所詮、私が走るのはジョギング・ペース(1キロ6分)だからな、と、最近は自分に言い聞かせることにしている。青梅マラソンを間近に控えて、ちょっと焦っているからだ。
今シーズンは、10月1日の皇居ラン(15キロ)はご愛嬌として、12月4日の湘南国際マラソンに出場する予定だったが、棄権した。よりによってある資格試験の二次試験日程と重なり、いずれも同じような参加費(受験料)を支払って、じゃあ今後どちらに再チャレンジするチャンスがあるかと言えば、言わずもがな、試験とそのための対策・勉強など二度とやりたくないので、湘南は来年もあるじゃないかと、泣く泣く諦めたのだった。そのため、2月19日の青梅まで間が空いて中だるみになってしまったのと、折しも右足裏に違和感を覚えたのとが相俟って、年末年始を挟んで一ヶ月強も完全休養した。走ろうと思えば走れないわけではなかったのだが、歩くと関節が痛むという妙な(都合のよい?)病である。しかし、一向に良くなる気配がないまま、青梅マラソン出走まで一ヶ月を切ったので、待ち切れずにまた走り始めた。30キロとは言え、50歳を過ぎて、走り切る身体を造るためには、それなりに準備しなければならない。そこで、冒頭の割り切りである。所詮、ジョギング・ペースだから、体育系のクラブ活動をやっている中学生なら何の準備をせずとも走り切れるだろう、その程度のことだ、と。心肺機能への負担は大したことではない。足腰に負荷をかけ、内臓もびっくりしないように、怠けた身体にショックを与えて、引き締める必要があるのだ。
それにしても何故1キロ6分のジョギング・ペースなのか。市民ランナーにとって、サブ・フォー(マラソンで4時間を切ること)は一つの大きな目標であり、端的に壁だ。アメリカ駐在していた20年前は、私もまだ30代半ばの若造で、実に雑な準備でも、また別に便利な栄養補給ジェルもなく、靴もクッション性の低い地下足袋みたいなものでも、難なく4時間を切れた。では、50歳を過ぎれば、サブ・フォーを狙えないのかと言うとそうではなく、覚悟して週に何日も練習して1キロ5分半をちょっと切るペースを維持することが出来れば、なんとかなる。それを敢えてジョギング・ペース(1キロ6分)に留めるのは、恐らく人間にとって閾値みたいなものがあって、1キロ6分かけるのは、ひとえに「身体が楽」だからだ。冬場に週一、レース直前一ヶ月間は週二で通算100キロ強も走れば、なんとかなるので「心も楽」だ。そして人は50歳を過ぎる頃にはいろいろ欲も出て来て、こらえ性もなくなって、努力を惜しむ。別名「ずぼら」と言う。まあ、自己韜晦するならば、出来ることを(無理なく)やる、というところだ。それに私の場合、レース後半になると腹が減り、気力も萎えて、頑張りが利かなくなるので、記録を縮めるためには、練習を積むよりガス欠対策を打つ方が効果が高いのではないかという思いもある。空腹と気力には相関があるはずで、生命を維持するために、これ以上、腹に何も入れないで運動するのは良くない・・・と、脳が信号を送っているはずなのだ。そんなこんなで、ただでさえ加齢とともに、同じ練習量では記録が落ちるばかりの中で、1キロ6分を目安に、フル・マラソン4時間15分前後という控えめな記録達成を目指している。
仮に1キロ6分であっても、マラソンを完走するなんて凄いね、と人は言う。でもその陰で、その齢で無理して走って何が楽しいのかねえ、モノ好きだねえ、と思っているに違いないことは察しがつく。私の家内に言わせれば、辛い思いをすることになるのは分かっていて何故わざわざカネを払ってまでしてレースに出るかね!?ということになる。胸に手を当ててよーく考えてみると、結局、身体にキレが戻ってなんとなく心地良いのである。これは恐らく本能に関わることだから説明が難しい。岸田秀さんあたりは(昔、読んだものなのでいい加減な言い回しになるが)本能が壊れた(ある意味で欠陥)動物の人間は文化でそれを補うことで文明社会を築いたという。走るというのは、人間の心の奥底に沈み込んだ野性に風を吹き込むことだと、私は思う。それを心地良いと思えるかどうかは、0か1かの世界ではなく、誰しも程度の問題なので、意地・・・がないわけではないし、達成感・・・もないわけではない、マゾヒスティック・・・でないわけではないし、ナルシシズム・・・もないわけではない、そのあたりの配合・調合の妙によって、恐らく受け止め方が変わって来るのだろうと勝手に想像する。そこに健康問題(に伴う意思の問題)も絡んでくる。私は、いよいよコレステロール値が高くなって、このままでは大好きなラーメン(の卵麺)も好きに食べられなくなるかも知れないというショックに見舞われて、一念発起した。
身構える必要はないし、焦る必要もない。所詮、(学生時代であれば)ジョギング・ペースなのだ、と自分に言い聞かせる。4時間以上も運動し続ければ腹は減るだろう・・・ではなく、運動するったってたかがジョギング・ペースだろう・・・と暗示をかける。呑んでかかれば、あるいは脳の信号に身体が反応するかも知れないと秘かに期待する。思うに人間とは儚い生き物である。
今シーズンは、10月1日の皇居ラン(15キロ)はご愛嬌として、12月4日の湘南国際マラソンに出場する予定だったが、棄権した。よりによってある資格試験の二次試験日程と重なり、いずれも同じような参加費(受験料)を支払って、じゃあ今後どちらに再チャレンジするチャンスがあるかと言えば、言わずもがな、試験とそのための対策・勉強など二度とやりたくないので、湘南は来年もあるじゃないかと、泣く泣く諦めたのだった。そのため、2月19日の青梅まで間が空いて中だるみになってしまったのと、折しも右足裏に違和感を覚えたのとが相俟って、年末年始を挟んで一ヶ月強も完全休養した。走ろうと思えば走れないわけではなかったのだが、歩くと関節が痛むという妙な(都合のよい?)病である。しかし、一向に良くなる気配がないまま、青梅マラソン出走まで一ヶ月を切ったので、待ち切れずにまた走り始めた。30キロとは言え、50歳を過ぎて、走り切る身体を造るためには、それなりに準備しなければならない。そこで、冒頭の割り切りである。所詮、ジョギング・ペースだから、体育系のクラブ活動をやっている中学生なら何の準備をせずとも走り切れるだろう、その程度のことだ、と。心肺機能への負担は大したことではない。足腰に負荷をかけ、内臓もびっくりしないように、怠けた身体にショックを与えて、引き締める必要があるのだ。
それにしても何故1キロ6分のジョギング・ペースなのか。市民ランナーにとって、サブ・フォー(マラソンで4時間を切ること)は一つの大きな目標であり、端的に壁だ。アメリカ駐在していた20年前は、私もまだ30代半ばの若造で、実に雑な準備でも、また別に便利な栄養補給ジェルもなく、靴もクッション性の低い地下足袋みたいなものでも、難なく4時間を切れた。では、50歳を過ぎれば、サブ・フォーを狙えないのかと言うとそうではなく、覚悟して週に何日も練習して1キロ5分半をちょっと切るペースを維持することが出来れば、なんとかなる。それを敢えてジョギング・ペース(1キロ6分)に留めるのは、恐らく人間にとって閾値みたいなものがあって、1キロ6分かけるのは、ひとえに「身体が楽」だからだ。冬場に週一、レース直前一ヶ月間は週二で通算100キロ強も走れば、なんとかなるので「心も楽」だ。そして人は50歳を過ぎる頃にはいろいろ欲も出て来て、こらえ性もなくなって、努力を惜しむ。別名「ずぼら」と言う。まあ、自己韜晦するならば、出来ることを(無理なく)やる、というところだ。それに私の場合、レース後半になると腹が減り、気力も萎えて、頑張りが利かなくなるので、記録を縮めるためには、練習を積むよりガス欠対策を打つ方が効果が高いのではないかという思いもある。空腹と気力には相関があるはずで、生命を維持するために、これ以上、腹に何も入れないで運動するのは良くない・・・と、脳が信号を送っているはずなのだ。そんなこんなで、ただでさえ加齢とともに、同じ練習量では記録が落ちるばかりの中で、1キロ6分を目安に、フル・マラソン4時間15分前後という控えめな記録達成を目指している。
仮に1キロ6分であっても、マラソンを完走するなんて凄いね、と人は言う。でもその陰で、その齢で無理して走って何が楽しいのかねえ、モノ好きだねえ、と思っているに違いないことは察しがつく。私の家内に言わせれば、辛い思いをすることになるのは分かっていて何故わざわざカネを払ってまでしてレースに出るかね!?ということになる。胸に手を当ててよーく考えてみると、結局、身体にキレが戻ってなんとなく心地良いのである。これは恐らく本能に関わることだから説明が難しい。岸田秀さんあたりは(昔、読んだものなのでいい加減な言い回しになるが)本能が壊れた(ある意味で欠陥)動物の人間は文化でそれを補うことで文明社会を築いたという。走るというのは、人間の心の奥底に沈み込んだ野性に風を吹き込むことだと、私は思う。それを心地良いと思えるかどうかは、0か1かの世界ではなく、誰しも程度の問題なので、意地・・・がないわけではないし、達成感・・・もないわけではない、マゾヒスティック・・・でないわけではないし、ナルシシズム・・・もないわけではない、そのあたりの配合・調合の妙によって、恐らく受け止め方が変わって来るのだろうと勝手に想像する。そこに健康問題(に伴う意思の問題)も絡んでくる。私は、いよいよコレステロール値が高くなって、このままでは大好きなラーメン(の卵麺)も好きに食べられなくなるかも知れないというショックに見舞われて、一念発起した。
身構える必要はないし、焦る必要もない。所詮、(学生時代であれば)ジョギング・ペースなのだ、と自分に言い聞かせる。4時間以上も運動し続ければ腹は減るだろう・・・ではなく、運動するったってたかがジョギング・ペースだろう・・・と暗示をかける。呑んでかかれば、あるいは脳の信号に身体が反応するかも知れないと秘かに期待する。思うに人間とは儚い生き物である。