平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



神亀元年(724)、流刑の制が定められ、罪科の軽重によって、
配流に遠流(おんる)中流(
ちゅうる)・近流(こんる)がしかれました。
伊豆、安房(あわ)、常陸(ひたち)、佐渡、隠岐(おき)とともに
土佐は遠流の国となり、応天門の変に連座した紀夏井、
保元の乱の藤原師長(もろなが)、平治の乱の
源希義(まれよし)、承久の乱の土御門上皇、元弘の乱の
尊良(たかよし)親王(後醍醐天皇の皇子)などが当国に流されました。

治承4年(1180)、土佐国は清盛の弟の教盛(のりもり)の知行国となり、
頼盛(清盛の弟)の子の仲盛が土佐守となり、
平家が土佐国を支配するようになりました。
土佐における源平の争乱は、介良(けら)荘に流された
源希義(頼朝の同母弟)が平重盛の家人に討たれたことに始まります。
介良荘は長岡郡南部にある荘園で走湯山(そうとうざん)密巌院の所領でした。
密巌院は、頼朝が挙兵前から帰依したとされる文養坊覚淵によって
創建された走湯山(伊豆山神社の古名)の別当寺です。
希義の遺骸を葬った介良の琳猷(りんゆう)も頼朝に報告に行く時、
密巌院の住僧良覚を介して事情を説明しています。
(『吾妻鏡』文治元年3月27日条)


その後、夜須(やす)行家(のち行宗)の先導する源有綱(頼政の孫)軍の
土佐入国があって、土佐の武士は源氏に荷担するものが多くなり、
壇ノ浦の戦いでは、夜須行宗のほか義経の軍に従っていた
安芸郡司の出自をもつ安芸時家・実光(さねみつ)兄弟は、
平教経(のりつね)と組討して海中に没したと伝えられています。

治承4年に頼朝が平家追討の挙兵ののち、寿永元年(1182)9月25日、
重盛の家臣で土佐国住人の蓮池家綱・平田俊遠らが平治の乱で
土佐国介良に流されていた希義の挙動を警戒して討伐に向かい、
希義は介良から同志の夜須七郎行家を頼って夜須荘へ向かう途中、
年越山(現、南国市鳶(えん)ヶ池中学校辺)で最期を遂げたと伝えられています。

行宗は希義が家綱らに包囲されたと聞き一族を率いて
希義の救援に向かいましたが、
野宮(現、香南市西野の野々宮神社)まで
きたとき、希義が討ち取られたと知り引き返しました。
家綱と俊遠が行宗を討つため兵を進めたので、
行宗は追手を避けて仏ヶ崎(現、夜須町手結)から
船を用意して一族で乗り込み海上を逃がれます。

家綱らは二人の使者を行宗の船に派遣し、偽りの甘言をもって
投降を促しますが、その意図を見抜いた行宗は使者の首を斬り、
紀伊(現、和歌山県)を経由して鎌倉の源頼朝の下に赴き、
事情を報告しそのもとで源平の戦いに参加します。
頼朝は早速、行宗を道案内に伊豆右衛門尉(源)有綱に
土佐の出兵を命じ、家綱らを討たせました。
家綱は行宗の弟小塚八郎に討たれたという。
以後、土佐では源氏の勢力が強くなります。

夜須七郎行宗は石清水八幡宮領夜須荘の荘官でした。
夜須荘は現在の香南市夜須町東南部の海岸から北に広がる荘園で、
石清水八幡宮は源氏の氏神であったため、行宗は源氏に心を寄せたといわれています。

夜須町(土佐国香美郡夜須荘、現・香南市夜須町)は高知県のほぼ中央に位置し、
三方を山に囲まれ町の中央を流れる夜須川の流域に広がっています。

夜須川下流東岸、出口(いでぐち)の城山に行宗の居城という下夜須城址があります。

夜須駅の南側から下夜須城址のある城山を望む。

駅の南側には、人工海水浴場が広がっています。
ここから東へのびる臨港道路を行くと手結(てい)港という港があります。





行宗が船出した場所と伝えられる仏ヶ崎(仏岬)は、手結港の入口に架けられている
可動橋(かどうきょう)端から海側に降りたところにあります。
この橋は港から海への出口に設置されていて、
決まった時間帯だけ道路になるという跳ね橋です。

文治3年(1187)3月10日、夜須行宗と梶原景時との間で論争が起こりました。
それは
壇ノ浦合戦の時、平氏の家人岩国兼秀・兼末兄弟を
生け捕りにし、行宗が恩賞を申しでましたが、
景時は「行宗は戦場にはいなかった。兼秀兄弟は
自ら投降してきたのである。」と横槍をいれました。
そこで行宗は壇ノ浦合戦の時は春日部兵衛尉と同じ船に乗っていたと
述べたので、頼朝は春日部を呼び出して尋問したところ、
行宗と同乗していたと証言したので、行宗の言い分が認められ、
景時は罰として鎌倉中の道路を整備するように命じられたという。

『吾妻鏡』文治4年(1187)3月15日条によると、
頼朝が鶴岡八幡宮の大般若供養に出席した際、有力御家人に続いて
隋従した隋兵30人の中に、行宗の名がみえます。
建久元年(1190)7月には、蓮池家綱・平田俊遠打倒や
たびたびの戦功によって頼朝から夜須荘の
本領安堵(頼朝の御家人となり荘園の領有権を認められる。)の
下文(くだしぶみ)を与えられました。
『アクセス』
「手結港」香南市夜須町手結
土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線 「夜須駅」下車徒歩約10分
『参考資料』
 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年
現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館、2008年
現代語訳「吾妻鏡」(3)吉川弘文館、2008年
現代語訳「吾妻鏡」(4)吉川弘文館、2008年
梶原等「梶原景時 知られざる鎌倉本體の武士」新人物往来社、2000年
「高知県の地名」平凡社、1983年
図説「高知県の歴史」河出書房新社、1991年
「高知県の歴史散歩」山川出版社、2006年
「国史大辞典」吉川弘文館、平成1年

 

 

 



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