平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



玉龍山泉橋寺(せんきょうじ)は山城町の南端、泉大橋の北詰、
木津川の堤防下にある浄土宗の寺で俗に橋寺とよんでいます。

天平13年(741)に行基が泉川(木津川)に橋を架けた時、
供養のために建立した橋寺で、これに因んで寺名を泉橋寺としました。
以後、行基が建てた五畿内四十九院の一つとして長く橋の管理にあたりました。
往時は寺域も広く、本堂以下五重塔・鐘楼・経蔵・鎮守社
・方丈など多くの建物がありましたが、
治承4年(1180)平重衡の南都攻めの時に焼失しました。
その後金堂・講堂などが再建され、東・北・西の3方に堀をめぐらし
堀の外北東には五重の塔があったという。
しかし、寺は中世の兵火で次第に衰微していきました。

大正7年(1918)の発掘調査で寺より東北100mの畑の中に
創建当時の塔心礎が発見されています。

京都と大阪を結ぶ国道24号線の木津川に架けられた泉大橋。
行基によって泉橋寺の門前に架けられた橋は、川の流れが早いため、
洪水の際、たびたび流されるので、貞観18年(1893)朝廷は
船三艘を購入して泉橋寺に施入し、人馬の渡しに備えていました。

桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川になる三川合流地
右岸側を大山崎という。三川合流地点から25㎞。


表門

日文研HP 『拾遺名所都図会』巻四 画像66より転載。

江戸後期の『拾遺名所都図会』の挿絵で見る寺は地蔵堂を主とし、
表門・庫裡および地蔵石仏からなっていますが、
現在は地蔵堂は観音堂となり、新たに本堂兼庫裡が建っています。
本堂には、鎌倉時代作の本尊地蔵菩薩立像を安置しています。
この像は上半身は裸形で、下半身に
裳(も=腰部につけるスカート状の衣服)をまとっている珍しいものです。

観音堂

本堂兼庫裡

『拾遺名所都図会』の挿絵に「神功皇后塔」としるした石塔、
かつて光明皇后の遺髪塔といわれた五輪石塔は、境内の東南隅にあります。

南都焼討の犠牲者を供養した五輪塔(重要文化財、鎌倉時代、高さ 2・4m)

基壇の側面を二区に分かち、格狭間を入れ、四方とも束・羽目・地覆を
一石で組み立てているのを特色とする。古来光明皇后の
遺髪塔といわれてきたが、先年移転に際して多くの遺骨が発掘され、
治承四年(1180)平重衡の南都攻めの折の犠牲者の
供養塔であることが分かった。(『新撰京都名所圖會 巻6・洛南2』)

「格狭間(こうざま)」須弥壇 (しゅみだん) や仏壇などの
基壇部の側面を装飾するために施された刳 (く) り物。

「壇上積」直角に加工した石材を規則的に積み上げた基壇です。
積み上げる石は、もっとも下層が「地覆石(じふくいし)」、
次に「羽目石(はめいし)」「束石(つかいし)」、
そしてその上に「葛石(かつらいし)」と積層構造になっています。
「反花(かえりばな)座」 仏像の蓮華座で上向きについた蓮弁。


寺の入口西側(左手)の山城大仏と称される地蔵石仏は
鎌倉時代作の花崗岩の巨大な丈六(458Cm)座像です。兵火を浴びて
仏身は焼けただれていますが、なお鎌倉時代の様式をとどめています。



泉橋寺
泉橋寺は、奈良時代の高僧・行基によって、木津川に架けられた
泉大橋を守護・管理するために建立された寺院である。
その門前にある地蔵石仏は、永仁三年(1295)に石材が切り始められて、
その十三年後の徳治三年(1308)に地蔵堂が上棟・供養されたもので、
またその願主は般若寺の真円上人であった。その時、
地蔵石仏の本体は ほぼ完成していたとみられるが、台座と光背は、
その後に完成が目指されたもので、この地蔵石仏の造立が
いかに大がかりなものであったかが偲ばれる。
一四七0年頃から応仁の乱の影響が南山城地域にも及び、
文明三年(1471)に大内政弘の軍勢が木津や上狛を攻めて
焼き払った際に、泉橋寺地蔵堂も焼かれて石仏も焼損、それ以来
地蔵石仏は露座のままとなっている。現在みる地蔵石仏の頭部と両腕は、
元禄三年(1690)に補われたものである。(説明板より)

平重衡南都焼討ち(般若寺・奈良坂・東大寺・興福寺)  
『アクセス』
「泉橋寺」 京都府木津川市山城町上狛西下55
JR上狛(かみこま)駅より徒歩約17分。
または、コミュニティーバスで山城線(木津駅行きのみ停車)泉大橋下車、徒歩約3分。

『参考資料』
竹村俊則「新撰京都名所圖會 巻6・洛南2」白川書院、昭和40年
竹村俊則「今昔都名所図会(洛南)」京都書院、1992年
「京都府の歴史散歩(下)」山川出版社、1999年

 

 

 



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