平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




三浦大介義明の廟所がある満昌寺前の道を向かい側に渡り、
小道に入ると木立に囲まれた鎌倉円覚寺末寺の清雲寺(臨済宗)があります。
この寺は、三浦義継が父為継の冥福を祈って建立したと伝えられ、
本堂裏にある廟所には、中央に三浦為継墓、
父為通、子義継の墓と伝えられる五輪塔が三基あります。

左右の二基は、昭和14年(1939)旧日本軍の施設をつくるために接収され
廃寺となった付近の円通寺跡から和田九十三将のものといわれる
五輪塔とともに移されたものです。左右いずれが為通、義継の墓か不明ですが、
いずれも擬灰岩製で鎌倉時代の様式を示しています。


本堂

本堂裏に墓所があります。


中央が三浦為継、左右が父の為通、子の義継の五輪塔と伝えられ、
ともに鎌倉期のものです。

為通は桓武平氏の流れをくみ、康平六年(1063)源義家より三浦の地を賜り、
衣笠城を築いた武将で、為継、義継も源氏に従い
共に武勇に優れた武将でした。


本尊の滝見観音像(国重文)は三浦氏が宋から
請来したといわれている渡来仏です。もとは円通寺の本尊でしたが、
江戸後期この寺に移され、その後、清雲寺の本尊となりました。
像は中国産の桜桃の寄木造で膝を立てた半跏(はんか)像です。

本堂内滝見観音像脇に安置されているもとの本尊である毘沙門天像は、
運慶派の仏師の手になる鎌倉後期の作とされ、
和田合戦の時に姿を現して敵の矢をうけたことで
「箭請(やうけ)毘沙門天」とよばれています。

和田合戦とは侍所別当和田義盛一族が滅亡した戦いです。
その発端となったのは、建保元年(1213)二月信濃の武士
泉親衡(ちかひら)が二代将軍頼家の遺児の一人千寿を
将軍に擁立しようとして失敗し、この事件に関係した和田義盛の息子
義直・義重、甥和田 胤長らが捕えられました。
上総伊北庄にいた義盛は鎌倉に駆けつけて実朝に懇願すると、
実朝はこれまでの義盛の功に免じて息子二人を釈放しましたが、
甥の胤長は事件の張本人であるとして許されず陸奥へ流罪となりました。

この事件を北条義時は、和田義盛を滅ぼす好機ととらえ、
策謀をめぐらし義盛が謀反を起こすように追い込んでいきました。
建保元年(1213)五月、義時の挑発にのってとうとう和田義盛が幕府、
義時邸を襲いました。ところがこの合戦の前に起請文まで出していた
三浦義村が北条氏に分があるとみて直前になって北条側に寝返ったため、
合戦は二日間で終結し義盛は討たれ一族は壊滅しました。
後年、三浦義村と下総の豪族千葉介胤綱の間に口論があった際、
「三浦の犬は友を喰うぞ。」と吐きすてたという。
これは義村が従兄弟義盛を土壇場で裏切り、
北条方に寝返ったことへの皮肉です。

『アクセス』
「清雲寺」神奈川県横須賀市大矢部5-9 満昌寺の西南の地にあります。
JR横須賀駅より三崎・長井行き衣笠城趾下車 徒歩約17分
満昌寺前から次の信号、自動車修理工場と民家の間の路地をはいります。
『参考資料』
「神奈川県の歴史散歩」(上)山川出版 「神奈川県の地名」平凡社 
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 「三浦一族の史跡道」三浦一族研究会鈴木かほる
 鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社

 

 
 
 



 

 

 
 

 

 

 

 

 



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