平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




「衣笠城趾」でバスを下り、バスの進行方向に歩くとやがて見えてくる信号を左折し
しばらく進むと道路沿いに臨済宗義明山満昌寺があります。
満昌寺は、衣笠城で戦死した三浦大介義明を弔うために源頼朝が建立し、
寺号は義明の法号に因み
「満昌寺」と名付けられました。

 

『吾妻鏡』建久5年(11949月29日条によると頼朝は義明を弔うために、
三浦矢部郷内に一堂を建立しようとして、仲原仲業に候補地の検分を命じています。
これが満昌寺の創建の基といわれています。


山門をくぐると本堂左手前に頼朝手植えといわれる大きなツツジの木があります。

本堂には本尊の宝冠釈迦如来坐像が安置されています。

御霊神社
境内裏山には建暦二年(1212)、和田義盛が建立したと伝える御霊(明)神社があり、
堂内は宝物殿も兼ねていて三浦義明の坐像が祀られています。


御霊神社の裏手、瓦塀に囲まれた義明の廟所には、義明の宝篋印塔、
右側の五輪塔が義明の妻の供養塔、左側に板碑が一基あり、
いずれも鎌倉時代のものです。

板碑(いたび)とは中世、主に関東で死者の追善のために立てられた
平らに加工された石で作られた卒塔婆をいいます。

義明の首塚といわれる宝篋印塔

(義明像は境内説明板の写真を撮影しました)

木像三浦義明坐像(国指定重要文化財)は、満昌寺の境内にある
御霊明神社に伝蔵されている。三浦義明は後三年の役で八幡太郎義家に
したがって勇名をはせた為継の孫で、治承四年(1180)頼朝の平家追討の
旗上げのさい源氏側に立ち、同年八月、平家勢の攻撃をうけ衣笠の地で
八十九歳で戦死。その後の三浦一族の繁栄の礎となった。
像は玉眼入り寄せ木造り、八十一・四㎝。両手先及び両足先などは差込み、
彩色は殆ど剥落(はくらく)している。頭頂に冠をのせ、右手に笏(しゃく)を
もって安坐し、腰にはたちを佩(は)く。長い顎ひげをはやした面部は、
気迫のこもった老人の表情をたくみに表出する。

特につりあがった目、頬から口元にかけての写実的な彫技は
この像をいきいきとさせている。制作の時期は鎌倉時代末期と
推定されており、
武人俗躰肖像彫刻として類例まれな等身大の
この像は、極めて貴重な存在であり、
没後祖霊として祀られ
神格化された、やや異質な武人彫像の古例としても重要である。

横須賀市教育委員会  (境内説明板より)
尚、宝物殿拝観には事前の予約が必要です。

寛延二年(1749)三浦氏の子孫三浦志摩守義次が満昌寺を整備し、
寛政十年(1798)には同じく子孫の三浦長門守為積が満昌寺に参詣し、
御霊神社に石灯籠を献じた。(義明廟所内手前の石灯籠)
また三浦氏の子孫には、徳川家康の側室となって紀伊藩祖頼宣、

水戸藩祖頼房を生んだ三浦於万(おまん)がいます。
水戸光圀は於万の孫にあたります。宝治の乱で三浦氏嫡流は滅亡しましたが、
北条氏側について生き残った盛連が宗家の三浦介を継ぎました。
盛連の父佐原十郎義連は三浦義明の末子で、
武勇と思慮を兼ね備えた人物として知られています。
この盛連の子孫が新井城主三浦義同(よしあつ)であり、
その義同の後胤が養珠院於万というわけです。伊豆韮山の代官江川太郎左衛門の

養女となった於万は、三島本陣における宴席で
徳川家康の目にとまり側室となって大奥に入ったという。
来迎寺(三浦大介義明の墓)  
『アクセス』
「満昌寺」神奈川県横須賀市大矢部一丁目 
JR横須賀市駅より三崎又は長井行きバス「衣笠城趾」下車 徒歩約10分
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社 「神奈川県の歴史散歩」(上)山川出版社 
現代語訳「吾妻鏡」(6)吉川弘文館 鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社
 「三浦一族の史跡道」三浦一族研究会鈴木かほる
 

 

 
 
 
 





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