風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

遊びの効用

2017-02-26 23:19:17 | 日々の生活
 先週、藤原和博さんがあるコラムで語っていたことが印象に残った。タイトルは、「10歳までにどれだけ遊んだか…でアタマの柔らかさが決まる」というものだ。
 冒頭、「正解のない問題に対してアタマを柔らかくして縦横無尽に考える作法は『遊び』のなかで育まれます。10歳までにどれほど遊んだか、子ども時代に想定外のことにどれほど対処したかが大事なんです」と述べられる。例えば、缶けり遊びを取り上げ、「自分が鬼の場合、缶からどれくらい離れて、隠れているやつらを見つけに行ったらいいのか。あの倉庫の裏に何人、あの木の後ろに何人。そんな空間的なイメージをして、距離を測りながら探しに行きます。こういう遊びが空間認識を鍛えるんです」と言う。「また、鳥瞰図的な世界観は、木に何度も登ったことがないとつきにくいかもしれません。平面図の世界を斜め上から見るとどう見えるのか、高いところに登って同じ風景を繰り返し見たことがなければ実感できないでしょう」とも言う。そして、「こうした遊びのなかで獲得する空間認識が、図形や立体の問題を解くのに大事なんだそうです。図形問題を見たときに、問題を解く鍵になる接線や補助線が想像できるかどうか。円と円があったら、その円同士の接線を見出したり、多角形のなかにいくつも三角形となる補助線を引く力のことです。このように、アタマの柔らかさは『遊び』のなかで育まれます」と結論づける。
 他方、「保守的な官僚や仕事のできないビジネスパーソンに特徴的なのは、『遊び』がないこと。『学力』があるので、物事を高速で処理する力は高いのだろうけれど、『遊び』の体験の蓄積や、イマジネーションが欠乏しているケースが多いのです。その意味では、高級官僚や医者や弁護士などの職種が、小学校の低学年から受験勉強に追われた人たちに支配されるのは、社会的には非常にリスクが高いと言えるのではないでしょうか?」とまで言われる。
 これまでにも、東大と京大の数学の入試問題の違いについて、何度かブログに書いて来た。最近はどうか知らないが、私が受験生の頃、試しに解いてみた東大の数学は、解答を導くための方針はすぐに立つが、そこに至る計算が恐ろしく面倒で、それを如何に要領良く処理できるかがポイントだったように思う。それに対して京大の数学は、全てが全てそうだというわけではないが、中には全く見当がつかない問題があり、文科系では5問中、3問半が合格ラインと言われた、その「半」というのは、そんな奇抜な問題に対して、このように考えたら解けるだろう、くらいのアプローチを書いて点数を稼ぐのだと、今で言う都市伝説のように語られたものだった。双方の大学の特徴をよく表していたように思う。それぞれお膝元の地域の受験事情も対照的で、東京では私立の(中高一貫)進学校を目指すのが一般的で、早い内(例えば小学校)から受験勉強を始めるのに対し、大阪では公立の進学校(高校)が健在で、私自身、初めて受験を経験したのは中学三年で、それまではのんびりよく遊んで過ごしていた。
 先日、ある講演を聴いていると、受験勉強に慣れた人はビジネスでは上手く行かない、逆に大成した人で二浪、三浪した人も珍しくない、と言う。ビジネスには確たる答えがないことが多いからで、答えは一つと思って努力しても甲斐がないからだが、それは極論にしても、8~9割の人は平均点を上げる(つまり弱点を克服する)勉強でよいけれども、一握りの人は放任し好きなことをやらせる(つまり得意なことを極める)のが良いという主張には、なんとなく納得させられる。慶應の先端生命科学研究所長の冨田勝教授が学生を指導する中で得られたご経験だそうである。
 子供は、年齢に応じた子供らしい遊びをすることが重要だと、私も思う。その自然な発展段階の中で様々な知恵を身につけていく。子供は言わば白紙のキャンバスであって、少しずつ世の中を知るにつれて想像を膨らませる。少し知るからこそ想像力を働かせる余地が多分にあるのであって、全て知ってしまえばそれまでだ。だから子供の回答は想定外のことが出て来て興味が尽きないが(昔、「あっぱれさんま大先生」という番組があった、あの面白さである)、大人は知識や経験が仇になって、回答に面白みがない。よく遊んだ子供が全て図形問題で補助線を想像出来るとは思わないが、多かれ少なかれ柔軟さが身につき思考の幅があるようには思う。
コメント
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