「滝」の俳句~私の心に見えたもの

220728 佐々木博子(「滝」瀬音集・渓流集・瀑声集 推薦作品より)

鳥籠の中を流るる秋の川 菅原鬨也 (12月号飛沫抄)

2010-12-01 12:36:47 | 日記
 「川が流れている」と言うこの鳥籠に、鳥はいるのだろうか。鳥を飼う
籠を「鳥籠」といい、それは鳥がいなくても「鳥籠」である。と私は思う
が、こういうところが俳句は書く時も、読む時も難しい。十月号の
 稲光足のギブスのふてぶてし 庄子紀子
を鑑賞させていただいた。私は足を覆っているギブスとして鑑賞したが、
主宰が監修してくださった文では「人の体を離れたギブス」となっている。
「足のギブス」は「足の形のギブス」と読まなければならないことになる。
後のページに「空っぽの鳥籠降ろす星月夜 田口啓子」がある。鳥籠は
「空っぽ」と書かなければ、鳥は中いることになるのだろう。
 鳥籠の中の鳥にも秋が来たのだ。瀬音もするし、秋の澄んだ水のきらめ
きも見えてくる。秋空を映した川に流れてくる紅葉落ち葉。飼われている
鳥の目の中を流れる秋の川。「外に放ってやりたい」と、ふと思った。し
かし、放てば自分で命を維持できないことを知っている作者。「秋の川」
は、やはり鳥籠の中を流れるしかない。
 最初に見たのは「鳥籠」という具象である。それが、「鳥籠」と「川」
の具象の強弱に、いつの間にか逆転が起きている。そして又「鳥籠」に視
線が戻る。
 俳句に「具象となる<物>」を置くことは「物」から連想されることの想
定に委ねるという事かと思う。しかし、それは個々に違うのではないのだ
ろうか。読み手に、私の見ている物を確実に読み取ってもらうにはどうし
たらいいのだろうと考えると分からなくなる。書けなくなくなる。「物」
の分量が計れなくなるのだ。
 主宰句十二カ月を谷口加代さんが鑑賞している今月の俳句、
 冬の蝶音叉の中に戻りけり 菅原鬨也
加代さんは「モノとモノが本来の意味を離れて関わり合う世界。音叉には
反響体としての役割はすでになく、蝶を零す冷たい白金の器具」と、「音叉」
の具象を捉えている。「音叉」と書いたら、ある基準となる振動の音を今、
発しているのではないのだろうか。音叉にそれ以外の用途はない。私は、
小春日に開けられた窓からふわりと部屋に入った冬の蝶を思った。その空
気感と、音叉の、柔らかな、たった一つの音を示す音の波は同じ質感を持
つと思った。音叉から生れた蝶が戻ってきた。私はここまでしか読み取る
ことができなかった。やがて音叉は止み「蝶を零す冷たい白金の器具」と
なる。そこまで加代さんの鑑賞は及んでいる。こんなところにも「物」の
恐さを感じる。
 勉強しようと、「滝」以外の俳誌も読むようになったが、私の「分から
ない」は、それによって益々量を増した。頭の中に山を成しているジグソ
ーパズルのピースが、ピースを一つ選んで指でつまむと、全部が崩れてく
る。そんな感じなのである。「物で語らせる」ことは、自分のイメージを
も変えてかからなければならないと思ったりする。
 今月号の「人」の山崎真中さんは「俳句の中の無言の空間にひそんでい
る語り手」の存在。「その語り手はモノを手掛かりにして、鮮明に読者に
語りかけてくる。」と言っている。「モノを語り手に託すために言葉にし
なくてはならない」ということだろうと思う。
 私が「物で語らせる」ことに悩み始めたのも俳句をはじめて三年目くら
いである。それまでは、とにかく十七文字というの字数に言葉を収めるた
めに苦しんだ。俳句の、言い募ることができない不自由さに悩んだ。今は、
置けば何かを語ってしまう「物というもの」を置く恐さから俳句が書けな
くなっている。
 <虚実潺潺-物と言葉->を何度も読むが、読むたびに自分の中で受け取り
方が変わって行く、うまく言えないが、書くほうと読むほうの「知識の違
い」が「理解の違い」であるとも言えるのではないだろうか。そして、今
号。「作者たる物、まずこの過酷で自由なる「物」と「言葉」の関係を認
知しなければ、作品の作業ははじまらない。」は、とても「重い言葉」で
ある。解決の糸口を授けてくださろうとする主宰に感謝するのみです。今
は、俳句を書き続けることで答えが見えると信じて書くしかない。言って
みれば私は、突然放たれた鳥籠の鳥のようなもの。憧れていた自由は、一
人で生きなければならない過酷を最初に感じる空腹に知る。生きるために
は、餌を取る技術を身につけなければならないのだ。(H)