平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




法金剛院の表門を出て、西側のゆるやかな坂道を5、6分上ると
法金剛院の背後に鳥羽天皇中宮待賢門院璋子の御陵があります。



鳥羽天皇皇后璋子花園西陵

宮中での華やかな生活、愛と憎しみ何もかもが終り静かに眠る待賢門院

璋子は17歳で入内し、崇徳・後白河両天皇を生みました。
入内前は鳥羽天皇の祖父白河法皇の養女として育てられたので、

崇徳天皇は法皇の子であるという噂がありました。
法皇は鳥羽天皇をむりやり退位させて上皇とし、5歳の崇徳天皇を即位させます。
天皇の母となった待賢門院璋子は、朝廷内での地位は盤石のものになります。

その後、鳥羽天皇との間に生まれた通仁親王、君仁親王は幼くして亡くなり、
25歳で生んだのが後に激動の時代を生き抜き、辣腕をふるう後白河天皇です。


白河法皇が崩御し、後ろ盾を失ってしまった待賢門院璋子に、
鳥羽上皇は若い美福門院を入内させます。
そして美福門院が生んだ近衛天皇を即位させると、
叔父子といって嫌っていた崇徳天皇を退位させました。
美福門院が皇后となり天皇の母になると、情勢は一変し美福門院の勢力が強まり、
待賢門院璋子、美福門院得子の女同士の闘いが熾烈になっていきます。

晩年、待賢門院は
法金剛院を建立し、しばしばこの寺で過ごしています。
ついにわが子仁和寺覚性法親王(鳥羽天皇第5皇子)の手出家落飾し、
その3年後、三条高倉第に於いて45歳でその生涯を終えました。

待賢門院かくれさせ給うて後、法金剛院におはして、
昔の御あと哀れに見給ひける折しも、郭公の鳴きければ
♪ふる里を見にこざりせば時鳥 だれと昔を恋ひて鳴かまし(出観集、夏)覚性法親王
(母上がお住みになった懐かしいこの寺に今日私が来なかったら時鳥よ、

おまえは誰と昔を恋しがりながら鳴いただろうか。)
法金剛院 (待賢門院璋子)  
『アクセス』
「待賢門院陵」 京都市右京区花園扇野町 JR花園下車徒歩12分位
『参考資料』
 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 「平安時代史事典」角川書店
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛西)駿々堂

 

 






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仁安3年(1168)に、後白河法皇は、高野山に参詣される途中、
とくにこのあたりの景色を好まれ、

生母・待賢門院の菩提のためにこの寺を創建されました。
寺の名前は「母后報恩」の意味がこめられています。


往時は12の坊舎を有する大伽藍で、代々住職は皇女が勤める
尼寺でしたが、淀川の洪水や兵乱などでしだいに勢いが衰え、
一時は荒れ寺となっていたこともありました。
寺宝として後白河法皇と待賢門院の画像のほか、
享保4年(1719)の略縁起などがあります。


法皇山母恩寺はかすがえ公園の傍、閑静な住宅街の一画にあります。



後白河天皇(雅仁親王)は、鳥羽天皇の四男で四宮ともよばれ、
皇位継承の枠外にいたため、青年期は母待賢門院璋子の御所に出入りして
今様等の芸能に熱中し、気ままに暮らしていたようです。

待賢門院璋子は鳥羽天皇の中宮で、崇徳天皇後白河天皇、上西門院の母です。
女院は鳥羽上皇の寵が美福門院に傾くと、法金剛院で出家(42歳)し、
久安元年(
1145三条高倉第で亡くなります、まだ40代の半ばでした。

母の死後塞ぎがちだった雅仁親王(後白河天皇)は、兄の崇徳上皇に招かれ
上皇の御所で暮らし、夜毎今様三昧に明け暮れたといいます。
『アクセス』
「母恩寺」 大阪市都島区都島本通1-20-22
大阪市営地下鉄谷町線「都島」下車 徒歩約5分

 


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