平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




来迎寺は源頼朝が衣笠城で戦死した三浦大介義明の霊を弔うために
建久五年(1194)真言宗能蔵寺を建立、その後、建武二年(1335)時宗に改宗し

寺号も来迎寺と改められました。
来迎寺は坂東33観音第14番札所です



本堂には三浦義明の守護仏、本尊の阿弥陀三尊像と聖観音像が安置され、
本堂の右手には鎌倉末から南北朝時代のものといわれる高さ2m程の五輪塔が
2基並んでいます。三浦義明とその孫多々良三郎重春の墓です。

多々良三郎重春は、石橋山敗戦後に三浦一族と共に本拠地衣笠へ引き返す途中、
由比ヶ浜で遭遇した当時平家方だった畠山重忠と戦い犠牲となった武将で、

多々良(横須賀市鴨居字多々羅浜)を本拠地とする多々良義春の子息です。





頼朝は源氏再興で犠牲となった三浦大介義明のために
満昌寺(横須賀市大矢部)と来迎寺を建立したことになります。
また石橋山合戦で討死にした岡崎義実の嫡子佐奈田義忠(三浦義明の甥)の

菩提を弔うために真言宗証菩提寺(横浜市栄区上郷)を創建しています。

証菩提寺の略縁起によれば石橋山で戦死した佐奈田与一義忠の霊を弔うため、
文治五年(1189)に頼朝が開いたと伝えています。このように頼朝は挙兵の際、
戦死した三浦一族のために三ヶ寺を建立し手厚く祀っています。
石橋山合戦では北条時政の長男宗時が伊東祐親の手勢に討たれていますが、
頼朝が宗時を弔う寺を建てたという記録はありません。


三浦義明が名乗っていた大介(おおすけ)というのは、
国司の次官の名称で、職掌はすべて守(長官)と同じですが、
平家の世においては、義明が源氏より与えられた相模大介職は
官名ばかりで実権を伴わないものであったと思われます。
新潮社の『平家物語(中)』の頭注には、
「大介」とは、
在地の役人の職と書かれています。

(三浦大介義明は、)治承4年(1180)頼朝の召に応じて子義澄らを遣わしたが、
石橋山の敗戦で帰郷の途次、畠山重忠の軍を襲った為、重忠らに三浦の居城
衣笠城を包囲された。防守の望みを失ったので、義澄らの一族を脱出させて
頼朝のもとに赴かせひとり城に留まって善戦したが、ついに陥落して
悲壮な最期を遂げ、源氏のために忠を尽した。
石橋山の戦いで平家に敗れた頼朝は、海路安房に渡り再挙を図り、
関東各地の源氏家人の加勢を得、義澄らとともに鎌倉に拠って
策源地と定めた。後、征夷大将軍となり鎌倉幕府を創建したのである。
この国家大業の成就の陰には義明の先見の叡智と偉大な人徳によるところ
ただいである。鎌倉幕府の成否は義明によって決したと断ずるも過言ではない。
後に頼朝が義明あるいは一族に対する報謝の意が実に数々の
温情の行業に伺われる。義明が後に「三浦大介百六ツ」と呼ばれる由来は、
頼朝が衣笠の満昌寺において義明の17回忌法要を供養したとき、
義明がまだ存命して加護していてくれるのだ。という心からの事で
自刃したときの89才と17年を加えた数と思われる。
(来迎寺説明板より抜粋しました)
満昌寺(三浦大介義明の墓)  
 
『アクセス』
「来迎寺」鎌倉市材木座2-9-19
JR鎌倉駅東口から九品寺循環バス「五所神社」下車徒歩約5分
バス停向かいの薬屋と駄菓子屋の間の路地を入り
突き当りを左に曲がります。
『参考資料』
「神奈川県の歴史散歩」(下)山川出版社 「三浦一族の史跡道」三浦一族会鈴木かほる
「三浦一族と相模武士」神奈川新聞社 鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社
「神奈川県の地名」平凡社 「官職要解」講談社学術文庫
新潮日本古典集成「平家物語(中)」新潮社
 
 
 
 

 

 
 





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