平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平治の乱で源氏が歴史の表舞台から姿を消し、この乱に勝利した清盛は、
仁安2年(1167)には太政大臣にまで昇りつめ、公家の頂点に立ちました。
この職を僅か3ヶ月で辞任した清盛は、嫡男重盛に六波羅の邸宅を譲り福原に居を移し、
日宋貿易に本腰を入れますが、清盛と後白河院の連携を
側面から支えていた
建春門院が死去すると、両者の関係はしだいに悪化し対立を深めました。

安元3年(1177)には、後白河院を中心とした鹿ケ谷の謀議が発覚し、
その後も続く院の挑発行為に、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、
クーデターを起こし、院を鳥羽離宮(鳥羽殿)に幽閉しました。
その翌年の治承4年(1180)2月、高倉天皇の皇子・安徳天皇を即位させます。
高倉天皇は清盛の妻時子の妹・建春門院滋子が後白河院との間にもうけた子で、
安徳天皇は清盛の娘建礼門院(徳子)の生んだ子です。
念願の天皇外戚の立場を得た清盛は、大きな権勢を誇るようになりました。
その陰で不遇をかこっていたのが、院の第2皇子以仁王(もちひとおう)です。

以仁王は皇位継承者の位置にありながら、平氏の縁に繋がらないため、
親皇宣下すら下されないという不当な扱いを受けていました。
しかし皇位への望みを捨てず八条院の猶子となり、彼女の強い後ろ盾を得て、
わずかな望みをつないでいました。八条院は後白河院の異母妹で、父鳥羽天皇や
母美福門院から莫大な所領譲られ、その財力をバックに大きな権力を持ち、
彼女の周辺には、源頼政はじめ様々な勢力を持つ人々が出入りしていました。
安徳天皇が即位した年の5月、以仁王は平家打倒の令旨を回し、
諸国の源氏に決起を促して挙兵の準備をします。
この計画はすぐに発覚し、以仁王は頼政らとともに南都に赴く途中、
平氏軍の追撃を受けて敗死し、乱は簡単に鎮圧されました。
しかし諸国に伝えられた令旨によって、頼朝が伊豆で挙兵し、
信濃でも義仲が兵を挙げ、内乱が各地に拡大しました。

 治承4年(1180)6月、清盛は周囲の反対を押し切って福原への遷都を強行し、
安徳天皇や高倉上皇、後白河院を福原の地に移しました。
福原は現在の神戸市兵庫区付近にあたり、そこには清盛の山荘(雪見御所)を
はじめとして平家一門の別荘がたち並んでいました。
別荘の南には清盛が整備した大輪田泊があり、そこを拠点として、
宋との貿易の利に目をつけた清盛が早くから地固めを行っていた地です。
ところが、これは計画的な遷都ではなく、貴族らも詳細は知らされず皇居や
院御所の準備もなく、とりあえず平頼盛(清盛の異母弟)の別荘が仮の内裏とされ、
高倉上皇は清盛の山荘、後白河院は平教盛(清盛の異母弟)の邸に入りましたが、
随行の者の多くは宿もなく、道ばたに座り込むありさまでした。

なぜ、清盛はなぜ慌しく京を出て福原に都を置こうとしたのでしょうか。
それは以仁王の反乱を一応鎮圧したものの、園城寺・興福寺などの寺社勢力が
この乱に深く関わっていたことが明らかとなり、南都北嶺の宗教界や
以仁王の背後にある八条院の勢力などに囲まれた平安京から逃れるため、
自身の山荘のある福原に都を遷すことにしたとされています。

元木泰雄氏は、以上の理由のほかに『平清盛と後白河院』の中で、
次のように述べておられます。「清盛は平氏の血を引く高倉上皇、安徳天皇という
平氏系新王朝の新都造営を決心して遷都を行い、藤原氏・後白河院・八条院と
結合する京を放棄するという目的があった。奈良時代の末、天武天皇の
皇統が断絶した時、皇位は天智系に移り、この皇統に属する桓武天皇は、
天武皇統に結びついた平城京を離れ、長岡京次いで平安京を造営している。
清盛もそれに倣ったものと思われる。」


寺社や高倉上皇、貴族たちの遷都反対の声が高まる中、
福原周辺では、平安京を念頭においた宮都造営が計画されました。
山が海に迫る狭い土地に平安京なみの土地確保は不可能で、
造営予定地をめぐって議論の最中、平維盛(重盛の嫡男)率いる追討軍が
富士川合戦で頼朝軍に大敗したという報告が清盛のもとに入りました。
すると今まで清盛に従順であった宗盛(清盛の3男)までもが、
還都を父に強く迫りました。内乱が激化するとともに清盛も新都造営を
諦めなければならなくなり、さらにかねてから病気がちであった
高倉上皇の病状も無視しがたく、ついに還都が決定されました。
治承4年11月24日に天皇以下福原を離れ、
同月26日には住みなれた平安京に戻りました。

雪見御所跡・荒田八幡神社・宝地院・薬仙寺 
『参考資料』
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書 高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社選書メチエ 
「兵庫県風土記」(元木泰雄・福原遷都 大輪田泊と平清盛)旺文社
 高橋昌明編「王朝への挑戦 平清盛」(別冊太陽)平凡社
 林原美術館「平家物語絵巻」クレオ


 

 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
清盛は遷都という遠大な長期計画はなかった。 (yukariko)
2015-06-17 12:36:21
清盛、頼盛他平氏の古強者が遷都が本当に必要だと初期から考えていたのなら、もっと早くから場所を探し、色々な準備をしていたと思うのです。
貴族として育った若公達は都や宮廷での平家の栄耀栄華に得意満面、有頂天で将来もずっとそのままと思っていた…。平氏でさえ都は京都しかないと思っていたはず。

それがいつの間にか風向きが変わり始めて、気付いたら四面楚歌の一歩手前、こうなるとおべっかを言う貴族は皆信用できない、敵(院)とその手先に見えたのでしょうね。
頼みに思うべき一門は頼りなく、玉(高倉・安徳)を人質に遠く離れた福原へ都落ちを考えるほどに。
大がかりな日宋貿易用に大輪田泊を整備し、一族用別荘などの諸施設は作っていても、遷都の仮都には元々無理でしょう。
現代でさえ神戸は狭い、四神相応の地でもなく、港以外の整備には何年もかかる、そんな準備も出来ていない田舎に強権を持って連行しても貴族が同意するはずもなし、関係ない庶民にまで反感を買い、怨嗟の声を浴びるだけですよね。
それでもやるほど清盛の気持は追いつめられていた…
平家物語のテーマ「栄枯盛衰」これから急展開ですね。
 
 
 
今の風景から800年前を (自閑)
2015-06-18 08:07:59
福原遷都は、方丈記の関係から、一方、城方、盛衰記他の平家から、当時の貴族の日記までとと読みまくりましたが、どこにあったのか?土地勘が無い為に、考えたこともなかったので、興味深く読ませて頂ききました。
お写真からは、当時の様子は思い浮かべるのは、難しいですね。
ここは、もうひとつの一ノ谷の近所ですよね。又拝見させて頂きます。
 
 
 
まさに四面楚歌! (sakura)
2015-06-18 15:50:43
何もかも急すぎましたね。
建春門院が清盛と後白河を結び、彼女が生きている間は、
両者は何とか協調してやれましたが、彼女が亡くなるとその関係は終わりをつげます。
その後、清盛の横暴を諌め、父と後白河の仲裁役であった重盛までが亡くなり、
清盛の独裁と強硬路線に拍車がかかります。

平氏の権勢に反発する後白河や既成の権威を清盛は切りたかったようで、
以仁王の乱がその時期を早めました。準備不足です。

結局、清盛は貴族・寺社・武士などから反発を受け、
源氏による平氏打倒の挙兵が各地で起こる中、
熱病で亡くなってしまいましたね。
 
 
 
そうです! (sakura)
2015-06-18 17:27:28
祇園神社は義経別動隊の多田行綱が押しよせた
能登守教経が守る山の手陣(氷室神社)に、ほど近い所にあります。

見晴らしのいい境内からは、肉眼で市街地から港のあたりまで一望できます。
清盛がこの景色を眺めながら、経ヶ島築造の構想を練ったという伝承もうなずけます。

JR神戸から山手に10分ほど歩くと「福原」という地名がありますが、
これは福原京とは違い、明治時代につけられた名です。

地図をUPさせていただきました。
 
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