平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




 保元の乱の一年前、久寿二年(1155)八月、都の貴族を
震撼させる事件が東国で勃発しました。
源義朝の長子義平(よしひら)15歳が武蔵大蔵館を襲撃し、
叔父義賢とその舅である秩父重隆を討ち、大いに武名を挙げ、
鎌倉悪源太と呼ばれるようになりました。これを大蔵合戦といいいます。

武蔵嵐山(らんざん)に、この合戦の舞台と木曽義仲誕生の地を訪ねます。
最寄りの東武東上線「武蔵嵐山」駅

源為義は白河院に仕え、源家の嫡流として、平家とともに寺院勢力の
抑圧などにあたりました。院は為義に近臣の藤原忠清の娘をめあわせ、
生まれたのが義朝です。しかし本人や郎党の不祥事が相次ぎ、
平家のように院や貴族の支持を得ることは難しく、
同い年の平忠盛が受領を歴任して天承二年(1132)、殿上人に
列せられたのに対して、
官職は検非違使止まりでした。

白河院やその孫鳥羽上皇の信任を失った為義は、その打開策として
摂関家の藤原忠実、頼長父子に近づき勢力の回復を図ります。
その頃、長男の義朝は廃嫡されて東国に下向させられ、
そこで源氏の拠点を広げる役割を負わされました。
新たに嫡子となったのが義朝の弟の義賢(よしかた)でした。
為義の後継者をめぐって長男義朝と次男義賢の間に
内紛があったことがうかがえます。

義賢は保延五年(1139)近衛天皇が皇太子の時、
東宮帯刀先生(たてわきせんじょう)の栄職につきました。
帯刀先生とは東宮を警護する武官の長官のことで、義賢は弓射に優れ
帯刀試の際、二矢がともに命中し武芸の高名を施しましたが、翌年、
滝口源備(そなう)殺害の犯人を匿ったためこの職を解任されました。
このため、嫡子には義賢の養子である頼賢(義賢の弟)が立てられました。

その後、義賢は藤原頼長の側近の一人となり、頼長から能登荘の預所職を
与えられますが、久安三年(1147)、年貢未納によりこの職も失いました。
保元の乱の際、為義が崇徳院・頼長方についたのはこのような
頼長との密接な主従関係によるものでした。

義朝が廃嫡された理由について『保元・平治の乱を読みなおす』には、
「理由は明確でないが、為義が忠実に仕えるに際して、忠実を蟄居に
追い込んだ白河院近臣の娘を母とする義朝が忌避されたと
みるべきであろう。ここに、河内源氏における父子・兄弟の分裂が
胚胎することになる。」と書かれています。

鎌倉に館を構えた義朝は南関東一帯に勢力を伸ばし東国に地盤を築きました。
後に義平に東国を委ねて自身は京へ出仕し、鳥羽院に近侍する機会を得、
仁平三年(1153)下野(栃木県)守に抜擢され、
検非違使に過ぎない父為義を抜いて受領となりました。

義朝が上洛したのと入れ替わるように為義は、義朝の勢力の及んでない
北関東に義賢を下向させました。
上野国多胡郡(現、群馬県多野郡)に
下った義賢は、武蔵国(埼玉県 ・神奈川県北東部)の秩父重隆の
娘婿となり勢力の拡大を図りました。このことが原因で義賢の居館、
大蔵館で甥の義平の不意打ちにあい、重隆ともども殺されました。

義朝の地盤を受継いだ義平が北関東への進出をもくろむのに対して、
義賢は武蔵国から南へ勢力を広げようとして両者は激突したのですが、
背景には摂関家を後ろ盾とする為義と鳥羽院近臣となった義朝との争いがあり、
武蔵国最大勢力をもつ秩父氏内部の対立も起因しました。

秩父重隆が家督を継ぎ武蔵国留守所総検校職についたことに
不満をもつ重隆の兄の子畠山重能(しげよし)が義平と組んだのです。
重能の妻や義平の母は、相模の三浦介義明(義朝の家人)の娘です。

武蔵の秩父重隆と利根川を挟んで抗争を繰り返していた
上野国(群馬県)の新田義重(義平の妻の父)や藤原秀郷の流れを汲む
下野国(栃木県)の藤(とう)姓足利氏も義朝・義平と結びました。

当時の武蔵守は、のちに平治の乱の首謀者となる藤原信頼です。
信頼は義平を処罰することなく、この事件を黙認したことから
その行動を容認したものと思われ、信頼と義朝の密接な関係は
この頃に形成されたと考えられています。

久寿二年(1155)10月、義賢の養子となっていた頼賢は
報復のため信濃国に下りましたが、その行為は鳥羽院領を
侵害したとみなされ、頼賢討伐の院宣が義朝に下されて
大蔵合戦は義朝方が勝者とされています。

 大蔵合戦で父義賢を失った当時2歳の駒王丸(木曽義仲)は、
義平の配下の畠山重能や斉藤実盛の計らいで木曽の
中原兼遠のもとに送られた。と『源平盛衰記』は語っています。

都にいた義仲の兄の仲家は頼政が猶子として引きとり、
のちに仲家は八条院蔵人となりましたが、以仁王が挙兵した際、
嫡子仲光とともに参戦し、宇治川の合戦でともに討死しました。
義仲には宮菊という妹もいましたが、義仲の死後、宮菊は頼朝から
美濃国遠山庄内の一村(現・山口村馬籠)を賜っています。
(『吾妻鏡・文治元年(1185)5月1日条』) 
伝承によるとそこに法明寺を建て義仲の菩提を弔って生涯を終え、
木曽馬籠には宮菊のものと伝わる五輪塔が建っているという。

義平の妻についてこんなエピソードがあります。
鎌倉政権を樹立した頼朝は、兄義平の未亡人に恋慕し
艶書を送りましたが、父新田義重は政子をはばかり
娘を他に嫁がせたため、義重は頼朝の勘気を被ります。

摂関家主流の藤原忠実、頼長と対立する忠通(頼長の兄)が
鳥羽院近臣勢力と結んだことから、保元元年(1156)の保元の乱では、
為義は崇徳院・藤原頼長方についてその主戦力となって戦い、義朝は
後白河天皇・藤原忠通方に加わり、父子は敵味方に分かれて戦いました。

保元の乱に勝利した義朝は、その三年後、藤原信頼と結んで平治の乱を起こして
平清盛に敗れ、源氏は頼朝が挙兵するまで雌伏の時を強いられます。



武蔵嵐山駅から国道を横切り、婦人会館の東側の道を下って、
都幾(とき)川を越えて進むと右手に向徳寺があります。ここから長閑な
田園地帯を歩いて行くと、ほどなく大蔵神社の森が見えてきます。



源為義の次男で義朝の弟、義賢(帯刀先生義賢)の居館跡



大蔵館跡
義賢の居館といわれる大蔵館は方形の館で大蔵神社の辺りがその中心部で
あったと考えられています。嵐山町周辺は南北朝~戦国時代にかけて戦乱の
絶えなかった地域であり、都幾川と鎌倉街道の交差する要衝に
位置していた館跡は、軍事上の重要拠点として何度か改修されたようです。

館跡の四隅にそれぞれ土塁や空堀が残っており、東西170m 南北200mの
規模で鎌倉街道に面した東側に入口がありました。館跡の内外には「御所ヶ谷戸」
「堀之内」、「高御蔵(高見櫓)」など館のあったことを示す小字名もあります。



大蔵神社





天寿二年八月十六日 大蔵館 源氏一族一門
南無馬頭観世音大菩薩
平氏一族一門 平成二年八月十六日

義賢の墓
大蔵館跡から笛吹峠に向かう鎌倉街道のすぐ東側の民家(新藤氏)の
屋敷内に祀られている五輪塔が義賢の墓と伝えています。



「義賢廟所」の扁額がかかる鳥居





義賢の墓(県指定史跡)
近年傷みが進み、屋根と鉄柵をつけて保存されています。



鎌形八幡神社
平安時代初めに坂上田村麻呂が九州宇佐八幡を勧請したと伝えられ、
源氏の氏神として崇拝されて源氏とのゆかりが深い社で、
江戸時代には徳川家康より20石の寄進を受けています。
神社境内に湧き出る清水は義仲の産湯に使われたと伝えています。

鎌形(かまがた)八幡宮は、坂上田村麻呂創建と伝えられる神社で、
古くから源氏の氏神として尊崇されていました。







境内右手に「義仲産湯の清水」が今もコンコンと湧き出ています。




碑には「木曽義仲産湯清水」と彫られています。
義賢の子、義仲(幼名駒王丸)は、大蔵館で生まれましたが、
父が討たれたため木曽に送られました。

威徳山班渓寺(はんけいじ)
鎌形八幡神社近くに建つ班渓寺は、山吹姫が嫡男義高の菩提を
弔うために建立した寺と伝えられ、境内墓地には山吹姫の五輪塔のほか
「木曽義仲公顕彰碑」が建っています。
義仲の嫡男義高の母は史料によって異なり、班渓寺では山吹姫と伝えています。

班渓寺の裏には木曽義仲館跡と伝えられるところがあり、そこに義賢の
下屋敷があり、小枝御前が
義仲を生んだ所ともいわれています。







境内墓地に建つ木曽義仲公顕彰碑

当寺開基「威徳院殿班渓妙虎大姉」の戒名が刻まれています。

木曽義仲の里 (徳音寺・南宮神社・旗挙八幡宮)  
『アクセス』
「大蔵館跡」埼玉県比企郡嵐山町大蔵522 東武東上線「武蔵嵐山」駅から徒歩約40分
武蔵嵐山(らんざん)駅から南に向かい、国立女性会館の東側から都幾(とき)川を渡り、
鎌倉街道を南へ、途中にある県道を西に進むと大蔵神社の森が見えてきます。
「鎌形八幡神社」埼玉県比企郡嵐山町鎌形
大蔵館跡から西へ向い、都幾川を渡り河川敷をさらに西に進みます。
大蔵神社から徒歩約35分
『参考資料』

野口実「源氏と坂東平氏」吉川弘文館 野口実「武門源氏の血脈」中央公論新社 
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 安田元久「武蔵の武士団」有隣新書
「木曽義仲のすべて」新人物往来社 「旭将軍 木曽義仲」日義村 
鈴木かほる「相模一族とその周辺史」新人物往来社 現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館
「源頼朝のすべて」新人物往来社 渡辺保「北条政子」吉川弘文館
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社 「埼玉県の地名」平凡社 「図説源平合戦人物伝」学習研究社



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コメント
 
 
 
丁寧な探索と克明な記事が素晴らしいですね! (yukariko)
2012-05-21 22:53:35
実地に赴いて遺跡や菩提寺、供養塔などの写真を解説と共に載せて下さるのでありがたいです。
今回の系図はすっきりときれいですね。

源氏の武者達はいかにも猪武者なのか、うんざりするぐらい内輪で争いますね。
欲望に忠実というのでしょうか(笑)

どちらを向いても伯父甥、親子骨肉の争いばかり。
日曜の大河ドラマでも忠盛に対して為義が自分たちの生きざまを言う場面がありました(その言葉がもうはっきりと思い出せません)、
一人一人の生き方というより一族の気性そのものが荒々しく、争いをこのみ、角立つ…武士そのものなのかも。
勢力を広げる為には骨肉の争いも平気な武士の一族は、雅を尊ぶ堂上の公卿からすれば、利用するだけして気に入らなければ破れ草履のように捨て去れる程度の小物達と見られていたのでしょう。
その上の公卿達も院の近臣や摂関家が争い別れて誰を信じて行けばいいのか分からない、実に恐ろしい時代ですね。
 
 
 
親兄弟でも容赦しない (sakura)
2012-05-22 11:25:16
恐ろしい時代です。大河ドラマは欠かさず見ていますが、何気なく見ているので
忠盛に対して為義が云った言葉、全く覚えていません。何といったのでしょうね?
系図はメールで教えていただいたお陰です。ありがとうございました。

鎌倉時代は我国中世の幕開けとよく云われますが、その裏には、
様々な激動の歴史があり、源氏には血を血で洗う闘争の歴史がありました。
その一つが大蔵合戦ですが、大河ドラマでは前々回でしたか、
義平が大蔵館を襲撃して義賢を殺害、源氏重代の髭切の太刀を奪い返すシーンを放映していました。
ほんの数場面だったのでつい見過ごしてしまうシーンです。
この合戦の一年後の保元の乱には天皇家、摂関家、源氏・平家が親兄弟、叔父甥と敵味方に分かれて、争いが繰広げられました。
のち後白河と結んだ頼朝と義仲、従兄弟同士が激突し
義仲は父子二代にわたって同族から滅ぼされることになります。
 
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