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八条・九条の錚々たる甍群 (ren)
2019-07-29 14:50:19
西八条第近くの中学校に通っていましたので、土地勘があります。平家物語では清盛の下知のもと武装した兵士群が界隈を埋め尽くす様子が描かれ、そこに平服で悠然と現れる重盛が男前に描かれています。今回の発掘場所から駆け付けたのでしょうか。東山にも小松邸跡はあり、そこから来たのかなと勝手に思っていました。それにしても平家物語の時代を彩る面々の屋敷が並んでいますね。九条家はやっぱり九条なんですね。(笑)最近ある講演会で養和の飢饉の影響が平氏瓦解に計り知れない影響があったことを力説されていました。平氏はまともに戦えないほど、食糧不足であったとのこと。最新の「年輪酸素同位体」調査で干ばつのすさまじさが裏付けられたこと、源平争乱から戦国期まで気候の異常期であったことが裏付けられたことを知りました。「食べられない」という単純ですが切実な問題が中世の動乱の真実だと改めて気づかされました。
 
 
 
Re:八条・九条の錚々たる甍群 (sakura)
2019-07-30 17:40:23
Renさま
以前、京都に住んでおられたそうですね。
平家物語にとって京都は外せないところです。
Ren様もいくどもお訪ねになった場所がおありなのでしょう。

平安時代中期以後の公卿や官人の住居は左京の一条から
四条にかけて集まる傾向にありました。しかし院政期になると、
「左京以南略図」で見るように四条から南に住むものが多くなりました。
平安時代末期、京都駅の周辺は、平家物語に登場する
人々の邸宅が軒を連ねていたのですね。

清盛は鹿ケ谷事件前後、しばらくは西八条邸に住んでいたことは
「平家物語」に記されています。しかし、重盛が
清盛の西八条第に駆けつけたのは、東山からだったのか、
西八条第近くの邸からだったのかは申し訳ございませんがわかりません。

手もとにある「平家物語」や「源平盛衰記」、
参考資料などを探してみましたが、記されていませんでした。

京都駅ビル建設と周辺の再開発により大規模な発掘調査が実施され、
八条第(八条院暲子内親王の御所)跡のプレートが
JR京都駅構内に架けられています。

清盛終焉地とされる平盛国邸は、長い間、九条河原口(平安京南隅の九条四坊十三町)と
されてきましたが(『吾妻鏡』)、中原師元の日記『師元朝臣記』によって、
平成24年12月、「八条河原口」に石碑が建てられました。

コメントにお書きくださったように、
平家による諸国での反乱の鎮圧が順調に進まなかった理由として軍事的・政治的要因の以外に、この時期我が国を
大飢饉が襲っていたことがあげられています。
鴨長明がこの飢饉の様子を「方丈記」に詳細に記しています。
養和の年号が寿永に改元されたのも飢饉が理由とされています。
吉田経房は「吉記」に養和の大飢饉で、五条河原付近で
飢えた童が死人の肉を食べたという伝聞を記しています。
過酷な自然条件が平氏の動きを制約していたのですね。


 
 
 
重盛邸関連お調べいただき恐縮です。 (ren)
2019-07-30 20:20:04
懇切なご説明ありがとうございました。「方丈記」に関しては源平争乱から鎌倉初期の災害の記録書と言ってもよいものだと思いました。ありとあらゆる災害が都を襲いました。道端にあふれた犠牲者の額に梵字を書くことで供養した僧の話や赤ん坊を抱いた母子の犠牲者の姿に打ちのめされた長明のことが印象に残っています。ところで、近年琵琶湖の北部の塩津で中世屈指の港が発掘されました。中世琵琶湖の物流は、日本海や東国からの物資が集積したことで、全国の産物の5分の2が集まったという研究もあるようです。「重いものは船」「比較的軽いものは、陸路」が当然だったようで、コメは船が主だったようです。当然港(津)は王家の所領となりましたが、叡山に寄進されることもあったようです。承久の乱のあと、塩津は後鳥羽上皇から鎌倉からやってきた地頭熊谷直実の子孫に取って代わられたようです。
 
 
 
Re: 重盛邸関連お調べいただき恐縮です (sakura)
2019-07-31 08:55:55
鴨長明が生きた頃の京都は大きな災害に見舞われていたのですね。
「方丈記」の書き出し「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。」はよく知っていますが、
深く学んだことはありませんでした。

ちょうどこの4月からNHKラジオ古典講読で「方丈記」が始まり、
この書の解釈や内容、特徴などについて学んでいます。

Renさまにもコメントにお書きいただき、「方丈記」が
いっそう身近な書物になりました。
ありがとうございました。

 
 
 
追記 (sakura)
2019-07-31 09:03:09
承久の乱のあと、塩津は後鳥羽上皇から鎌倉からやってきた
地頭熊谷直実の子孫に取って代わられたようです。
参考にさせていただきます。
 
 
 
あちこちで歴史に埋もれた足跡が発見されていますね。 (yukariko)
2019-08-02 12:26:20
先日の六波羅邸堀跡出土もそうですが、京都も大掛かりな再開発のための調査で、深くまで掘り下げそれまで分からなかった遺構が新たに見つかっていますね。
ずっと深くまで掘り下げると各時代の遺物や焼土が積み重なっているそうですが、後にホテルなどが建ってしまうにしても、調査はありがたいことですね。

書かれた「ren」様のコメントを読ませていただき、それに対するsakura様のお返事からも、この時期我が国を
大飢饉が襲っていたのを知りました。
都の貴族化した平氏とは違い、土着の武士として地方で暮らす源氏の家人達のギラギラした手柄を立てて恩賞に預かりたいという欲望は、時代を打ち壊したいほどの切実な思いが底にあったのでしょうね。

 
 
 
京都市内の建設ラッシュ (sakura)
2019-08-03 16:48:08
その背景には、世界的な好況や金融緩和で膨張した
投資マネーの流入があるといわれています。
特に中国の富裕層らによる京都の宿泊施設への投資が多いそうです。

お書きくださったように、発掘調査によって土の中に眠る
もうひとつの京都の魅力を紹介していただけるのはありがたいことですね。
 
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