哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

偽名

2012-01-16 03:43:43 | 時事
オウム真理教関連で指名手配の容疑者を匿っていた女性が出頭したという。ずっと偽名で逃走していて、本名に戻りたかったとの話もあったようだ。

本名というのは戸籍上の名前であり、偽名というのはそれを偽っているから偽名なのだろうが、十数年も偽名で生活していたら慣れてしまって、もともと偽名と思っていた名前が本名に思えてしまいそうにはならなかったのだろうか。しかし、そうはならないというのが、人間の通常の性質なのだろう。戸籍上の名前というのは、もちろん自分自身で付けた名前ではなく、親や親族等が付けたものであろうし、姓などは先祖からつながるものを意味することもあろう。本名に帰りたいというのは、ある意味自分につながるルーツを知りたい、維持したいという本望が人間にはあることを示しているようである。


しかし、池田晶子さんがこの話題を取り上げたなら、別の話になりそうだ。自分は何者なのか。この世で生を受け、親に与えられた名前で生きていくのは、あくまで形而下の話であり、池田さんは「池田某」という表現をよく使っていた。この世で名前を使うのはこの世での便宜であって、形而上で考えるのは何者でもなく、あるいは全世界を包含する者なのである。

禅の世界でも、自我を捨てるということが言われるが、この世でのしがらみを捨てて考えるという意味では同じことを言っていそうだ。オウム真理教が曲がりなりにも宗教なら、一体どう教えられていたのだろうか。そういえば、この宗教団体内で宗教用の名前もあったと聞いたことがあるが、名前に縛られるのであれば、結局同じことである。偽名で逃亡することは論外であるが、本名を含めて名前にとらわれない、何者でもない自分というものを考えるのは、哲学の出発点と言っていいのかもしれない。