goo blog サービス終了のお知らせ
平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
CALENDAR
2025年5月
日
月
火
水
木
金
土
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
前月
翌月
ENTRY ARCHIVE
2021年07月
2021年06月
2021年05月
2021年04月
2021年03月
2021年02月
2021年01月
2020年12月
2020年11月
2020年10月
2020年09月
2020年08月
2020年07月
2020年06月
2020年05月
2020年04月
2020年03月
2020年02月
2020年01月
2019年12月
2019年11月
2019年10月
2019年09月
2019年08月
2019年07月
2019年06月
2019年05月
2019年04月
2019年03月
2019年02月
2019年01月
2018年12月
2018年11月
2018年10月
2018年09月
2018年08月
2018年07月
2018年06月
2018年05月
2018年04月
2018年03月
2018年02月
2017年12月
2017年11月
2017年10月
2017年09月
2017年08月
2017年07月
2017年06月
2017年05月
2017年04月
2017年03月
2017年02月
2017年01月
2016年12月
2016年11月
2016年10月
2016年09月
2016年08月
2016年07月
2016年06月
2016年05月
2016年04月
2016年03月
2016年02月
2016年01月
2015年12月
2015年11月
2015年10月
2015年09月
2015年08月
2015年07月
2015年06月
2015年05月
2015年04月
2015年03月
2015年02月
2015年01月
2014年12月
2014年11月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
2014年02月
2014年01月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年09月
2013年08月
2013年07月
2013年06月
2013年05月
2013年04月
2013年03月
2013年02月
2013年01月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年09月
2012年08月
2012年07月
2012年06月
2012年05月
2012年04月
2011年03月
2011年02月
2011年01月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年09月
2010年08月
2010年07月
2010年06月
2010年05月
2010年04月
2010年03月
2010年02月
2010年01月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年09月
2009年08月
2009年07月
2009年06月
2009年05月
2009年04月
2009年03月
2009年02月
2009年01月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年09月
2008年08月
2008年07月
2008年06月
2008年05月
2008年04月
2008年03月
2008年02月
2008年01月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年09月
2007年08月
2007年07月
2007年06月
2007年05月
2007年04月
2007年03月
2007年02月
2007年01月
RECENT ENTRY
流人時代からの頼朝の側近安達盛長館跡(甘縄神明宮)
源範頼館跡(息障院)
朝日神明社(逆櫓社)
屋島出撃の際、義経が風雨の鎮護を祈願した朝日神明社跡(坂口王子伝承地)
判官松伝承地
源義経が姓を与えた鮒子多(ふじた)家の墓
お断り
判官松之跡・大和田万葉歌碑(住吉神社)
都落ちの義経を見送り咎められた渡辺番(渡辺党)
伝静なごりの橋の碑 辰巳八幡神社
RECENT COMMENT
佐藤 六騎/
平氏六波羅邸跡(平家一門の遺構出土)
空蝉/
義経の八艘飛び
ものづくり科学技術/
那須与一の墓・北向八幡宮・那須神社(その後の与一の足跡)
歴史好き /
崇徳院と寂然・蓮誉
忘れじの言の葉/
那須与一の墓・北向八幡宮・那須神社(その後の与一の足跡)
サムライ鉄の道リスペクト/
屋島古戦場を歩く(景清の錣引き)
サムライ鉄の道/
那須与一の墓・北向八幡宮・那須神社(その後の与一の足跡)
三河の者/
源頼朝の乳父、山内俊通の塚(都ホテル裏山)
シズカ/
京都市の三嶋神社 建春門院滋子
埼玉県の高校教員/
木曽義仲最期の地(粟津の松原・粟津の番所跡)
RECENT TRACKBACK
CATEGORY
義経逃走ルート
(2)
壇ノ浦古戦場・山口県
(25)
源義経の都落ち
(7)
東国
(23)
鎌倉
(25)
神奈川県
(18)
長野県
(3)
北陸
(6)
静岡県
(19)
愛知県
(5)
岐阜県
(3)
大阪府
(34)
三重県
(3)
滋賀県
(20)
京都市
(112)
京都府
(20)
奈良県
(9)
兵庫県
(60)
高野山
(16)
熊野三山・和歌山
(23)
岡山・広島県
(13)
四国
(14)
屋島古戦場
(16)
九州
(27)
義経奥州下り
(11)
平治の乱義朝・常盤・...
(29)
保元の乱・崇徳天皇ゆかりの地
(24)
Weblog
(49)
BOOKMARK
goo
最初はgoo
MY PROFILE
goo ID
mitsue172
性別
都道府県
自己紹介
SEARCH
このブログ内で
ウェブ全て
URLをメールで送信する
(for PC & MOBILE)
白峯神宮 (崇徳天皇)
保元の乱・崇徳天皇ゆかりの地
/
2008-02-01
白峯神宮は明治元年(1868)に明治天皇が父孝明天皇の遺志をつぎ
讃岐の白峰(香川県坂出市)より崇徳上皇の神霊を移し祀ったのがはじまりです。
崇徳上皇は皇位をめぐって弟の後白河天皇と争い、保元の乱で敗れ、
讃岐の配所で崩御し、遺骸は白峰陵に葬られました。
以後、相次ぐ天変地異や源平の争乱は、上皇の祟りと信じられて恐れられました。
幕末、孝明天皇は都に帰ることなく讃岐で亡くなった崇徳上皇の霊を
京都に迎えようとしましたが、果たせず
その遺志を継いだ
明治天皇が明治改元にあわせて、白峯神宮を造営しました。
勅使は讃岐の白峰陵の前で宣命を読みあげ、
上皇の木像とともに神霊を迎えて京都に帰りました。
次いで明治6年、淡路国天王森山陵(兵庫県三原郡南淡町)の
淳仁天皇の霊も合祀されました。
淳仁天皇は藤原仲麻呂の乱に巻き込まれ、
孝謙天皇に対して謀反を計ったという罪で淡路島に流され、
翌年の神護元年(765)配所で崩御しました。
社地はもと蹴鞠、和歌の家元・飛鳥井家の別邸でしたが、
飛鳥井氏が寄付し、飛鳥井氏の鎮守神、毬大明神は摂社に祀られました。
これに因んで毎年七月七日には、毬精大明神祭が行われ蹴鞠が奉納されます。
拝殿
崇徳天皇のファンの寄付によって建てられたという石碑。
秋季例大祭 崇徳天皇祭は九月二十一日に行われ、
十一月十五日には、弓の奉射神事・伴緒社祭もあります。
本殿東の末社、伴緒(とものお)社は保元の乱の際、
崇徳天皇のもとに馳せ参じた源為義・為朝父子の霊を祀っています。
源為義は保元の乱では、子の為朝とともに崇徳院方につきましたが敗れ、
後白河天皇方についた嫡子義朝を頼って降伏します。
しかし、義朝の戦功に代えての助命嘆願もかなわず処刑されました。
源為朝は義朝(頼朝の父)の弟で、武勇に優れ弓をひいては当代随一といわれ、
13歳の時、鎮西(九州)に渡って九州に勢力を張り、鎮西八郎とよばれました。
たまたま上洛していた時に保元の乱が起こり、父とともに崇徳新院方について戦い
大いに奮戦しますが敗れて行方をくらまします。まもなく捕えられ肩と手の関節を抜かれて
伊豆大島に流罪となります。ここで島の代官の婿となって大島はじめ近くの島を
領有して騒ぎを起こし、後白河院の命を受けた討伐軍に攻められ自刃しました。
江戸時代滝沢馬琴によって、壮大なスケールの為朝一代記
『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』が著され人気を博しました。
オガタマノ木(京都市指定天然記念物)は樹齢が八百年と考えられることから、
飛鳥井家の邸宅であった時代に植えられたものと見られています。
5月初めに珍しい花を咲かせ、
その実の形から
巫女が神楽などで使う鈴をかたどったといわれ、
榊が使われる前は、
オガタマノ木
が神前に供えられたとされています。
潜滝社
鞠庭
摂社毬大明神社は、サッカーや球技の神様として信仰され、
球技関係者が参拝に訪れてはボールを奉納しています。
4月中旬、薄黄緑色の花を咲かせる「黄桜」が咲き誇っていました。
崇徳院ゆかりの地(白峯御陵)
崇徳院ゆかりの地(白峯寺)
『アクセス』
「白峯神宮」 京都市上京区今出川通り堀川東入北側 市バス「堀川今出川」下車すぐ
『参考資料』
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社 竹村俊則
「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂
「京都市の地名」平凡社
コメント (
5
)
|
Trackback ( )
«
田中殿跡 (...
西行寺址・観...
»
コメント
多田神社との関わりは
(
hiroann
)
2008-02-01 18:37:54
川西市では清和源氏の発祥の地?として4月だったか、祭りが多田神社を中心に行われていますが、どのような歴史的な背景があるのかご教授を!
読めば読むほど怨霊になるのも当たり前と思ってしまいます!
(
yukariko
)
2008-02-01 22:46:07
白峰神宮の前を通る時に、あまり観光案内には載らないから、どんな由来の神社かしらとと思っていました。
一時は一天万乗の君と仰がれた人が、ここまでされたらそりゃ恨むでしょう!
明治天皇がお祀りになり、一応の名誉回復となって落ち着かれたでしょうか?
気候が良くなってから一度白峰神宮を参ってこようと思います。
摂津の国多田とは川西市にあったのですね!
今回の系図を読んで辞典で調べました。
源満仲…武略に富み、摂津国多田に住して多田氏を称し、家子郎党を養い、清和源氏の基礎を固めた(912~997)
摂津国というと大阪を思いますが、今の大阪が隆盛するのは石山本願寺からですね?
hiroannさんへ
(
sakura
)
2008-02-02 13:56:14
Hiroannさんの故郷ではありませんか。
私の方がご指導を受けたいのですが…
ご自分の故郷のことなのでよくよくご存知だと思いますが
満仲のたんじょうびに斎行される源氏祭りのことですね。
源氏ゆかりの人々に扮した時代行列が多田神社と能勢電多田駅を往復するこの催しは
平成16年4月10日で40回目を迎えたそうです。
村の鎮守でもなく地域に氏子がいないこの神社では
源氏や多田御家人につながる人々に支えられて文化財を守っていらっしゃるそうですが、
どのようにして地元に根付いていくかということが
課題となり、以前は神事中心の祭礼だったのを
住民も参加できるお祭にと考えられたのが
始まりのようです。
参考 平成16年2月5日・産経新聞朝刊
神戸阪神時空散歩・川西
近くには源氏一門が信仰したという満願寺や満仲の子美女丸の身代わりになって斬られた、家臣の子幸寿丸の小童寺や頼光寺と源氏ゆかりの寺社が
あっていいハイキングコースになりますね。
京在住の藤原氏を支える中級貴族だった満仲が
多田に本拠を移し田地を開発、
多田盆地は四方を山に囲まれて防御に優れ、猪名川が灌漑用水をもたらしました。
やがて強力な武士団を編成していきます。
多田神社は多田神社の前身多田院として
満仲が970年に創建したそうです。
三男頼信(河内源氏)は頼義、と二代で
東国での前九年の役・後三年の役を平定し、義家が勢力を拡大、声望も高まり諸国の武士たちは
きそって所領を義家に寄せます。
その勢力に恐れをなした朝廷はこれを禁止します。
壺井八幡宮・通法寺跡近くに源氏三代の墓として
この三人の墓が残っていますが、
ウォ-キング好きのhiroannさんもたずねられたことが、おありになると思います。
源頼朝はこの河内源氏の嫡流。
満仲から数えて7代目です。
次男頼親は大和源氏、
長男頼光は摂津源氏として頼政、行綱へとつながって
いきます。
参考 別冊歴史読本・源義経
yukarikoさんへ
(
sakura
)
2008-02-02 14:02:10
白峰神宮は蹴鞠の宗家が寄進された地なので
サッカー選手やスポーツ選手、源為朝が武勇に優れていたので武術関係の方がお参りされているようです。
後白河法皇は崇徳上皇の怨念を鎮めるために、
保元の乱の戦場であり、崇徳院の御所(白河北殿)に社殿を建立しましたが今は残っていません。
怨霊は古くからとても恐れられ京都には、
上御霊神社・下御霊神社と怨霊沈めの神社がありますね。
摂津国は大阪市、堺市、北摂(一部を除く)
阪神地域(一部を除く)
大山崎の離宮八幡宮近くに関大明神社があります。
ここが山城国と摂津国の国境でした。
離宮八幡宮は嵯峨天皇の河陽宮(かやのみや)址ですが、この宮は造られてから半世紀ほどで山城国の政庁(京都府庁)になりました。
yukarikoさんへ
(
sakura
)
2008-02-02 14:32:45
お返事を書いてから、頂いたコメントを
読み直してもう一つお答えしていないのに、
気がつきました。
一向一揆の本拠地石山本願寺が
今の大阪城の所にありましたが、
石山本願寺の勢いはすごかったそうですし
その跡に大阪城が建てられますから、
ここの辺から大阪は隆盛するのでしょうね。
その前、奈良時代の難波の宮がありますが、
すぐ平城京に首都は移されましたから。
コメントを投稿する
名前
タイトル
URL
コメント
※絵文字はjavascriptが有効な環境でのみご利用いただけます。
▼ 絵文字を表示
携帯絵文字
リスト1
リスト2
リスト3
リスト4
リスト5
ユーザー作品
▲ 閉じる
コメント利用規約
に同意の上コメント投稿を行ってください。
コメント利用規約に同意する
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。
goo ブログ
編集画面にログイン
ブログの作成・編集
gooおすすめリンク
おすすめブログ
【コメント募集中】「ヌメ活」をしていますか?
@goo_blog
【お知らせ】
【11/18】goo blogサービス終了のお知らせ
【PR】プロ直伝・dポイントをザクザクためる術
【PR】安い&大量の「訳あり商品」がヤバい!
【PR】ドコモのサブスク【GOLF me!】初月無料
【コメント募集中】「ヌメ活」をしていますか?
一時は一天万乗の君と仰がれた人が、ここまでされたらそりゃ恨むでしょう!
明治天皇がお祀りになり、一応の名誉回復となって落ち着かれたでしょうか?
気候が良くなってから一度白峰神宮を参ってこようと思います。
摂津の国多田とは川西市にあったのですね!
今回の系図を読んで辞典で調べました。
源満仲…武略に富み、摂津国多田に住して多田氏を称し、家子郎党を養い、清和源氏の基礎を固めた(912~997)
摂津国というと大阪を思いますが、今の大阪が隆盛するのは石山本願寺からですね?
私の方がご指導を受けたいのですが…
ご自分の故郷のことなのでよくよくご存知だと思いますが
満仲のたんじょうびに斎行される源氏祭りのことですね。
源氏ゆかりの人々に扮した時代行列が多田神社と能勢電多田駅を往復するこの催しは
平成16年4月10日で40回目を迎えたそうです。
村の鎮守でもなく地域に氏子がいないこの神社では
源氏や多田御家人につながる人々に支えられて文化財を守っていらっしゃるそうですが、
どのようにして地元に根付いていくかということが
課題となり、以前は神事中心の祭礼だったのを
住民も参加できるお祭にと考えられたのが
始まりのようです。
参考 平成16年2月5日・産経新聞朝刊
神戸阪神時空散歩・川西
近くには源氏一門が信仰したという満願寺や満仲の子美女丸の身代わりになって斬られた、家臣の子幸寿丸の小童寺や頼光寺と源氏ゆかりの寺社が
あっていいハイキングコースになりますね。
京在住の藤原氏を支える中級貴族だった満仲が
多田に本拠を移し田地を開発、
多田盆地は四方を山に囲まれて防御に優れ、猪名川が灌漑用水をもたらしました。
やがて強力な武士団を編成していきます。
多田神社は多田神社の前身多田院として
満仲が970年に創建したそうです。
三男頼信(河内源氏)は頼義、と二代で
東国での前九年の役・後三年の役を平定し、義家が勢力を拡大、声望も高まり諸国の武士たちは
きそって所領を義家に寄せます。
その勢力に恐れをなした朝廷はこれを禁止します。
壺井八幡宮・通法寺跡近くに源氏三代の墓として
この三人の墓が残っていますが、
ウォ-キング好きのhiroannさんもたずねられたことが、おありになると思います。
源頼朝はこの河内源氏の嫡流。
満仲から数えて7代目です。
次男頼親は大和源氏、
長男頼光は摂津源氏として頼政、行綱へとつながって
いきます。
参考 別冊歴史読本・源義経
サッカー選手やスポーツ選手、源為朝が武勇に優れていたので武術関係の方がお参りされているようです。
後白河法皇は崇徳上皇の怨念を鎮めるために、
保元の乱の戦場であり、崇徳院の御所(白河北殿)に社殿を建立しましたが今は残っていません。
怨霊は古くからとても恐れられ京都には、
上御霊神社・下御霊神社と怨霊沈めの神社がありますね。
摂津国は大阪市、堺市、北摂(一部を除く)
阪神地域(一部を除く)
大山崎の離宮八幡宮近くに関大明神社があります。
ここが山城国と摂津国の国境でした。
離宮八幡宮は嵯峨天皇の河陽宮(かやのみや)址ですが、この宮は造られてから半世紀ほどで山城国の政庁(京都府庁)になりました。
読み直してもう一つお答えしていないのに、
気がつきました。
一向一揆の本拠地石山本願寺が
今の大阪城の所にありましたが、
石山本願寺の勢いはすごかったそうですし
その跡に大阪城が建てられますから、
ここの辺から大阪は隆盛するのでしょうね。
その前、奈良時代の難波の宮がありますが、
すぐ平城京に首都は移されましたから。