平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




関蝉丸神社は、上社・下社と二社あります。
逢坂山頂上付近にある上社(祭神猿田彦命・蝉丸)と
逢坂山の東麓、大津側の下社(祭神豊玉姫命・蝉丸)です。
逢坂山は平安京の東の入口にあたり、都を守る逢坂の関がおかれていました。
社伝によれば、弘仁13年(822)
小野朝臣峯守が逢坂山を往来する旅人の守護神として
山上・山下に創建したのを始まりとし、関の鎮守として建てたとされています

この両社に天慶9年(946)、古代からの祭神・猿田彦命と豊玉姫命に
蝉丸が合祀され、歌舞音曲の神として人々の信仰を集めました。

蝉丸は能・紀行・名所図会などに登場し、様々な伝説に彩られて
広く知られていますが、出自、没年とも不詳です。
『今昔物語集』や謡曲『蝉丸』によると、目が不自由であったとされ、
『平家物語』では、醍醐天皇の皇子、『今昔物語集』では、
宇多法皇の皇子・敦実親王の従者で、音曲に優れた敦実親王の
下で働くうちに琵琶の名手となったと記されています。
『後撰集』の詞書によれば、逢坂の関のそばに
庵をかけて住んでいたことがうかがわれ、『無名抄』には、
逢坂の関にある明神様は、蝉丸の庵の跡と伝えています。
琵琶法師はこの蝉丸を自分たちの祖神として崇めていました。

一の谷合戦で捕虜となった平重衡(清盛の5男)を下向させるよう頼朝がしきりに
要求するので
、寿永3年(1184)3月10日、鎌倉に送られることになりました。
護送役は梶原景時です。一行は都の出口・粟田口から、四宮河原を通りすぎ
東海道を下って行きます。それを平家物語は「海道下」という美しい文で綴り、
その中に重衡の心情をあらわしています。
四宮河原は昔、醍醐天皇の第四皇子・蝉丸が庵を結び
逢坂の関の嵐に心をすませ琵琶を弾いた所です。
そこへ源博雅という琵琶の名手が、風の吹く日も吹かぬ日も、
雨の降る夜も降らぬ夜も、三年間、毎日通い続けて耳をすませ、
琵琶の秘曲とされる三曲(流泉・啄木・楊真操)を伝えたということです。
その昔の出来事や蝉丸が侘住まいした藁(わら)家なども思い出されて、
いっそう感慨深いものがあります。

逢坂山を打ち越えて、勢田の唐橋駒もとどろに踏みならし、
ひばりあがれる野路の里(草津の南)、志賀の浦波春かけて、
霞にくもる鏡山、比良の高嶺を北にして、伊吹の嶽も近づきぬ。
心を留むとしなけれども、荒れてなかなかやさしきは、
不破の関屋の板びさし、いかに鳴海の汐干潟、
涙に濡れて行くうちに、あの在原業平が『伊勢物語』で、
「か・き・つ・ば・た」の五文字を歌の各句の上に据えて
♪唐衣きつつなれにし妻しあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思う と詠んだ地、
かきつばたの名所三河国の八橋(愛知県知立市)にさしかかっても
物思いは尽きぬまま、いつしか浜名湖を渡り、
池田の宿(静岡県磐田市池田)に着きました。(巻十・海道下)

今回は重衡がその道すがら偲んだ蝉丸ゆかりの関清水蝉丸神社を訪ねましょう。

京阪電車の踏切を渡って境内に入ります。

鳥居をくぐると右手に蝉丸の歌碑が建っています。

♪これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関と
多くの旅人が逢坂の関を行き交う様子を詠んだ歌は、
小倉百人一首に収められています。


境内には歌枕として知られる関の清水があります。
♪逢坂の関の清水に影みえて 今や引くらむ望月の駒 紀貫之

琵琶法師の信仰を集めてきた関蝉丸神社下社の拝殿

拝殿の奥に建つ本殿

本殿横の六角形の時雨燈籠(国重文)



社殿横の小道を上ると小町塚があります。

小町塚
花濃以呂は宇つりにけりないづらに わが身世にふるながめせしまに
碑文はレファレンス協同データーベースよりお借りしました。

小野小町は関寺で晩年を過ごしたと言われ、
関寺を舞台にした謡曲「関寺小町」があります。
関寺はかつて逢坂関の東側にありましたが、平安時代中期に大地震で倒壊し、
その跡地に長安寺(大津市逢坂2-3-23)が建てられたといわれています。
『アクセス』
「関清水蝉丸神社」 滋賀県大津市逢坂1ー15-6 

 京阪電鉄・京津線「上栄町駅」下車 徒歩 10 分
上栄町駅から国道161号線を南(京都方面)に進むと右手に見えてきます。
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
 水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会 増田潔「京の古道を歩く」光村推古書院
新潮日本古典集成「謡曲集」(中)新潮社 「滋賀県の地名」平凡社



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