風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

アジア点描・サイゴン

2014-11-18 00:15:04 | 永遠の旅人
 今回の出張で訪れた三つ目の都市・ホーチミン市(Ho Chi Minh City、略称HCMC、人名と区別するためにCityを付けるそうです)では、今なお旧名サイゴンが公式・非公式にさまざまな場面で使われ、都市名としてはホーチミンよりも通じるほど(Wikipedia)なのだそうです。なんだか同じベトナムでありながら占領・被占領の人々の間の微妙な感情が垣間見えます。「サイゴン」と言うと、私には、子供の頃、新聞一面を飾った「サイゴン陥落」の文字が強烈に印象付けられ、一種のノスタルジックな感情を催します。子供でしたから、当時、何を思ったか、その後に加えらえた感情も入り混じって、今となっては正確に思い出せませんが、国が戦に敗れることの悲哀(戦後世代にとっては想像力の世界ですが)、しかも、代理戦争だったとは言え、圧倒的な強さを誇り世界の警察官を任じる、あのアメリカでも敗れるという、俄かには信じ難い衝撃と一種の脱力感のようなものに彩られ、なんとも曰く形容しがたいものがあります(と、このように表現すると、後年の脚色まみれになりますが)。しかし「ホーチミン市」と言うと、もはやそんな情念渦巻く印象は掻き消され、明らかに戦後の町になってしまいます。
 珍しく今回の出張では週末を挟み、土曜日にホーチミン市からシンガポールを経由してメルボルンに移動する日程で、どうせシンガポール発の夜行便に乗るので、ホーチミン市でなるべく長い時間を過ごすことにし、土曜の朝、ホテルから歩いて15分というので、散歩がてら統一会堂 (Dinh Thống Nhất)を訪れました。
 これは、南ベトナム政権時代の旧大統領官邸で、閣議室から、応接室、宴会場、寝室、映画館やダンスホールやビリーヤード台のほか、屋上には常に緊急用ヘリが待機し、地下には指令室や通信室など軍事施設を備え、大小100以上の部屋がある豪勢なもので、今でも国賓や会議の際に利用され、普段は観光客向けに一般公開されています。地下には立入禁止の通路や開かずの間が多く、どうもその先の通路の一つはタンソンニャット空港まで続いているという噂もあるようです。何より、1975年4月30日、所謂(北の)解放軍の戦車が無血入城を果たし、ベトナム戦争が終結した歴史的な建物でもあります。先ほど触れたように、アメリカ的な文脈では「サイゴン陥落」と呼ばれ、現地では「サイゴン解放」と呼ばれるものです。
 ロバート・カプラン氏は近著「南シナ海」で、「8世紀のチャンパ王国(注:ベトナム中部沿海地方に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国、192~1832年)は、北はダナンから南はドンナイ川平原まで領土を広げた」とジャン・フランソワ・ウベール氏が「チャンパの芸術」(The Art of Champa)に書いたくだりを引用し、「これをベトナム戦争の時代にたとえると、北限がベトナム戦争時代の軍事境界線、南限がサイゴンだ。よって、ウベールの中世の地図は、冷戦時代の地図をそのまま示している」と言い、「ベトナム南部の歴史・文化の伝統の源となっているチャンパ王国は、中国化した大越(注:北部の王国で、1000年以上も中華帝国の属州だった)よりも、つねにクメール王朝(9~15世紀まで東南アジアに存在していた王国で、現在のカンボジアの元となった国)やマレー人の世界との関係が深かった」と述べています。ベトナム戦争で戦った北と南は、当時のソ連とアメリカからそれぞれ支援を受けつつ、中華圏に属する地域と、南アジアおよび東南アジア圏に属する地域の歴史的な対立だったとも言えるのを知ると、感慨深いものがあります。東南アジアというのは、奥が深い。
 上の写真は、統一会堂から見る敷地内の前庭と、その先にはレユアン通り。この道を解放軍の戦車がやって来たのかと思うと感慨深いのですが、今はその面影すらなく、観光客が訪れる公園であり、オートバイが疾駆する成長著しいベトナムの喧騒の街の一角でしかありません。
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