池田晶子読書会というものがあるそうで、以前からネット上のサイトをたまに拝見しています。そこに会誌『存在の謎』というのがあり、投稿されている方の文章にも興味深いものがあります。
会誌『存在の謎』抜粋
その中で、40代女性の方の文章から、池田さんの文章を中心に少し抜粋させていただきます。
「それから、池田晶子氏の『十四歳からの哲学』を読んだ。
人は、物質宇宙、星々が永遠に生成消滅を繰り返しているということに、意味や理由があるとはほとんど思わない。でも、それなら、地球という惑星になぜか存在し、生まれたり死んだりを繰り返している人間の人生にも、意味や目的はないはずではないだろうか。宇宙が、ただそのようにあるように、人生も、ただそのようにあるだけではないだろうか。
不思議なことは起こるものだ。全身の力がスーッと抜けて、心の中の鉛の塊が溶けた。」
この最後の脱力解放感は、よくわかります。
日常生活の中で、私たち人間が行う数々の行動は意味や目的があると思っていますし、それらを集大成した人生に意味や目的がないとは普通は思っていません。ところが一方で、身の回りの数々の自然現象について意味や目的があるとは通常思っていませんし、いろんな自然現象の背後に何らかの意志があるとも普通は思っていませんよね。
そのように普段私たちは、人間の行うことと自然現象を全く分けて考えていますが、その誤謬を池田さんは端的に明快な論理で暴きます。
ただ、では人生に意味や目的がない、で終わりかというとそういうわけではありません。上記の池田さんの文章の続きでは、なぜそのように宇宙や人生が存在するのか、存在の謎や奇跡についての話になっていくわけです。
自ら選んで生まれたわけではない人生は運命のように思えるし、しかし人生において何をするかは自由に選択できます。最新刊の『君自身に還れ』の中に「被投的企投」なんていう難しい言葉が出てきましたが、上の話と同じことを言っているんだなと思いました。
会誌『存在の謎』抜粋
その中で、40代女性の方の文章から、池田さんの文章を中心に少し抜粋させていただきます。
「それから、池田晶子氏の『十四歳からの哲学』を読んだ。
人は、物質宇宙、星々が永遠に生成消滅を繰り返しているということに、意味や理由があるとはほとんど思わない。でも、それなら、地球という惑星になぜか存在し、生まれたり死んだりを繰り返している人間の人生にも、意味や目的はないはずではないだろうか。宇宙が、ただそのようにあるように、人生も、ただそのようにあるだけではないだろうか。
不思議なことは起こるものだ。全身の力がスーッと抜けて、心の中の鉛の塊が溶けた。」
この最後の脱力解放感は、よくわかります。
日常生活の中で、私たち人間が行う数々の行動は意味や目的があると思っていますし、それらを集大成した人生に意味や目的がないとは普通は思っていません。ところが一方で、身の回りの数々の自然現象について意味や目的があるとは通常思っていませんし、いろんな自然現象の背後に何らかの意志があるとも普通は思っていませんよね。
そのように普段私たちは、人間の行うことと自然現象を全く分けて考えていますが、その誤謬を池田さんは端的に明快な論理で暴きます。
ただ、では人生に意味や目的がない、で終わりかというとそういうわけではありません。上記の池田さんの文章の続きでは、なぜそのように宇宙や人生が存在するのか、存在の謎や奇跡についての話になっていくわけです。
自ら選んで生まれたわけではない人生は運命のように思えるし、しかし人生において何をするかは自由に選択できます。最新刊の『君自身に還れ』の中に「被投的企投」なんていう難しい言葉が出てきましたが、上の話と同じことを言っているんだなと思いました。
こう思える人は すでに何かを充分知っている。で、どういう俯瞰的な視点からそう思えているのかという思考を自らあきらかに自覚していくと存在論の話になるわけですね。
存在形式がわかるとスーッとしますねほんとに(笑)
スーッとするとき存在論理を直感してるともいえる。
哲学って こういう肯定的体験からスタートするのもいいなあと、最近思うのです。
形而下の人生に向かい合って意味や目的を自ら付与するにも そういう気分のときのほうがよさそうです。
不幸な体験から考え始めると ニーチェのいうルサンチマンの罠からなかなかぬけだせないですからね。
ところで『君自身に還れ』のタイトルは対談中ではフィヒテの言葉となってますが、アウグスティヌスの言葉にもあります。フィヒテもそれを引用したのかも。
「外に出てゆかず、きみ自身のうちに帰れ。真理は人間の内部に宿っている。そしてもしも、きみの本姓が変わりゆくものであることを見いだすなら、きみ自身を超えてゆきなさい。しかし憶えておくがよい、きみがじぶんを超えてゆくとき、きみは理性的なたましいをもこえてゆくことを。だから、理性の光そのものが点火されるところへ向かってゆきなさい。・・」
(西洋哲学史 古代から中世へ 熊野純彦 に所収
アウグスティヌス「真の宗教」の一部より)