コメント
 
 
 
頼朝にとって何物にも代え難くありがたい人だったのでしょうね。 (yukariko)
2010-08-18 22:08:03
でも、人生の大半を苦難と失意に過ごし、ほん一かけらの勝運を必死にわが手に掴み取った成功を思い返す時、その最大の恩人に報いたくなるのが人の常だと思いますが、頼朝は来し方からして疑り深く、かなり複雑な性格だと思うのです。
北条宗時が伊東祐親の手勢に討たれても頼朝が宗時を弔う寺を建てたという記録はない…と書かれているのは、北条氏の内部で宗時の重要さがそれほどでなかったのか?
その必要が無い程北条氏は時政の支配下で鎌倉幕府後援では一枚岩だった?

反対に決起した時からの苦労を思い返し義明あるいは一族に対する報謝の意を繰り返し三浦一族、そして他の家人達に見せる必要があったのかしら?
何の戦略もなく報謝の言葉を言ったり、見せびらかすような何かをするような単純な性格とは思えませんが?
 
 
 
源氏と三浦氏とは長い縁 (sakura)
2010-08-21 09:40:10
伊豆から出た北条氏はのちに権力を握りますが、頼朝が政子と知り合った頃の北条氏は兵力や所領も少ない伊豆の小豪族。頼朝の死後、北条氏が目障りな御家人を追い落としながらステップアップしてゆき、北条政権が確立するのは鎌倉時代中のことです。
歴史の表舞台に登場するまでの北条時政・政子については、正確な史料が少ないため彼らについては様々な解釈があります。緒戦で戦死した宗時についても北条氏の内部での宗時の立場など不詳。
頼朝が三浦一族のために三ヶ寺を建立した理由について「相模三浦一族とその周辺史」には、
「頼朝が家臣のために建立した寺院は、管見の限り三浦氏のものだけである。このことは三浦氏が源氏の外戚であり筆頭家臣であったことに他ならない。」と書いてあります。(義平の母が三浦大介義明の娘)
またこんな風にも考えられませんか。
頼朝の旗揚げの際、中心となって活躍したのが三浦一族、北条一族、土肥実平をはじめとする相模の武士団らでした。石橋山合戦で北条氏、土肥実平はじめ相模の武士らが三百騎、三浦一族が三百騎、衣笠合戦では三浦一族は四百五十騎動員しています。動員兵力がものをいう時代、頼朝が三浦一族を頼りにして挙兵に踏み切ったのは間違いないでしょう。百年も前、源頼義・義家の代から三浦一族は源氏に従い、平治の乱で義朝が敗れ、平家の世になっても源氏に心を寄せ、頼朝の挙兵にすぐに手を挙げた。
当時の頼朝は「貴種(源氏)再興の秋(とき)に逢う」といって賭けのような挙兵にいち早く駆けつけた三浦一族を心から信頼していたから、義明らを弔う寺院を建立して一族に恩賞を与えたのではないでしょうか。
三浦一族の本拠地のある三浦半島は鎌倉と地続き、和田義盛の父杉本義宗の本拠地杉本城は現在の杉本寺(鎌倉市)を含むその裏山一帯といいます。東国には動員兵力や所領の大きさからいえば三浦氏よりもっと強大な武士団がありますが、何か事が起これば真っ先に鎌倉に駆けつけることができる三浦氏には地の利があります。頼朝は当然この点にも目をつけて頼りにしていたでしょう。
大介義明の十七回忌といえば幕府も安定期、鎌倉殿は同族や家人が封建領主として強大化することを阻止し、その権力の座をより強いものにしたいという願望を持っていたため、警戒心と猜疑心が人一倍強かったのでしょう。これは封建社会が対立者の存在を許さない社会ですから、ある程度は宿命のようなものかも知れません。満昌寺に詣でて頼朝が「三浦大介百六つ(心の中に今でも義明が生きている)」と語ったというのもyukarikoさん流にいうなら対して「三浦一族を信頼している。」というポーズを三浦大介の遺族に見せたのかも知れません。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。