池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「お釈迦様でも」という題でした。やはり生死の話の続きのようです。
「死ぬ原因が生まれたことにあるのなら、生まれた原因は何にあるのだろうか。そもそも存在しないものが、生まれることができるはずがない。存在するから生まれたのだと言うことはできる。
しかし、生まれたということは、生まれないこともできたことを含意する。だとしたら、どうして生まれたのだろうか。原因はやっぱり不明である。
「生と死」と分けて言い、分けて考えるところから、この面倒は生じている。生と死とは対としての言葉であり、言葉がなければ生死は言えない、つまり、「ない」。
私は面倒だから、言葉以前のこの存在を指して「存在」と言うことにしている。「存在」は生死でもあり、生死でもない。同じ事を色即是空と言った人もいる。」
池田さんの巡らせた「生死」に関する考えが、お釈迦様の仰ったことに到達しているわけですね。上には引用しませんでしたが、その人(お釈迦様)は「輪廻転生」には決して言及しなかったそうです。一切が空であると言うわけです。
そうすると「空」は、「無」ではなく、「存在」ということですね。
では、生死であり、生死でもない「存在」とは、一体何でしょう。
このような「存在」について、もう少し卑近な言い方を池田さんの過去の文章から拾えば、「魂」という言い方が見られます。生まれても死んでも「存在」することを観念しようと思えば、肉体にとらわれないイメージとして、「魂」がわかりやすそうです。
しかし、表現を変えてわかったようでも、実は言葉のうえで表現している限り、「生と死」の区別をしているのと同じような言いようになってしまっています。結局「言葉以前のこの存在」と池田さんが言っている「存在」は、まさに言葉以前のものとして私たちも捉えられなければ、池田さんの考えに近づくことが難しいような気がします。それが「空」なのでしょうか。
「死ぬ原因が生まれたことにあるのなら、生まれた原因は何にあるのだろうか。そもそも存在しないものが、生まれることができるはずがない。存在するから生まれたのだと言うことはできる。
しかし、生まれたということは、生まれないこともできたことを含意する。だとしたら、どうして生まれたのだろうか。原因はやっぱり不明である。
「生と死」と分けて言い、分けて考えるところから、この面倒は生じている。生と死とは対としての言葉であり、言葉がなければ生死は言えない、つまり、「ない」。
私は面倒だから、言葉以前のこの存在を指して「存在」と言うことにしている。「存在」は生死でもあり、生死でもない。同じ事を色即是空と言った人もいる。」
池田さんの巡らせた「生死」に関する考えが、お釈迦様の仰ったことに到達しているわけですね。上には引用しませんでしたが、その人(お釈迦様)は「輪廻転生」には決して言及しなかったそうです。一切が空であると言うわけです。
そうすると「空」は、「無」ではなく、「存在」ということですね。
では、生死であり、生死でもない「存在」とは、一体何でしょう。
このような「存在」について、もう少し卑近な言い方を池田さんの過去の文章から拾えば、「魂」という言い方が見られます。生まれても死んでも「存在」することを観念しようと思えば、肉体にとらわれないイメージとして、「魂」がわかりやすそうです。
しかし、表現を変えてわかったようでも、実は言葉のうえで表現している限り、「生と死」の区別をしているのと同じような言いようになってしまっています。結局「言葉以前のこの存在」と池田さんが言っている「存在」は、まさに言葉以前のものとして私たちも捉えられなければ、池田さんの考えに近づくことが難しいような気がします。それが「空」なのでしょうか。