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河上皇・法皇は複雑なお人柄
(
後白
)
2012-08-05 23:53:37
天皇に即位する順もずっと後なのに、運の強さで天皇に、その後も実力を持った上皇・法皇…この世の中で一番偉い人であり続けるには足元の貴族、武士などを支配し、奉仕させ続けなければならないと、
近臣と権謀術数を巡らせて、清盛、義朝、義仲、義経、最後は頼朝までも振り回した「名君?」
それ以外の天皇達に比べて形破り、意思の強さも趣味の多さでも、父親の鳥羽法皇に似ているのかも。
歴史でもずっと出てくる人なのに、御陵はどこ?祀ったお寺はどこ?と問われても素人は誰も知らない(笑)歴史の教え方にも問題があるのかも。
無知な義経が兄頼朝に追いつめられる元を作った元凶もこの人だろうし…。
そのお寺が江戸の昔から「方除け・厄除けのご利益」で賑わい、現代も節分会が賑やかに行われているなんて、その風景にはとても胸が暖かくなりました。
白峰神宮がサッカー関係の尊崇を集めているのと同じですね。
祀られた人達は苦笑しているでしょうか?
ごめんなさい!
(
yukariko
)
2012-08-05 23:56:57
先のコメントのタイトルが入力ミスで「後白河法皇」の「後白」が抜けました。
その後、主語が全く入っていないので分かりにくいです。済みません。
よくわかりますよ。
(
sakura
)
2012-08-06 16:28:06
法住寺ではご住職が今様の復活保存に努められ、後白河天皇陵の法華堂に安置されている後白河法皇像を模刻した木像も今様歌合せの会の際に開扉されるそうです。
雅仁親王(後白河天皇)は皇位継承の望みがないことを良いことにして今様に明け暮れる毎日、帝王学も帝王らしい振る舞いも身につけることもできず、政治的には全く不遇の立場だったわけです。
鳥羽と美福門院の子・近衛天皇が皇子のないまま若くして亡くなったことが雅仁の運命を大きく変えることになります。美福門院の養子に迎えられていた雅仁の子・守仁親王(二条天皇)の中継ぎとして後白河に天皇の位が転がり込んできたことはよくご存知だと思います。保元の乱で兄の崇徳を滅ぼし、その三年後の平治の乱では源義朝を敗死させ、対立相手だった二条天皇も亡くなり、後白河上皇、清盛の全盛時代を迎えることになります。
最初無能な天皇と思われていた後白河が政治権力を一身に集めるようになると、したたかな政治家であることがわかってきます。平家を栄達に導き、その平家を滅亡させたのも後白河ですし、
陰謀によって義仲、義経、頼朝と武士同士を戦わせ、次々破滅させます。その勝利者頼朝が強く望んだ征夷大将軍の位は頑として与えず、仰るように後白河は
名君?です。
頼朝は後白河が死んでやっと征夷大将軍に任命されます。
合成画像の作成手順
(
ひろ庵
)
2012-08-08 17:57:53
合成画像の作成手順をHPにアップしました。
ていねいで親切な分かりやすい解説なので、当日の説明解説は不要と思いますよ。
ありがとうございました
(
sakura
)
2012-08-10 14:52:45
先ほど訪問させていただきました。
画像も用意しています。当日はどうぞよろしくお願い致します。
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近臣と権謀術数を巡らせて、清盛、義朝、義仲、義経、最後は頼朝までも振り回した「名君?」
それ以外の天皇達に比べて形破り、意思の強さも趣味の多さでも、父親の鳥羽法皇に似ているのかも。
歴史でもずっと出てくる人なのに、御陵はどこ?祀ったお寺はどこ?と問われても素人は誰も知らない(笑)歴史の教え方にも問題があるのかも。
無知な義経が兄頼朝に追いつめられる元を作った元凶もこの人だろうし…。
そのお寺が江戸の昔から「方除け・厄除けのご利益」で賑わい、現代も節分会が賑やかに行われているなんて、その風景にはとても胸が暖かくなりました。
白峰神宮がサッカー関係の尊崇を集めているのと同じですね。
祀られた人達は苦笑しているでしょうか?
その後、主語が全く入っていないので分かりにくいです。済みません。
雅仁親王(後白河天皇)は皇位継承の望みがないことを良いことにして今様に明け暮れる毎日、帝王学も帝王らしい振る舞いも身につけることもできず、政治的には全く不遇の立場だったわけです。
鳥羽と美福門院の子・近衛天皇が皇子のないまま若くして亡くなったことが雅仁の運命を大きく変えることになります。美福門院の養子に迎えられていた雅仁の子・守仁親王(二条天皇)の中継ぎとして後白河に天皇の位が転がり込んできたことはよくご存知だと思います。保元の乱で兄の崇徳を滅ぼし、その三年後の平治の乱では源義朝を敗死させ、対立相手だった二条天皇も亡くなり、後白河上皇、清盛の全盛時代を迎えることになります。
最初無能な天皇と思われていた後白河が政治権力を一身に集めるようになると、したたかな政治家であることがわかってきます。平家を栄達に導き、その平家を滅亡させたのも後白河ですし、
陰謀によって義仲、義経、頼朝と武士同士を戦わせ、次々破滅させます。その勝利者頼朝が強く望んだ征夷大将軍の位は頑として与えず、仰るように後白河は
名君?です。
頼朝は後白河が死んでやっと征夷大将軍に任命されます。
ていねいで親切な分かりやすい解説なので、当日の説明解説は不要と思いますよ。
画像も用意しています。当日はどうぞよろしくお願い致します。