平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




待賢門院璋子は、保元の乱で敵味方に分かれて戦った
崇徳天皇と後白河天皇そして上西門院統子などの生母です。
璋子は藤原公実(きんざね)の娘として生まれ、
幼い頃に白河法皇の養女として迎えられました。
17歳で
法皇の孫である鳥羽天皇の後宮に入り、崇徳天皇を生みましたが、
生まれた子は実は白河法皇の子という噂があったため、
鳥羽天皇は崇徳天皇を疎んじ、
叔父子とよんでいたと『古事談』にあります。
白河法皇は鳥羽天皇を強引に退位させて上皇とし、僅か5歳の崇徳天皇を
即位させました。しかし白河法皇が崩御すると情勢は一変しました。

鳥羽上皇は美福門院得子との間に儲けた体仁(なりひと)親王を天皇にするため、
祖父(白河上皇)の子と噂のある崇徳天皇に強く譲位を迫りました。
このことが保元の乱の一因とされています。
上皇の寵が若い美福門院得子に傾くと、待賢門院は法金剛院を再興し、
わが子仁和寺の覚性法親王(かくしょうほっしんのう)の手で落飾、
出家(42歳)し、晩年はこの寺で過ごすことが多くなりました。。
法金剛院表門

鐘楼
法金剛院は、平安時代のはじめ、右大臣夏原清野の山荘があった所に、
鳥羽天皇の中宮、待賢門院璋子が平安時代末に再興したものです。
もとの寺域は広大なもので、双丘や北山を借景にし自然の池を利用した池、
広い苑池を中心に西に西御堂、東に女院の御所、南には南御堂、北斗堂、
三重塔、経蔵等の建物があり、川の水を引いて滝を造り、
境内は壮麗なものだったようです。

今はJR山陰線に南北に分断され、境内は北部のみとなってしまい
池の北にある「青女(せいじょ)の滝」だけが、創建当初唯一の遺構です。
1970年改修工事が行われ、埋没していた滝の石組を掘り起こし、
滝水を引いて遣水(やりみず)をつくり、池に注ぐよう改修されました。

青女の滝
ある時、待賢門院は滝をご覧になり、滝の高さが思ったより低かったので
もう5、6尺高くするよう造園の名手静意に命じられ13尺におよぶ
壮大な滝とされたという思い入れの深い滝です。
池泉回遊式庭園
当時の池は舟を用いて行き来するほど広大なものでした。

礼堂
春は早咲きの待賢門院桜、うす紅のしだれ桜が池畔を彩ります。

仏足石

待賢門院璋子は歌人とも交流を多く持ち、また仕えた女房には
才媛が多く待賢門院堀河もその一人です。
♪長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
 は百人一首の女流作品中の傑作の一つと云われています

待賢門院堀川は崇徳院、西行とも和歌の交流があり、
特に西行法師とは親しくしていました。

 待賢門院璋子崩御後、法金剛院に待賢門院の娘
上西門院統子をたずねた西行は、
この院の紅葉を鑑賞し 
もみじみて 君が袂や 時雨るらん むかしの秋の 色をしたひて(山家集)
 と詠んでいます。

待賢門院璋子生前の華やかな頃を感慨にふけりながら、
上西門院統子と思い出話でもしていたのでしょうか。

西行の年齢は璋子よりずっと下ですが、
美貌の待賢門院璋子を深く慕っていたといわれています。
待賢門院璋子花園西陵  
後白河法皇が母の供養のために建てた寺院 母恩寺(後白河法皇)  
『アクセス』
「法金剛院」 京都市右京区花園扇野町49 JR花園駅下車徒歩5分
『参考資料』
井上満郎「平安京の風景」 文英堂
村井康彦 「平家物語の世界」徳間書店 「日本古典文学大事典」明治書院
竹村俊則 「昭和京都名所図会」(洛西)駿々堂 「日本人名大事典」(3)平凡社

 
 

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コメント
 
 
 
いよいよ渦中の人たちの登場ですね! (yukariko)
2008-01-05 14:51:48
広隆寺を訪ねた桜には遅い頃、法金剛院も拝観しましたが、待賢門院璋子のお庭の遺構と蓮花の鉢ばかりが目立つ静かなお庭でした。

入り組んだ貴族の覇権争い(近親憎悪が凄い)に源氏・平家も入り乱れて加担していよいよ保元・平治の乱の幕が開きますね!
「待賢門院璋子」が生んだ皇子の真の父親…この時代の女性は政略の道具だから、周囲の人の思惑に流されどうにもならず苦しむのですね。

鳥羽上皇が美福門院得子(女房平滋子)を皇后としても、女院として法金剛院に住まわれた頃はもう世を捨て穏やかな心境になっておられたでしょうか。

でもこの法金剛院を相続され、落飾後お住まいになった娘の「上西門院統子」はもっと波乱の時代を生き抜かれますね。

記事に「西行が深く慕っていた」とありますが…藤原定家と式子内親王の秘めたるロマンス?を思わせるような…
インターネットでその相手が違うとする意見を読みました。
西行その人を考え直すような文と引用歌でした。
夢があって楽しいので(笑)読んでみて下さい。

http://www.netwave.or.jp/~wbox/saigyo01.htm
 
 
 
続きです! (yukariko)
2008-01-05 21:45:45
見せ方もどんどん進化してこられて変化があるので、『なるほど!なるほど!』

読み進んで法金剛院のカラーのお庭の様子に見とれました。

お訪ねになった季節もわかって楽しい記事ですね。
 
 
 
サイト見せていただきました。 (sakura)
2008-01-06 12:27:47
西行は待賢門院璋子を深く慕っていたと
いわれていますが、
待賢門院璋子は鳥羽天皇の
中宮になってからもずっと白河上皇との関係は
続いていました。「平家物語の世界」より、

だから待賢門院璋子が、西行の恋のお相手と
いうのは完全な間違いです。
西行が美貌の待賢門院璋子に一方的に
あこがれていたのです。
容姿だけでなく、「待賢門院璋子の権勢を求めず、
達観した生き方」に
西行に共通するものがあったのでしょうか。

ここも記事に書き加えておけばよかったですね。ごめんなさい。

西行はあこがれていたけれども、待賢門院璋子生前には直接会っていないのでは「平安京の風景」より 
とも書かれています。
この辺は、専門家が西行の歌集などから研究し、
推測してくれています。
私は二人がぜひとも会っていてほしいのですが。

平家物語には影の主役である筈の
後白河法皇のことが、
あまり具体的に書かれていないので、
少し時代はさかのぼりますが、
後白河法皇即位の事情あたりから記事にして
後白河法皇を理解しようと思います。

「西行法師」、「上西門院統子」は
また後日登場します、また見てください。
美貌の待賢門院璋子は女の人に人気があるので、
サイトを見ると、多数の投稿がありますね。
情報ありがとうございました。
 
 
 
続きです。 (sakura)
2008-01-06 18:40:56
昼間出かける用事があって、
コメントに全部お答えしていないのが
気になったまま…

法金剛院をたづねられたそうですが、
何も残っていないでしょう。
「花の寺」と云うことで、桜・蓮の季節には
賑わいますが私がたずねた時も、
ひっそりとしていました。

保元の乱も平治の乱も記事にするといいのですが、
またの機会にして少し触れる程度にします。

次回、法金剛院背後にある待賢門院璋子御陵の
写真と後白河法皇が母のために建てたお寺の
写真をUPして待賢門院璋子が、
落飾出家されるまでの穏やかでなかった
日々に少し触れ、

法金剛院に入られてからは
安らかな気持ちで過ごされたことを
祈ることにします。


 
 
 
法金剛院 (MIKO)
2021-09-15 16:01:46
法金剛院はもとは清原夏野の山荘でしたね。
夏原清野と文字が逆転していることに気が付いたため、老婆心ながらご報告します。
 
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