マルクス経済学って、一世を風靡したけど、21世紀の今の目で見て、正しかったのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『アダム・スミス霊言による「新・国富論」』(幸福の科学出版)で、「経済学の父」として有名なアダム・スミスの霊の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。
マルクスの考え方のなかには、自分自身を「弱者」と捉え、世の中の弱者に対する共感の部分はあったと思います。そういう、本来、宗教が持っているような部分はあっただろうとは思いますね。
けれども、現実の政治経済の運営においては、合理性が必要とされるがゆえに、宗教的な慰めの世界とは少し違ったものがあるんです。そのため、弱肉強食の厳しい市場原理のように見える面もあるけれども、やはり、そのなかで智慧が磨かれていることは間違いないですね。(中略)
実に厳しいけれども、自分の仕事の適正な判断というか、「自分がいい仕事をしているかどうか」の判断は、本当は自分自身でできるものではなく、やはり、マーケットの評価、お客さまの総合的評価によって決まるものなんです。(中略)
今、日本の国の経済運営という面で政府の仕事を見ると、やはり、そのなかにいる人たちに、マルクス経済学的な考え方がそうとう入っていると思われます。
だから、お金がなくても、ばら撒くようなことを平気でしますよね。(中略)
マルクス主義のなかには、やはり、「利益を出すことは悪である」という考え方が入っているんですよ。それは、マルクス自身が悪いんです。彼自身が、あまり儲けることができない人たちに共感するのはいいとしても、だからといって、「儲けているやつらは、みな、人を踏み台にして利益を絞り取った悪人ばかりだ」という考え方は間違っています。(中略)
「人間に、あまりにも差がありすぎる」という批判は、当たっていないわけではないんだけれども、その逆に、「努力・精進し、あるいは、智慧を発揮して頑張っている人たちが、正当に評価されない世界というのが、どれほどつらいものであるか」ということも言えるわけですね。一生懸命に努力しても報われない世界というのは、これもまた地獄であるということです。(中略)
レッセフェール(自由放任)の思想は、ただ自由に放任し、人々を堕落させることを目指しているわけではありません。自分にいちばん利害関係があるのは自分自身なので、やはり、自分自身を護り、伸ばしていくことに、人間は、生きがいを感じるものなのです。
例えば、会社の社長であれば、会社を大きくすることに生きがいを感じます。それが、本来の経営のあり方です。そういう倫理が、レッセフェールの裏に入っているんですよ。だから、「倫理なき自由放任」ではないんです。「学業を放擲して、暴走族になる」というような自由放任ではないんです。
そうではなくて、「神の見えざる手」と言っているように、一定の理念、要するに、「神の望まれる繁栄」というものがバックにあって、その上で、各人の創意工夫による自由性を担保するということなんです。
現代にその思想を持ってきたらどうなるかといえば、「やはり、いろいろな、よろしくない規制、個人の創意工夫を止めるような規制を、できるだけ、はずしていくことが大事だ」という考えになっていくでしょうね。
(52~59ページ)
自分がいい仕事をしているかどうかの判断は、マーケットの評価、お客さまの総合的評価によって決まるものである。
マルクス主義のなかには、「利益を出すことは悪である」という考え方が入っているが、その考え方は間違っている。
レッセフェール(自由放任)の思想は、神の望まれる繁栄というものが背景にあって、その上で、各人の創意工夫による自由性を担保するということである──。
マルクス経済学に関する大川隆法先生のお教えは、以前に、ご紹介したことがありました。
今日は、著名な経済学者にして哲学者であるアダム・スミスの霊言ですが、まったく違和感なく読むことができるのは、とても不思議な感じです。
でも、それはすなわち、このアダム・スミス型の思想こそが、大川隆法先生のお考えでもあるからではないかと私は思っているのです。
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『アダム・スミス霊言による「新・国富論」』
大川隆法著 |
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