平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




宇佐神宮は全国八幡宮の総本社です。当初は宇佐地方の
地域神であったと思われますが、朝廷が大隅・日向の隼人を討伐した際、
宇佐八幡の神軍も出陣して乱を鎮め、中央に知られるようになりました。
奈良時代になると、東大寺の大仏建立、道鏡の皇位継承事件に託宣を下し
徐々に朝廷の信頼を獲得し、国家神としての地位を確立していきました。

平安時代始めには、当宮の分霊を勧請して都付近に
石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊)が造営され、
八幡信仰は広がりを見せます。特に源氏との関りが深くそ
の氏神となり、
武士たちによって各地に勧請され八幡信仰は普及しました。

神領は徐々に荘園化し、平安時代末期には、九州最大の荘園を有していました。
宇佐大宮司公通自らも平田井堰(せき)を築き、宇佐領の開発に努めています。
これは現存する中では、大分県で最古の堰で、宇佐宮の西麓に位置する
駅館川(やっかんがわ)西側の33の村、654町歩の平野をうるおすものでした。
この地域は降雨量が少なく水に恵まれない土地でしたが、公通は土木技術が
低い当時でも比較的簡単に水を引くことができた平野部の開発を進めたのです。

このころ、公通(きんみち)は大宰府を掌握した清盛と密接な関係を保ち、
仁安元年(1166)に大宰権少弐、安元2年(1176)対馬守、
治承4年(1180)には、豊前守に任じられるなど宇佐宮の全盛期を築きました。
宇佐宮は近衛家を本家としていましたが、本家が平家勢力下に入ったため、
公通は積極的に平家と結んで宇佐宮の発展をはかろうとしたのです。
このように、この頃までの豊前の歴史は宇佐宮を中心にして発展してきました。

17歳の時、平経正は宇佐八幡宮の奉幣の勅使を仰せつかって九州へ下る際、
青山(せいざん)の琵琶を賜り参詣しました。
古くから宇佐八幡への勅使は即位の報告には、和気清麻呂の子孫である
和気氏が派遣され、それ以後、3年ごとに奉幣使が立てられましたが、
石清水八幡宮が成立して以降は
天皇即位の報告に一代に一度だけ差し遣わされました。
経正が遣わされたのは、高倉天皇即位の仁安3年(1168)5月、
和気相貞(すけさだ)が正使の時と思われます。

経正は経盛(清盛の弟)の嫡子で経俊・敦盛の兄にあたり、幼少より詩歌管弦、
特に琵琶に優れ、元服するまで仁和寺に童として仕えていました。
青山というのは、平安時代の初め頃、唐から朝廷に献上された琵琶の名器です。
その後、帝から仁和寺に与えられ、琵琶の才能を見出され
覚性法親王(ほっしんのう)
から経正に下されたものでした。

「義仲追討のため副将軍として経正は北陸道へ下る途中、
竹生島に参詣し弁才天の前で琵琶の秘曲を弾いたところ、弁才天がそれに応え
白竜の姿となって経正の袖に姿を現した。」というエピソードを
『巻7・経正竹生島参詣』は伝えています。

ところが、経正が宇佐八幡宮へ勅使として派遣され、八幡の神殿に向かい、
青海波(せいがいは)の秘曲を弾いたところ、琵琶の音色に居並ぶ神官たちは
みな涙で衣の袖を絞りましたが、宇佐の神は何も反応しませんでした。
宇佐の神が反応したのは、九州へ落ち延びた平家一門が宇佐に入った時のことです。
公通や宇佐一族の館、寺院などを宿所にし、頼みにしていた宇佐八幡宮に
参籠して平家再興の祈願を執り行いました。その7日目の明け方、
宗盛は夢の中でお告げをうけました。
宝殿の扉が開き、気高い声で、

「世の中の うさには神も なきものを 何祈るらむ 心づくしに」

(憂き世には 神も力が及ばぬものを、心を尽くして
いったい何を宇佐の神に祈っているのか。)と
平家一門を見放したような冷たい神託が下されました。

一の谷合戦に敗れた平氏が屋島に退いて態勢を立て直そうとしていた頃の
元暦元年(1184)7月、宇佐宮と緒方荘の上分米(上納される年貢米)で
対立関係にあった緒方惟栄(これよし)・臼杵惟隆兄弟らが宇佐宮を
焼討ちするという大事件が起きました。緒方惟栄らは神殿に乱入し
御験(みしるし)や御正体(みしょうたい)・神宝を奪いとり、
宇佐神人を殺害するなどの狼藉を働き宇佐宮の権威は失墜しました。
この暴挙は大問題となり、いったん惟栄らは配流されますが、
平家追討の功績により非常の恩赦を得ています。

平家滅亡によって、平家方であった公通は窮地に立たされますが、
源氏の氏神である「八幡神」を大切にしていた頼朝は、
宇佐八幡宮に対して寛大な措置をとり、社殿復興に協力し、
大宮司職を公通(公通の子公房とも)に安堵しています。

こうして宇佐宮は鎌倉幕府成立後も頼朝の保護によって急激な
勢力失墜はまぬがれましたが、ペナルティとして、頼朝は大宮司体制の弱体化を進め、
建久3年(1192)には、焼失した弥勒寺金堂の造営を公通に命じています。
鎌倉時代になると、平安末期から顕著となっていた
神官層の武士化はいっそう進んでいきます。
宇佐神宮写真集(1)  
宇佐神宮写真集(2)  
参考資料』
「県史44大分県の歴史」山川出版社、1997年 渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年
 「大分県の地名」平凡社、1995年 「大分県の歴史散歩」山川出版社、2000年
 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年
 現代語訳「吾妻鑑」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年

 



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