、どんな天才投手であっても、毎日毎日、投げていたら、腕がおかしくなってしまいますから、いろいろな投手を組み合わせて試合をします。
 今のプロ野球では、交替用の投手を何人も持っています。オーバースロー、アンダースロー、サイドスローという、投げ方の違いもあれば、直球型、変化球型という違いもあるし、先発型、ストッパー型という違いもあって、いろいろな投手がいますよね。そのような投手を組み合わせて、成果をあげていくのが、「マネジメントの思想」なのです。
 例えば、ストッパー役で、七回か八回から、あるいは九回にだけ出てくるような投手がいます。(中略)また、九回ツーアウトのときに、最後のスリーアウト目を取るのは緊張するものなので、そのときのためだけの投手だっています。それも、プロ野球では成り立つのです。(中略)
 先発型で、七回ぐらいまで長く投げられる人のほうが、才能的には、たぶん高いのだろうとは思います。しかし、プロ野球という目で見ると、「一人の打者だけを打ち取る」「左打ちの四番バッターだけを打ち取る」などということだけであっても、十分な仕事になるわけです。
 だから、私たちは、「全面的な能力、オールマイティな能力のある人や、ある分野について、ものすごく何でもできる人を数多くつくる」ということよりは、「各人が、それぞれの才能のなかで、一定以上の成果をあげ、トータルで実績をあげられるような社会をつくりたい」と考えているのです。(中略)
 企業経営においても、決して、そう悲観することはありません。「一定の才能があり、努力を重ねた人を、できれば、百人や二百人程度の会社の経営ぐらいはできるレベルにしたい」というのが私の考えですし、「いわゆる平凡な人、あるいは平均的な人を、どう使うか」ということも、大企業にとっては非常に大事なことなのです。
 何千人、何万人もの社員がいる大会社であっても、天才がそれほど数多くいることはありえないし、(中略)その場合には、「平均的な人を、どう働かせて、その人に給料以上の成果をあげてもらうか」ということも大事な仕事なのです。(中略)
 もう一つ大切なことは、平均以下の人たちも、それぞれ何らかの役割を上手に果たせるようにすること、そういう人たちを使い切ることです。これのできる企業が優れているんですね。
(90~96ページ)

天才に頼らず、一定レベルの運動能力を持っている人たちが、上手に練習を積み重ねることによって、チーム力で勝っていけるシステムをつくること。

オールマイティな能力のある人をつくることより、各人がそれぞれの才能のなかで一定以上の成果をあげ、トータルで実績をあげられる社会をつくること。

企業経営においては、一定の才能があり努力を重ねた人を、百人や二百人程度の会社経営ぐらいできるレベルにしたいし、平均的な人、平均以下の人たちを使い切る企業が優れていると考えている──。

なるほど、なるほど、です。

「企業経営」なんていわれると、企業の中を知らなければわけがわかりませんが、高校野球をテレビで見たことがある程度でも、野球のたとえで説明していただくと、よくわかる気がします。

やはり、その思想の真意を的確に説明してくださるという意味では、ご本人自身に解説していただくのが一番。

そして、それが本当にできる「霊言」っていうのは、ほんとにスゴイと私は思っているのです。

ドラッカー霊言による「国家と経営」 (OR books) 『ドラッカー霊言による「国家と経営」』

 大川隆法著

 

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やっぱし、学校時代にいい成績とってないと、社会で成功するのはむずかしいのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『知的青春のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 彼らは、大学一年から勉強していて、さらに予備校へも行き、試験に出るところを一生懸命に教わっているわけです。
 「そんな勉強の仕方があるのか」と思ったけれども、さらに遡ってみたら、彼らは、高校でも中学校でも小学校でも、塾などで、受験の合格を目指した勉強の仕方を教わっていたようなのです。(中略)当時、「なんて要領のいい、賢い人がいるんだろう。よっぽど、生まれつき頭の良さに差があるのかなあ」と、ずいぶん思いましたね。(中略)
 ところが、その後、社会に出て見てみると、頭の良かった人たちは大して偉くなっていません。「なぜ、あんなに頭の良い人が偉くならないんだろうか」と思ったけれども、「要するに、彼らは“ハウツー”に精通していただけだ」ということが分かりました。
 彼らは、「同じ時間内でやるときには、こういうやり方をしたほうが効率が良い」ということには精通しているのだけれども、第1章で述べたように、何かに没頭し、深いところまで突きつめていくようなタイプではないので、要するに超一流のところまでは抜けていけないんですよね。
 彼らの能力は、評価してくれる人がいる場合に発揮される能力なんです。「この仕事を、いつまでに仕上げてくれ」と言われ、「はい」と返事をして、「期限までにパシッと出来上がる」というようなとき、要するに、評価してくれる上司がいるときには役に立つ能力なんです。
 しかし、自分が、例えば経営者のようにトップに立つと、自分で全部を考え出さなくてはいけなくなります。すなわち、新規のことを考え出したり、経営計画をつくったり、「会社をこのように持っていきたい」「未来をこうしたい」などということを考えたりするような段階になったら、全然、手本がないので、いわゆるハウツーが効かなくなるんですよね。
 そうすると、孤独のなかにあって、自分で独自の方法を考え、編み出した人や、独学的にいろいろと苦しんだような人のほうが、意外に、トップとしての孤独に耐え、自分の判断を信頼して、やっていけるようなところが出てくるのです。
 「要領の悪かったはずの人たちに、オリジナリティー(独自性)が出てきて、逆に、要領の良かった人たちに、ある意味でオリジナリティーが出ない」ということになっていくのです。
 そういう、要領の良かった人たちは、誰もが使う、オーソドックスな“兵法”を使っていただけなので、まったく新しい局面や環境が出てきて、「どうするか」となったときに、すなわち、「定まった答えがない」という状況に直面したときに、評価が引っ繰り返ってくるんですよ。
 「公務員になったり、大企業で、ある程度まで出世したりする」ということだったら、そういうタイプでも十分にやっていけるんだけれども、創業経営者になったり、研究者として新しい分野を開拓したり、発明家になったり、冒険家になったりするようなときには、そういうタイプは通用しないわけです。
(69~73ページ)

塾や予備校通いで勉強のハウツーに精通した要領のいい人たちは、同じ時間内でやるときの効率の良い方法に精通しているだけであり、超一流にはなれない。

そういうタイプは、創業経営者、新しい分野を開拓する研究者、発明家、冒険家など、まったく新しい局面や環境で定まった答えがない分野では、通用しない。

そういう分野では、孤独のなかにあって、独自の方法を自分で考え、編み出した人や、独学で苦しんだ人のほうが、意外にやっていけるものである──。

もちろん、“まったく勉強しないでも成功できる”、というような甘い話でないのは当然のことだと思います。

でも、こういう逆説が成り立つこともあるわけです。

学生時代に、地道に努力したのに成果が出なかった方にとっては、これはまさに「希望の原理」ではないかと私は思っているのです。

 

知的青春のすすめ (OR BOOKS) 『知的青春のすすめ』

 大川隆法著

 

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愛って、なんだか古くさい感じがするんだけど。21世紀なんだから、もっと近代的で現代的な愛の考え方って、あるんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 みなさんは、「愛というものは、人間と人間とを結びつけている対価でもある。そういう経済的な指標としての金銭にもよく似たものである」ということを知らなくてはなりません。
 金銭は、じっと持っていても増えるものではありません。一万円札を金庫にしまっておけば、それは、いつまでたっても一万円のままです。しかし、それを使うことによって、その一万円は、どんどん増えていきます。
 あなたが、一万円を使って、たとえば一冊千円の本を十冊買うとします。そうすると、その十冊の本を使って勉強することができます。(中略)一方、あなたが使ったその一万円は、書店にとっては収入になります。その一万円を使って、彼らは生活をすることもできますし、仕入れ先にお金を払うこともできます。彼らは、その利益でいろいろな支出をし、その支出が、また次の支出を生んでいきます。彼らが仕入れ先に払ったお金によって、仕入れ先もまた生活をしていけるようになります。
 こうして、一万円というものが活動を開始すると、一万円という価値が二倍にも三倍にも五倍にも十倍にもなっていきます。たとえば、一万円が一カ月に一人の割合で人々のあいだを巡っていけば、一年間で十二人のあいだを巡ることになります。その結果、一万円は十二万円分の仕事をすることになるのです。
 これが経済の世界です。これとまったく同じことが、人間の心の世界でも言えるのです。
 愛という名の一万円札を金庫にしまっておけば、それは一万円以上のものになることはありません。
 ところが、その愛という名の一万円札を、他の人に差し出して使うと、一つの経済が起きて、人と人とのあいだを一万円が循環しはじめます。やがて、その一万円は一万円以上の仕事をしはじめ、十万円、百万円の値打ちを生むようになるのです。(中略)
 みなさんは、まだ愛の原始生活をしているのかもしれません。すなわち、各人が、自分の釣ってきた魚を食べ、自分が狩猟をして獲ってきた鹿の肉を食べ、自分が収穫した米を食べているだけの生活をしているようなものなのではないでしょうか。
 愛の世界においては、みなさんは、まだまだ原始的な生活を営んでいるのであり、早く、近代化された社会にしなくてはならないのです。
 そのためには、みずからの持っている愛をどんどん交換していき、大きなものにしていかなくてはなりません。愛という名の一万円を金庫から出して、それを循環させていくことです。愛そのものを働かせなければならないのです。(中略)これから、みなさんは、愛の世界において、あるいは、心の世界において、近代的、現代的な社会を築いていかなくてはなりません。大いなる愛の経済学を起こしていかなくてはなりません。
 愛の経済学を起こすために、みずからが持っている、なけなしの愛を、まず投げ出していくことです。それを与えることです。そして、愛そのものが仕事をしていくことを見届けることが大事です。
(160~166ページ)

愛というのは、人間と人間とを結びつけている対価でもあって、経済的指標としての金銭によく似たものである。

近代の経済社会では、金銭を使うことによって、その価値が循環して増えていくのとまったく同じように、愛の世界においても、自給自足の原始的な生活を営むのではなく、早く近代化された社会にしなくてはならない。

この大いなる愛の経済学を起こしていくためには、みずからが持っているなけなしの愛を、まず投げ出し、与えることである──。

今日のお教えは、「愛の経済学」という観点で「愛」の問題を考えよう、というものだと思います。

その観点からは、「与える愛」を実践することが、全体の愛の総量を増やしていくことになる、というんだと思います。

「え、愛の分野に経済学ですか?!」と、虚をつかれる気がしますが、でも、よくよく考えてみると、とても説得力がある斬新なお教えではないでしょうか。

国際金融を専門とする社会人を経た上で、宗教家として世に立たれた、大川隆法先生だからこそ示し得る新たな視点の学びがここにあるのだと私は思っているのです。

限りなく優しくあれ―愛の大河の中で (OR books) 『限りなく優しくあれ』

 大川隆法著


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なんだか宇宙人の話のなかで、「ウォーク・イン」って聞いたことがあるんだけど、そもそも何のことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宇宙人との対話』(幸福の科学出版)で、公開霊言の一種として、眼前に座る人(Bさん)をリーディングして、そこに存在するウンモ星人の意識に自らの口を通して霊言させるという形で、このように伝えておられます。

 私は、まだ本当の意味で地球人ではありません。私は、あなたがたがウォーク・インと言っているもので、この者の体に、今、入っており、共同生活をして、地球人の生き方や考え方を学んでおります。(中略)
 で、ウォーク・インっていうのは、あなたがた、分かりにくいと思うけど、最近、地球で有名になってる映画で、「アバター」とかいうのが流行ってますでしょ? 「カプセルのなかで寝ているような姿になって、睡眠中に、意識がほかの肉体に移って活動する」という映画でしたね?
 そういうふうに、今、目に見えないようなスタイルになっているけども、インビジブルな宇宙船があって、私は、実は、肉体のほうは、そこでカプセルのなかに入って、冬眠しているような状態です。要するに、寝ている、夢を見ている状態で、魂だけ抜けて、この者のなかにウォーク・インして、この者の体験を、自分の体験として経験している。
 「地球人が、どのように生活し、どのように考え、何を学習してるのか」、これを学んで、吸収して、それが自分の体験として記憶される。
 そして、地球の情報を収集して、ウンモ星の今後のあり方を考える。ウンモ星は、実はもう滅びかかっておりますので、どういうかたちなら地球に移住して住めるようになるか、その方法を構築するための研究隊が、私たちです。(中略)
 というのも、今、食料的に危機なんです。星として、食料が非常に入手困難な状態になってきています。(中略)われらの主食は、実は野菜系統なんです。本当はベジタリアンなんです。けれども、今、ウンモ星の砂漠化が進んでいて、そうしたベジタリアンの私たちを養うのに、将来的には非常に厳しい状態になっております。
 それは、空気による太陽光線の遮断効果がとても低くなっていて、寒暖の差が激しくなってきているために、植物にとって非常に過酷な環境になってきて、これを改善できないでいるんです。
 地球でそういうことにならないように、われわれは、今、新しい研究をさせて、そして、地球がもっと緑なす大地になって多くの人を養えるようにしてから、移住してきたいと考えています。(中略)
 われわれはとても平和で、愛を信ずるものです。ただ、私の本当の姿を説明しますと、手と足を合わせて八本あります。ごめんなさい、許してください。
 八本あって、八本足で歩行しておりますから、あなたがたから見ると、昆虫に、二本、手が付いたかたちの姿です。「野菜を食べる」と言いましたが、外見は昆虫に似ております。
 地球の生き物でいちばん近いものが何であるかと考えますと、おそらくは……、ハチかと思います。ハチによく似たものです。
 ただ、大きさは、あんなに小さなものではなくて、三メートルぐらいはあるハチです。羽も生えておりますし、外見もよく似ています。ただ、手が二本多いです。それが、野菜を食べて生きております。
(72~80ページ)

ウンモ星人の外見は、羽が生えて、手足が8本あって、ハチに似ているが、3メートルぐらいもある。

ウンモ星は、空気による太陽光線の遮断効果が低くなって寒暖の差が激しくなり、砂漠化が進んで、植物に過酷な環境となっているため、ベジタリアンのウンモ星人を養うのが厳しい状態になっている。

いま彼らは、「ウォーク・イン」で人間の体に入って、地球人の生き方や考え方を学んでいる──。

ここで「リーディング」(霊査)されているBさんというのは、現代日本に生きて生活している人です。

ということは、宇宙人はいま現在、実際に地球(そしてこの日本)に潜入し、日本人とともに共生しているという。驚くべき話であるわけです。

2009年に公開されて大ヒットしたアメリカ映画「AVATAR(アバター)」は、他の惑星に行った地球人が、カプセルのなかで睡眠中に、意識をほかの肉体(「アバター」)に入れることで活動するストーリーだったと思います。

あの「アバター」の世界は、ただの作り話ではなく、じつは宇宙人の「ウォーク・イン」という形でこの日本でも実際に行われている、という話でもあるわけで。

いやあ、とても不思議なだけでなく、考えようによっては、とっても恐ろしい話です。

この「宇宙人リーディング」などを下敷きにして、「ウォーク・イン」についても描かれた映画『UFO学園の秘密』『宇宙の法 黎明編』は、2015年と2018年に公開されています。

この宇宙人の「ウォーク・イン」というものすごい秘密は、幸福の科学からこんなにハッキリと明らかにされているのですから、もっと世間に知られていいのではないかと私は思っているのです。

宇宙人との対話 (OR books) 『宇宙人との対話』

 大川隆法著


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