平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



筆立山の麓に鎮まる甲宗(こうそう)八幡神社は、
貞観2年(860)、大宰大弐清原峯成(きよはらみねなり)により創建。
社号は、神功(じんぐう)皇后が着用した甲(かぶと)を
ご神体とすることに由来するという。

中世以来、門司六ヶ郷の総鎮守であり、源平ゆかりの地としても
知られる社で、社務所裏
には、平知盛の墓があります。
社伝によると、壇ノ浦の合戦後、知盛の遺体は門司関へ漂着し、
これを憐れんだ里人によって壇ノ浦を見渡せる
筆立山に葬られたとされています。
その後数百年の間、筆立山にありましたが、
昭和28年の大水害でこの山が崩落し、現在地に移されました。

元暦2年(1185)3月、壇ノ浦合戦前に鎌倉方の大将であった
源範頼(1150~1193)と副将の源義経(1159~1189)が参詣し、
重藤弓と鏑矢を奉納して必勝を祈願し、その戦勝後には、
社殿を新たに造営したとの記録が社伝に残っています。

第一殿に応神(おうじん)天皇、第二殿に神功皇后、
第三殿に宗像三女神(むなかたさんじょしん)の
市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
多紀理比売命(たぎりひめのみこと)
多紀津比売命(たぎつひめのみこと)を祀っています。

源範頼・義経兄弟が揃って参詣したという甲宗八幡神社拝殿。

「義経・平家伝説ゆかりの地
甲宗八幡神社 平知盛の墓
源平の戦いの後、源範頼・義経兄弟が戦いで荒れた社殿を再建した。
また、拝殿裏には平知盛の墓と伝えられる石塔があり、
昭和28年の大水害の時に筆立山から流れて来たと伝えられる。北九州市」

みもすそ川公園内に建つ碇を振り上げる平知盛像。

源平最後の合戦に臨んだ新中納言知盛は、
総大将宗盛に代わって全軍を指揮し激を飛ばしました。
しかし安徳天皇が祖母の二位尼とともに入水、
宗盛父子は生け捕られ、教経が海に飛びこむのを見届けると
「見るべきものは全て見た。今は自害せん」と言い残し、
決して浮かんでくることがないように乳母子の
伊賀平内左衛門家長(いがへいざえないもんいえなが)と共に
重い鎧を二領着こんで、手を取り合い海に沈んでいきました。

伊賀平内左衛門家長は、筑後守平家貞の息子ともいわれ、
伊賀国服部の出身で、伊賀服部氏の祖と伝えられています。

平知盛の墓(左)と供養塔(右)

伝 平知盛の墓  
この石塔は平知盛(1152~1185)の墓として
甲宗八幡神社に伝わるものです。
知盛は平清盛の四男で、勇猛果敢な武将として
能「船弁慶」などの芸能にも取り上げられております。
父清盛亡き後、平家の総帥となった兄宗盛を補佐し、
平家一門の統率的存在となり、寿永三年(1184年)、
所領の彦島に本拠地を置き、古城山山頂に門司城を築いて戦に備え、
翌年の壇の浦の戦い(1185年3月24日)では
田野浦に兵を集め、万珠・千珠島付近に布陣する源氏を攻めますが、
義経戦略の前に武運なく敗れ、安徳天皇をはじめ平家一門の
最後を見届けると「見るべき程の事は見つ(見るべきものはすべて見た)」と
潔く入水してその一生を終えました。
墓は甲宗八幡神社が鎮座する筆立山山中にありましたが、
昭和28年の門司の大水害により流れ、拝殿裏に傾いたままの
状態にありましたので、ここに再祀しております。  

平知盛・乳母子の伊賀平内左衛門家長の墓は赤間神宮にもあります。
赤間神宮・安徳天皇陵・芳一堂・平家一門の墓  
知勇を兼ね備えた平知盛の最期   

アクセス』
「甲宗八幡宮」福岡県北九州市門司区旧門司1-7-18  
社務所受付時間9時〜17時 電話番号 093-321-0944
JR門司港駅から徒歩約15分
JR門司港駅から西鉄バス5分「甲宗八幡宮前」停下車徒歩すぐ。
『参考資料』
「福岡県の地名」平凡社、2004年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
 新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年

 



 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
壇ノ浦の戦いの後敗軍の将の遺骸が葬られていたことにびっくりしました。 (yukariko)
2020-08-13 21:26:44
…社伝によると、壇ノ浦の合戦後、知盛の遺体は門司関へ漂着し、これを憐れんだ里人によって壇ノ浦を見渡せる筆立山に葬られたとされています。
…これを読ませてもらって、敗軍の将が葬られた墓があり、近隣の住民によって後世まで伝えられ、守られて来たのだと知りました。
歴史が古来からの言い伝えられた事と事実の積み重なりだと実感します。
 
 
 
平家伝承地 (sakura)
2020-08-15 15:13:48
壇ノ浦で敗れた平家落武者たちが隠れ住んだという平家の集落が各地にあり、
平家谷・平家落人の里などと呼ばれ、平家武将の墓も点在しています。
これは、平家一門の最期を憐れんだ人々が各地に
塚や供養塔を建てたのではないでしょうか。

平知盛の墓は、赤間神宮、甲宗八幡神社の他、
福岡県久留米市田主丸町にもあります。

この土地の伝承によると、壇ノ浦で乳母子伊賀平内左衛門家長とともに
海底に沈んだはずの知盛は、実は乳母子とともに筑後川を渡り、
遥か筑後(久留米市)まで逃れて来てこの地で追手に捕まったと言い伝えられています。
 
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