平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




三井寺の梵鐘は4つあります。
三井の晩鐘、弁慶引き摺り鐘(重文)、西国札所の観音堂境内の鐘楼の
童子(どうじ)因縁鐘、滋賀県立琵琶湖文化館に寄託されている朝鮮鐘(重文)です。

近江八景の一つ「三井の晩鐘」で知られる鐘は、弁慶鐘を摸鋳したものといわれ、
三井寺の長吏道澄(どうちょう)の命で、慶長7年(1602)に
摂津住吉(大阪府)の鋳物師杉本家次が鋳造しました。
この鐘はことに音色が優れ、「声の三井寺」と称されて「形の平等院」、
「銘の神護寺」とともに日本三名鐘の一つに数えられています。
ひと撞き 冥加料 300円






三井の晩鐘のモデルとなった弁慶引き摺り鐘は、
金堂西側の霊鐘堂内に安置されています。



 ♪さざ浪や三井寺の古寺鐘はあれどむかしにかへる音はきこへず と詠んだ僧定円は
三井寺流唱導の祖として知られています。
百八煩悩にちなむ108の乳(にゅう、ち)をもつ梵鐘です。

乳が16個も失われ、無数のすり傷やひび割れが残る弁慶の引き摺り鐘。

伝説「弁慶の引き摺り鐘」
 奈良時代の作とされるこの梵鐘は、むかし俵藤太秀郷が三上山の百足退治の
お礼に竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したと伝えています。
その後、山門(延暦寺)との争いで武蔵坊弁慶が奪って比叡山延暦寺へ引き摺り上げて
撞いてみると「イノー、イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は
「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったのです。
その時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。
 (三井寺拝観パンフレットより)
寺に悪い事が起こる時には鐘をついても鳴らず、
いい事が起こる時は自然に鳴るという。
南北朝の争乱時には、
略奪を恐れて鐘を地中にうめたところ、自ら鳴り響き、
これによって足利尊氏が勝利したといわれています。 この鐘をめぐっては
まさに霊鐘というにふさわしい様々な不思議な出来事を今に伝えています。

『近江名所図会』1814年刊より「山門の衆徒、三井寺の鐘を奪い、無動寺谷に投げ落とす。」





『近江名所図会』1814年刊「三井寺女人詣」より、画面右上に弁慶の汁鍋が描かれています。
下の絵は「弁慶の引き摺り鐘」歌川国芳筆 個人蔵

衰退していた園城寺(三井寺)は、唐から帰朝した円珍によって再建され、
比叡山延暦寺の別院となりました。
円珍(母が空海の姪) は比叡山
延暦寺の義真に学び第5代天台座主に任じられましたが、そ
の死後、
延暦寺では円仁(最澄の弟子・第3代天台座主)派と円珍派の対立が激化し、
円珍の弟子たちは比叡山を下りて園城寺に移ります。
以後、延暦寺の山門派と園城寺の寺門派に分裂し、
両派の間には数百年におよぶ激しい抗争の歴史が繰り広げられました。
弁慶引き摺り鐘には、その争いの中で、延暦寺の僧兵だった弁慶が
比叡山まで引きずっていったという伝説があります。

こうして、平安時代中期から南北朝時代にかけて、山門派の焼き討ち、
源平の戦いでは、源氏に味方して平家の攻撃をうけ、南北朝の争乱でも、
河内源氏の流れをくむ足利尊氏に与し戦禍に巻き込まれるなど、しばしば
焼失しましたが、その都度、源氏の援助によってたちどころに再興されています。

弁慶の引きずり鐘と千団子祭りの亀をモチーフにした広報僧べんべん。

べんべんショップと文化財収蔵庫

境内のあちこちに「べんべん」ののぼり旗が翻っています。

琵琶湖文化館に預けてある朝鮮鐘は、鐘身に天衣(てんね)をなびかせ
飛来する天人像を鋳造した朝鮮鐘の逸品です。
銘文には中国の年号「太平12年」とあり、高麗では徳宗1年にあたる
1032年の鋳造です。古くから三井寺の金堂に秘蔵されていた鐘です。


最後のひとつは、観音堂境内の鐘楼の童子因縁鐘です。

この鐘は第二次世界大戦で供出の憂き目にあい、
現在釣られている鐘は、当寺所蔵の朝鮮鐘を模刻したものだそうです。



眼下に琵琶湖を望むことができる位置に建つ観月舞台 
県指定文化財 江戸時代(嘉永三年1849)の建立


三井寺の鐘は、謡曲「三井寺」にも登場します。
能「三井寺」は、中秋の名月の三井寺を舞台に
親子の再会を描いた名曲として知られています。
駿河国から来たわが子が行方不明になった女が京の清水寺に参詣し、
観音様のお告げに従って三井寺を訪れ、鐘を撞いたことがきっかけとなって
生き別れの子供と巡り会うというストーリーです。

四季折々それぞれの美しい琵琶湖の景色が眺められます。



境内図は三井寺HPよりお借りしました。

三井寺駅から大門通りを西へ歩いて行くと、三井寺の表門大門が見えてきます。


三井寺の大門(仁王門)室町時代 重文
もとは常楽寺(湖南市石部)にありましたが、秀吉が伏見城に移築し
徳川家康により江戸時代の初めにここに移されました。

天台宗寺門派の総本山である三井寺の正式な名称は、長等山園城寺といいます。
天智天皇6年(667)、天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、
大津には近江大津宮が置かれましたが、天智天皇の死後、
天智天皇の子大友皇子と同天皇の弟大海人(おおあま)皇子との間で
皇位継承を争う壬申の乱が起こりました。

天武天皇15年(686)、この戦いに敗れ自害した大友皇子(弘文天皇)の子・
大友与多王(よたのおおきみ)が、「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して
大友氏の氏寺として建立、この文字にちなみ天武天皇(大海人皇子)から
「園城」の勅額を賜ったのが園城寺の始まりと伝えています。


金堂 桃山時代 国宝 本尊は弥勒菩薩
現在の金堂は秀吉の正妻、北政所が再建したものです。

 園城寺の名よりも一般には三井寺の名で知られていますが、
この名前の由来となった金堂脇の閼伽井屋。

 閼伽井屋には現在も霊水が湧き出ています。

閼伽井屋横の小さなスペースに石庭が作られています。

『アクセス』
「長等山園城寺(三井寺)」大津市園城寺町246
京阪電車石山坂本線「三井寺」駅下車 徒歩約10分
『参考資料』
「滋賀県の地名」平凡社、1991年 「滋賀県の歴史散歩」(上)山川出版社、2008年
「郷土資料事典(滋賀県)」人文社、1997年 古寺をゆく「三井寺と近江の名刹」小学館、2001年
 図説「源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 

 

 



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